出光興産 の歴史

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創業 1900年
創業者 出光佐三
創業地 福岡県門司市
創業
1911年6月、出光佐三氏が福岡県門司市で個人商店の出光商会を興し、関門地区で石油販売業を始めた。元手は知人の日田重太郎氏が返済も利子も求めずに融通した8,000円である。神戸高等商業学校を出ながら小さな油商へ丁稚奉公に入った経歴で、商材には毎月売れる機械油を選んでいる。門司には日本石油やスタンダードの拠点がすでにあり、佐三氏が向かったのは陸上の需要ではなかった。1913年に下関で発動機付き漁船の燃料油、1914年に満州で旧満鉄への機械油と販路を広げ、以後は華北・朝鮮・台湾・華中へ店舗を伸ばす。1940年3月、軍の命令で出光興産株式会社へ組織を変えた。
決断
外部の資本も業界の協調も入れない構えを、自分から解いた。1953年5月、イラン石油の国際的な封鎖に対し、自社タンカー日章丸二世をイランへ差し向けて原油を直接輸入した。1963年11月には生産調整に反対して石油連盟を脱退し、1966年10月の調整撤廃まで単独路線を続けた。系列外の流入を締め出すため、1978年時点で全国8,100カ所のスタンドのうち1,100カ所を自社で所有している。この構えを崩したのは資金だった。2000年6月に議決権のない優先株で37年ぶりに外部資本を入れ、2005年10月には優先株を消却して普通株へ組み替え、翌2006年10月に東京証券取引所市場第一部へ上場した。個人商店を理想とした会社が外部の株主に開かれるまでに、95年かかった。
現況
売上の8割を燃料油が占めるが、採算では高機能材と資源が伸びている。2026年3月期の連結売上高は8兆1,059億円、営業利益2,122億円。燃料油が売上の83.8%にあたる6兆7,934億円を占め、セグメント利益1,750億円でも最大である。ただし国内需要の縮小に合わせて精製能力は減らし続け、2014年3月に徳山製油所の12万バレル/日、2024年3月に西部石油山口製油所の12万バレル/日を停止した。この売上規模は2019年4月に完了した昭和シェル石油との統合によるもので、統合前の2016年3月期は営業損失196億円・純損失360億円だった。利益では高機能材が348億円、資源が292億円と伸び、基礎化学品と電力・再生可能エネルギーはいずれも損失を計上している。
競合
統合の相手は違ったが、国内元売が2社へ集約される過程は同じだった。2017年4月、JXホールディングスが東燃ゼネラル石油を株式交換で完全子会社とし、国内燃料油販売の5割超を握る。出光は2016年12月に昭和シェル石油の議決権31.3%を取得し、翌2017年7月に公募増資で創業家の持株比率を3分の1未満へ薄めた。創業家はサウジアラムコ資本の受け入れが独立の理念に反すると反対したが、2018年6月に同意へ転じ、2019年4月の株式交換で統合が成立した。売上高では8兆1,059億円とENEOSホールディングスの11兆7,655億円でおよそ7割の位置につけるものの、2026年3月期の営業利益は2,122億円と4,666億円で、差は倍以上に開いている。

創業ストーリー 門司の機械油行商から、大陸80店の販売網へ (1911年〜)

電化で先細ると止められた機械油を選ぶ

1911年6月、出光佐三氏は福岡県門司市(現・北九州市門司区)で個人商店の出光商会を興し[1]、関門地区を中心に石油販売業を始めた。元手は知人の日田重太郎氏が返済も利子も報告も求めずに融通した8,000円[2]である。神戸高等商業学校を出ながら小さな油商へ丁稚奉公に入った[3]経歴で、前垂れ掛けの店に学校出が入ったことを友人は『学校のつらよごし』と非難した[4]。佐三氏が商材に選んだのは小麦粉ではなく機械油で[5]、潤滑油は毎月売れるためまず衣食の道が立つという読みによる。門司では日本石油やスタンダードにいた先輩たちが、電化の進展で油の需要は先細ると独立を止めた[6]が、佐三氏は方針を変えなかった。

