新日本石油鹿児島・喜入への原油中継輸送基地(CTS)の建設と、37万重量トン「日石丸」の就航

製油所ごとに違う着桟条件を、鹿児島の一点と37万トン船で解いた投下資本500億円

時期 1971年9月
意思決定者(推定) 日本石油 取締役会
論点 原油の受け入れ・輸送体制と大型設備投資
概要
日本石油が1969年10月に鹿児島県喜入町へ貯蔵能力360万キロリットルの原油中継輸送基地(CTS)を完成させ、1971年9月に37万2,698重量トンのタンカー「日石丸」を就航させた投資。基地の運営は子会社の日本石油基地が担い、出資比率は日本石油50%、日本石油精製33.3%、興亜石油16.7%であった。
背景
石油業法のもとで精製設備が各地に置かれた一方、15万トンタンカーが着桟できるのは根岸と麻里布の2製油所だけで、新潟製油所には3万5000トン級しか入れなかった。タンカーの大型化が進むほど、船と桟橋の寸法差が輸送費に跳ね返った。
内容
第1期に30万坪を埋め立てて10万トンタンク18基を建て、1972年12月までに30基へ増設する。さらに60万坪への倍増と15万トンタンク24本を加え、貯油能力660万トン、投下資本約500億円を見込んだ。狙いは運賃メリット、備蓄の増強、売船ロスの回避の三つに置かれた。
含意
石油製品の内需の伸びは1971年度に一桁へ落ち、設備過剰と船腹過剰が同時に進んだ。喜入の基地が広く評価を得たのは1973年の石油ショック後で、運賃を下げる装置としてよりも、備蓄の装置としてであった。
筆者の見解

運賃のために建て、備蓄として残った

製油所ごとに着けられる船の寸法が違う——喜入への投資は、この一点への答えであった。15万トン級を受けられるのは根岸と麻里布だけ、新潟は3万5000トン級という条件のもとでは、船を大型化しても効きは桟橋で頭打ちになる。原油を降ろす場所を精製する場所から切り離し、鹿児島の一点へ大型船を着けて中小型船で配る。投下資本約500億円は、当時の年間経常利益110億円のおよそ5年分にあたる。

運賃メリットの前提であった需要の伸びは、基地が動き出した直後に年18.8%から一桁へ落ち、鈴木常務自身が1974年度あたりからの設備過剰を口にした。船腹は余り、売船ロスも出た。喜入が広く評価を得たのは、1973年の石油ショックで貯油そのものに値がついてからである。運賃のために建てた装置が、備蓄の装置として残った。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

需要の急増と、許可制のもとで散った精製設備

1960年代を通じて、日本の石油消費は桁を変えて増えた。一次エネルギーに占める石油の比率は1962年度に46.1%となって初めて石炭の36.6%を上回り、1967年度には需要が1億キロリットル、1972年度には2億1,000万キロリットルに達した。精製設備もこれを追い、1962年7月に施行された石油業法のもとで、業界の能力は施行時の日量114万8000バレルから1966年末に221万バレル、1971年末には410万バレルへ増えた[1][2]

需要を国内で精製する体制は、輸入原油をどこで受けるかという問題と裏表であった。1967年2月、総合エネルギー調査会は初の答申で、貯油の増強と、大型タンカーによる共同配船・大規模輸入基地の建設といった輸送の合理化を並べた。日本石油は1951年、カルテックスとの折半出資で日本石油精製を設立し、輸入原油を消費地で精製する体制をすでに敷いていた。答申が促したのは、その手前にある受け入れ側の作り方であった[3][4]

製油所ごとに違う、入港の制限

日石グループの精製の主力は、日本石油精製の横浜・下松・室蘭・根岸の4製油所で、能力は合計で日量43万2,000バレルであった。ここに日本石油自身の新潟製油所の2万6,000バレル、提携先の興亜石油が麻里布・大阪の2製油所で持つ22万9,000バレルが加わり、グループ合計は68万7,000バレルに達した。うち根岸製油所は31万バレルを占め、1カ月に150万キロリットルの製品を出す規模であった[5]

規模に比べて、船を着ける条件は揃わなかった。15万トンタンカーが着桟できるのは根岸と麻里布の2カ所だけで、残る製油所は10万トン以下の船に限られる。信濃川の河口にある新潟製油所には、3万5000トン級しか入れない。一方でタンカーは、1950年代に一般的であった4万〜5万トンから、1965年ごろの8万〜10万トン、1966年の20万トン級「出光丸」へと大型化しており、船と桟橋の寸法差はひらいた[6][7]

