新日本石油 の歴史

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創業 1888年
創業者 内藤久寛・山口権三郎
創業地 新潟県刈羽郡石地
創業
1888年5月、内藤久寛氏と山口権三郎氏らが新潟県刈羽郡石地に有限責任日本石油会社を創立した。手掘りの個人経営が広がっていた新潟で、同社は米国から綱索式鑿井機械を輸入し、三島郡尼瀬の海底油田で掘鑿を試みる。1891年の出油は同業者を機械掘りへ転換させ、石油業が近代的な企業組織へ移る契機となった。1921年10月には宝田石油と合併して資本金8,000万円となり、輸入原油を国内で精製する体制へ移る。1942年4月、政府の勧奨で鉱業部門を帝国石油へ譲渡し、創業以来の採掘と精製の兼営が断たれて精製専業になった。1999年4月に三菱石油と合併して日石三菱となり、2002年6月に新日本石油へ商号を改めている。
決断
精製能力で差がつかない制度のもとでは、原油を運ぶ側に投資するほかなかった。1962年施行の石油業法は、政府が5年間の需要見通しから供給計画を立て、その枠内で各社に設備の新増設を許可する仕組みだった。許可が下りればフル稼働が事実上約束される反面、精製能力そのものでは差がつかない。同社は1967年3月に日本石油基地を設立し、1969年10月に鹿児島・喜入へ貯蔵能力360万キロリットルの原油中継輸送基地を築いた。信濃川河口の新潟製油所には3万5,000トン級しか入れず、ねらいは運賃にあった。2006年2月には連産品という精製の制約を前提に10年2,000億円の製油所改造に着手し、ガソリンを主産物から副産物へ落とすところまで出口の組み替えを進めた。
現況
単独で完成させられなかった構想を二つ抱えたまま、市場から退いた。上流を厚くする計画は2005年12月に行き詰まる。同社は帝国石油の筆頭株主でありながら帝国石油と国際石油開発の経営統合案に反対し、株式移転比率の妥当性を問い、帝石株を20%超まで買い増した。統合は成立し、上流の戦略は作り直しを迫られる。業績は原油価格に振られ続け、2008年3月期に売上高7兆5,240億円まで伸びる一方で経常利益は2,757億円にとどまり、2009年3月期は売上高7兆3,892億円に対し経常損益が2,754億円の赤字に転じた。最終期の2010年3月期は売上高5兆7,743億円・当期純利益433億円と黒字化したうえで、同年3月に5つの証券取引所で上場を廃止した。
競合
外資の原油と技術を取り込むかどうかで、民族系の道は二つに割れた。1949年3月、日本石油はカルテックスと契約を結び、1951年10月に横浜・下松の両製油所を現物出資して折半出資の日本石油精製を設立する。本体には外資を直接入れない形だった。同じ時期、出光興産は国際石油カルテルに与せず、産油国と直接取り引きする道を選んでいる。外資の原油と技術を取り込んだ側は精製設備の近代化で先行し、拒んだ側は調達と輸送を自前で持った。国内燃料油では同社が最大手を保ったが、1996年の特石法廃止で価格の秩序が崩れると、規模そのものが再編の単位になる。2010年4月のJXホールディングス設立で、単独で意思を決める立場は失われた。
新日本石油:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1980年3月期2009年3月期
新日本石油における経営の転換点(その1) Q なぜ1888年に内藤久寛らは新潟で民族系の石油会社を設立したのか
A 新潟で石油が採れることは古くから知られ、明治の初めには個人経営の手掘りが各地に広がっていた。問題は深さだった。手掘りで届く浅い油層は尽き、機械掘りに移らなければ産出量は増えない。鑿井機械は米国から輸入するほかなく、個人の元手では届かなかった。内藤久寛氏と山口権三郎氏らが1888年5月に新潟県刈羽郡石地で有限責任日本石油会社を創立したのは、この資本を集めるためであろう。同社は綱索式鑿井機械を輸入し、三島郡尼瀬の海底油田で1891年に多量の出油に成功した
新日本石油における経営の転換点(その2) Q なぜ1969年に日本石油は喜入へ大規模な原油基地を築いたのか
A 1962年施行の石油業法のもとで精製設備の新増設は許可制であり、設備の量では差がつかない。差は原油を運ぶ側で作るしかなかった。1969年10月に完成した鹿児島県喜入町の原油中継輸送基地は、貯蔵能力360万キロリットルを備えていた。運賃を削るための基地だった。新潟製油所は信濃川の河口にあって3万5000トン級しか入れないのに対し、喜入には50万重量トン級を着けられた。巨大船で鹿児島まで運び、中小型船で各製油所へ配れば輸送費が下がる。1971年9月には37万重量トン級の日石丸が就航した。
新日本石油における経営の転換点(その3) Q なぜ2010年に国内最大手の元売りが単独での存続をやめたのか
A 単独をやめた理由は、規模ではなく損益の作られ方にある。2009年3月期は売上高7兆3892億円に対して経常損益が2754億円の赤字、当期純損益は2516億円の赤字だった。原油価格の急落が在庫の評価を直撃したためで、原油相場が利益を決める構図は最後まで変わらなかった。国内の燃料油需要は減り続け、設備の過剰は1社では整理できない。新日鉱ホールディングス傘下のジャパンエナジーとは2006年6月に業務提携を結び、水島製油所を一体で運営する構想を進めていた。両社を合わせた国内燃料油シェアは35%に達していた