  • 出光興産 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1911年6月 出光佐三が福岡県門司市で出光商会を創設し関門地区中心に石油販売を開始
  • 出光佐三「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [2]創業の元手 日田重太郎が融通した8,000円(返済・利子・報告を求めず)
    • [3]神戸高等商業学校卒業後に小規模な油商へ丁稚奉公
    • [4]前垂れ掛けの店に学校出が入ったことへの友人の非難「学校のつらよごし」
    • [5]商材に小麦粉でなく機械油を選択 潤滑油は毎月売れて衣食の道が立つという読み
    • [6]先輩らが電化の進展で油の需要は先細ると独立を止めた

佐三氏が向かったのは陸上の電化ではなく動きつつある需要で、1913年に下関で発動機付き漁船の燃料油販売に着手し[7]、1914年には満州へ進出して旧満鉄への機械油納入を足掛かりとしている[8]。以後は華北・朝鮮・台湾・華中へ順に店舗網を広げた[9]。株主も債権者も持たない個人商店であったため[10]、問屋を介さず消費者へ直接売る形を最初から通せている。1932年時点で各種油類の年間売上高は1000万円を超え[11]、国産石油の担い手として戦前から一定の地位を得た。

  • 出光佐三「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [7]1913年 下関で発動機付き漁船の燃料油販売に着手
    • [10]株主も債権者も持たない個人商店として問屋を介さない直売を選択
    • [8]1914年(大正3年)満州へ進出し旧満鉄への機械油納入を足掛かりとした
    • [9]満州進出後 華北・朝鮮・台湾・華中等へ店舗網を拡張
  • 石油時報 1932年9月号「石油市場の尖端をいく・出光商会主・出光佐三氏」
    • [11]1932年時点 各種油類の年間売上高が1000万円超、国産石油の担い手として一定の地位
  • 出光興産 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1911年6月 出光佐三が福岡県門司市で出光商会を創設し関門地区中心に石油販売を開始
  • 出光佐三「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [2]創業の元手 日田重太郎が融通した8,000円(返済・利子・報告を求めず)
    • [3]神戸高等商業学校卒業後に小規模な油商へ丁稚奉公
    • [4]前垂れ掛けの店に学校出が入ったことへの友人の非難「学校のつらよごし」
    • [5]商材に小麦粉でなく機械油を選択 潤滑油は毎月売れて衣食の道が立つという読み
    • [6]先輩らが電化の進展で油の需要は先細ると独立を止めた
    • [7]1913年 下関で発動機付き漁船の燃料油販売に着手
    • [10]株主も債権者も持たない個人商店として問屋を介さない直売を選択
    • [8]1914年(大正3年)満州へ進出し旧満鉄への機械油納入を足掛かりとした
    • [9]満州進出後 華北・朝鮮・台湾・華中等へ店舗網を拡張
  • 石油時報 1932年9月号「石油市場の尖端をいく・出光商会主・出光佐三氏」
    • [11]1932年時点 各種油類の年間売上高が1000万円超、国産石油の担い手として一定の地位

大陸の油槽所と、軍の命令による法人化

1939年、上海近郊に約10万キロリットル余を収容する大油槽所を建設した[12]。同年12月には現地の営業財産を分割し、上海に中華出光興産[13]、新京に満州出光興産を設立している。内地の元売各社が国内市場で競っていた時期に[14]、出光の営業は大陸の側へ偏っていた。海外の店舗網は満州から華北・華中へと広がり、終戦時の店舗総数は80カ所以上、北満・太原・漢口・広東など東亜の全域に及んでいる。国内の精製設備を持たない販売専業のまま、営業の基盤を外地に置いた構えである[15]