決断

鹿児島・喜入という一点に降ろす

1969年10月、日本石油は鹿児島県喜入町に貯蔵能力360万キロリットルの原油中継輸送基地を完成させた。原油を製油所へ直送せず、いったん一点に降ろしてから配るCTS方式を、国内で最初に採った例である。運営は子会社の日本石油基地が担い、出資は日本石油50%、日本石油精製33.3%、興亜石油16.7%。資本金39億円は1972年11月に60億円へ増やす計画で、タンクは償却できても土地はできないため、資本金は土地代に見合う額としていた[8][9]

第1期は30万坪を埋め立て、10万トンタンクを18基建てた。1972年12月までに12基を足して30基とし、同じ年にさらに30万坪を埋めて60万坪へ倍増する。新しい埋立地には1973年度中に15万トンタンクを4本、以後は年に2本ずつ加え、1980年ごろに24本とする計画であった。合わせた貯油能力は660万トン、投下資本は約500億円と見込まれた。喜入には50万重量トン級の船を着けられる[10]

「日石丸」と、三つの狙い

基地と対になるのが船であった。1971年9月、日本石油は37万2,698重量トンの「日石丸」を就航させた。1973年2月には英グローブティックが建造する47万トン船を借り受け、1974年にも同型を、1975年には子会社の東京タンカーが47万トンを上回る第2日石丸を建造する計画を置いた。中東から新潟へ3万5000トン級で直送するより、巨大船で喜入まで運び、そこから製油所に合う中小型船で配るほうが運賃は安くなる[11][12]

常務取締役の鈴木淳三郎氏は、基地の利点を三つに数えた。第1は船型差による運賃である。第2は貯油能力の増強で、製油所内にタンクを建てずに済めば、その土地は精製能力の拡張へ回せる。第3は売船ロスの回避であり、船腹が余っても再用船に出さず、基地まで運んで貯めておける。夏の安い運賃でスポット用船し、冬に使う手も持てる。中東原油のうち基地を通る比率は1971年度実績で約51%、1972年度は70%を見込んだ[13]

結果

伸びなかった需要と、積み上がる設備

投資が形になるころ、前提の一つが崩れた。石油製品の内需は1965年度から1970年度まで年平均18.8%増で伸びていたが、1971年度上期は前年同期比7.9%増に落ち、下期は4.8%増程度にとどまる見込みとなった。1972年度から1976年度までの供給計画も年平均10.6%増へ緩み、鈴木常務は1974年度あたりから設備過剰になるのではないかとの見方を示した。船腹も余り、売船ロスが出た[14]

日本石油の単独売上高は1972年3月期に5,220億円、経常利益は110億円で、前期の4,623億円・107億円から利益はほぼ横ばいであった。一方でグループの原油処理能力は1974年度末に日量92万7,000バレルへ増え、業界全体の605万2,000バレルに対する設備シェアは15.3%となる見通しであった。設備が計画どおり積み上がる裏側で、それを埋める需要の側が細っていた[15][16]

石油ショックが与えた、別の意味

1973年10月、第4次中東戦争を機にアラブ産油国が減産と禁輸に踏み切り、アラビアンライトの公示価格は2カ月あまりで3.8倍に上がった。日本の石油依存度は75%、中東依存度は80%で、供給の7割以上をメジャー経由に頼っていた。1972年度から石油備蓄の増強が始まっており、1973年9月末の在庫は58.3日分あった。喜入の基地は、この時期に運賃を下げる装置としてではなく、備蓄の装置として評価を受けた[17][18]

もっとも、原油価格そのものは基地では受け止められなかった。中東原油は1970年11月から1971年6月までに平均44.3セント上がり、同年10月にメジャーが約5セント、通貨調整を機にOPECがさらに11.5セントを上乗せして、この間の上昇は約61セントに達した。日本石油が使用量の3割を占めるインドネシア原油も1971年に2度上がった。輸送で削った分は、原油の値段の側で相殺された[19]

出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 1972年3月号(第10巻第3号)「日本石油グループの現状と将来」(日本石油 鈴木淳三郎常務取締役 講演要旨。日本証券アナリスト協会企業分析部会 1972年2月22日・東京)
  • 『日本産業史』第3巻 エネルギー・資源「石油-高度成長の光と影、石油ショック」(高村寿一・小山博之編, 日経文庫, 日本経済新聞社, 1994年)
  • 『日本産業史』第3巻 機械・輸送機「造船重電-未曾有の拡大期」(高村寿一・小山博之編, 日経文庫, 日本経済新聞社, 1994年)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本石油」
  • 日本石油 会社年鑑(1976年版・単独業績)

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