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新日本石油の沿革1888〜2010年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1888〜1945年新潟の油田に機械掘りを持ち込み、戦時統制下で国内精製の8割を占めるまで内藤久寛・山口権三郎らが有限責任日本石油会社を創立
日本石油に商号変更
宝田石油を合併。日宝対立と呼ばれた民族系二社の並立が終わる★★
道路部門を分離して日本鋪道を設立
戦時統制下で石油共販に販売業務を委譲
小倉石油を吸収合併
鉱業部門を帝国石油に譲渡
愛国石油を合併。国内精製能力の約8割、石油割当の約7割を占めるに至る★★
麻里布製油所が完成翌日に被災
1946〜1985年靴墨で食いつないだ戦後から、喜入基地と日石丸による大量輸送体制まで東京・大阪・名古屋の各証券取引所に株式を上場
東京タンカーを設立
カルテックスとの折半出資で日本石油精製を設立★★
日本石油化学を設立
石油化学事業に参入★★
日本石油精製の室蘭製油所が完成
日石本館が完成
九州石油との間で、同社の自社販売分を除く生産全量を購入・販売する契約を締結
日本石油精製の根岸製油所が完成
日本石油基地を設立
原油中継輸送基地(CTS)が完成
興亜石油の大阪製油所が完成
東北石油の仙台製油所が完成
鹿児島・喜入への原油中継輸送基地(CTS)の建設と、37万重量トン「日石丸」の就航

日本石油が1969年10月に鹿児島県喜入町へ貯蔵能力360万キロリットルの原油中継輸送基地(CTS)を完成させ、1971年9月に37万2,698重量トンのタンカー『日石丸』を就航させた投資。基地の運営は子会社の日本石油基地が担い、出資比率は日本石油50%、日本石油精製33.3%、興亜石油16.7%であった。

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シンガポール法人 Nippon Oil (Asia) Pte.Ltd. を設立
三菱石油と仕入・精製・物流・販売の分野で業務提携★★
1986〜2001年特石法の廃止で価格の秩序が崩れ、民族系最大手が合併に踏み切るまで日石アジア石油開発を設立
日本石油精製を完全子会社化
日本石油と三菱石油の合併「日石三菱」(1999年成立)

1999年4月、石油元売り大手の日本石油が三菱石油を吸収合併し、日石三菱が発足した案件。石油製品全体で約25%のシェアを握る国内最大の元売りが生まれた。

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★★★
公開買付けにより興亜石油を子会社化★★
コスモ石油と仕入・精製・物流・潤滑油の分野で業務提携
2002〜2010年ガソリンの外側へ利益の源を移そうとした、新日本石油としての8年新日本石油に商号変更
西尾進路氏が社長に就任
帝国石油と国際石油開発の経営統合案への反対と、帝石株の買い増しによる20%超の取得

2005年11月初旬、帝国石油と国際石油開発が共同持株会社による経営統合を発表した。帝石株の16.4%を持つ筆頭株主であった新日本石油は、約167億円で1200万株(3.9%)を追加取得して持ち分を20%超へ引き上げ、渡文明会長が統合案に異議を唱えた経営判断である。

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ガソリンから石油化学基礎製品への生産構成の組み替えと、10年2000億円の製油所改造

新日本石油が2003年に打ち出し、2006年に全容が伝えられた製油所の改造計画。完成の目標は2015年、10年間の投資額は2000億円以上を見込んだ。

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新日鉱HDとの間で、株式移転による経営統合契約を締結★★
新日本石油と新日鉱ホールディングスの経営統合とJXホールディングス設立

2008年12月、石油元売り最大手の新日本石油と、石油・金属を手掛ける新日鉱ホールディングスが経営統合で合意し、2010年4月に共同持株会社JXホールディングスを設立した経営判断。1999年の日本石油・三菱石油合併以来、10年ぶりの大型再編となった。

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出典・参考

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