    • [12]1939年(昭和14年)上海近郊に約10万キロリットル余の大油槽所を建設
    • [13]1939年12月 現地営業財産を分割し上海に中華出光興産・新京に満州出光興産を設立
    • [15]終戦時の店舗総数80カ所以上 北満・太原・漢口・広東など東亜全域
  • 出光興産 有価証券報告書【沿革】
    • [14]創業から終戦まで中国大陸等の海外へ進出し続けた

1940年3月30日、出光商会の朝鮮・台湾・関東州および内地の営業財産を継承し[16]、資本金400万円で出光興産株式会社を設立した。本社は東京に置き、出光佐三氏が社長に就いている[17]。個人商店を経営の理想としてきた佐三氏にとって法人への組織変更は本意ではなく、軍の命令によるものだった[18]。株式は同族と関係会社で固め、会社の形をとった後も外部資本を入れない構えは変えていない。

    • [12]1939年(昭和14年)上海近郊に約10万キロリットル余の大油槽所を建設
    • [13]1939年12月 現地営業財産を分割し上海に中華出光興産・新京に満州出光興産を設立
    • [15]終戦時の店舗総数80カ所以上 北満・太原・漢口・広東など東亜全域
    • [16]1940年3月30日 東京に出光興産株式会社を設立(1947年11月に出光商会と合併)
    • [17]設立時の資本金400万円 本社を東京に設置 出光佐三が社長就任
  • 出光興産 有価証券報告書【沿革】
    • [14]創業から終戦まで中国大陸等の海外へ進出し続けた
    • [18]1940年の法人化は軍の命令による組織変更

終戦で失った全てと、一人も解雇しない再起

1945年8月の敗戦で[19]、海外財産のすべてを失った。大陸に築いた80カ所以上の店舗も現地法人も一度に消え[20]、国内に残ったのは事業基盤を欠いた本社と、外地から戻る従業員だけである。佐三氏は引き揚げ者を含む約1000人を一人も解雇せず全員を受け入れた[21]。石油業へ復帰できる見込みは立たないまま、旧海軍の石油タンクに残った底油の汲み上げ、ラジオ修理[22]、印刷、農業、水産、発酵と、雑多な仕事で食いつないでいる。石油の統制が続くかぎり販売業者としての出番はなく[23]、この期間はおよそ二年に及んだ。

1947年10月[24]、石油配給公団の発足とともに石油業界へ復帰した。同年11月には出光商会を合併して法人を一本化し[25]ている。公団の下部販売機関として全国22カ所の販売権を獲得すると、取扱高は全国の販売業者のうち常に首位を占めた[26]。1949年3月に元売業者の指定を受け[27]、4月から民間としての石油供給業務を始めている。1952年春には米国から高オクタン価ガソリンと高級潤滑油を率先して輸入し、性能が在来品と格段に違うことが認められて[28]、わが国の石油精製設備の改善と近代化を促進する契機となった。

  • 出光興産 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1947年10月 石油配給公団の発足とともに石油業界へ復帰
    • [25]1947年11月 出光商会と合併
    • [27]1949年4月 元売業者に指定され(3月指定)民間として石油供給業務を開始
    • [26]石油配給公団の下部販売機関として全国22カ所の販売権を獲得、取扱高は全国販売業者中で常に首位
    • [28]1952年春 米国から高オクタン価ガソリンと高級潤滑油を率先輸入し、国内精製設備の改善・近代化を促進する契機となった
  • 出光興産 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1945年8月 終戦とともに海外財産を喪失、引き揚げ者全員を受け入れ
    • [23]1945年8月の終戦から1947年10月の石油業界復帰まで約2年を要した
    • [24]1947年10月 石油配給公団の発足とともに石油業界へ復帰
    • [25]1947年11月 出光商会と合併
    • [27]1949年4月 元売業者に指定され(3月指定)民間として石油供給業務を開始
    • [20]終戦時の店舗総数80カ所以上と現地法人を喪失
    • [26]石油配給公団の下部販売機関として全国22カ所の販売権を獲得、取扱高は全国販売業者中で常に首位
    • [28]1952年春 米国から高オクタン価ガソリンと高級潤滑油を率先輸入し、国内精製設備の改善・近代化を促進する契機となった
    • [21]外地からの引き揚げ者約1000人を一人も解雇せず受け入れ
    • [22]石油業復帰までの間、旧海軍タンクの底油汲み上げ・ラジオ修理・水産業などで凌いだ

イラン原油の直接輸入と九カ年の売買契約

1951年、イランは多年の外国資本の支配を脱して石油の国有化を断行した[29]。それまで同国の石油利権を握っていたアングロ・イラニアン石油会社はこれに対抗し、イラン石油を世界市場から締め出すためにあらゆる手段を講じている[30]。カルテルの報復を恐れて何人もイラン石油に手をつけられないなか、出光は1953年5月、自社タンカー日章丸二世をイランへ差し向けて封鎖を突き[31]、原油を直接輸入した。前年の1953年2月にイラン国有石油会社と結んだ向こう九カ年の売買契約[32]が、この航海の裏づけである。

    • [29]1951年 イランが石油国有化を断行
    • [30]アングロ・イラニアン石油会社がイラン石油を世界市場から締め出すため手段を講じた
    • [32]1953年2月 イラン国有石油会社と向こう9カ年の売買契約を締結
  • 出光興産 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1953年5月 石油国有化をめぐる国際紛争の渦中にあったイランから石油輸入を断行

事件はアングロ・イラニアン石油会社との石油所有権をめぐる法律問題に発展したが、1954年8月に解決し[33]、年間800万ドル、約50万キロリットルの輸入が許可された[34]。輸入を決めた理由を、出光佐三氏はこう記している。『石油は世界的商品だから常にその水準相場がある。だから、どこから買ってもその価格は大体同じである。これに差をつけるのは、運賃と税金(関税、消費税など)だ』[引用元][35](国内石油の現状を我社 1953年7月)。産油国と直接取り引きし、差の出る運賃を自前の船で握るという後年の設計が[36]、ここに示されている。

    • [33]1954年8月 アングロ・イラニアン石油会社との石油所有権をめぐる法律問題が解決
    • [34]解決後に許可された輸入量 年間800万ドル・約50万キロリットル
  • 国内石油の現状を我社(1953年7月)
    • [35]出光佐三の発言 石油は世界的商品で価格差をつけるのは運賃と税金
    • [36]産油国との直接取引と自社タンカーによる運賃の内製が独立路線の設計
    • [29]1951年 イランが石油国有化を断行
    • [30]アングロ・イラニアン石油会社がイラン石油を世界市場から締め出すため手段を講じた
    • [32]1953年2月 イラン国有石油会社と向こう9カ年の売買契約を締結
    • [33]1954年8月 アングロ・イラニアン石油会社との石油所有権をめぐる法律問題が解決
    • [34]解決後に許可された輸入量 年間800万ドル・約50万キロリットル
  • 出光興産 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1953年5月 石油国有化をめぐる国際紛争の渦中にあったイランから石油輸入を断行
  • 国内石油の現状を我社(1953年7月)
    • [35]出光佐三の発言 石油は世界的商品で価格差をつけるのは運賃と税金
    • [36]産油国との直接取引と自社タンカーによる運賃の内製が独立路線の設計

徳山製油所で生産者となり、石油連盟を出る

1957年3月、旧海軍第三燃料廠跡地の払い下げを受けた徳山製油所が竣工し、製品を仕入れて売る販売業者から[37]、原油を買って自ら精製する生産者へ移った。輸入精製主義のもとで国際カルテルと政府の統制が交錯する市場において、精製設備を自前で持てば、原油の調達先を自分で決められる[38]。1959年11月にはソ連原油を初めて輸入し、1973年5月には中国の大慶原油を導入して[39]、中東のDD契約と合わせ調達先を分散させた。

1962年、業界が自主生産調整に動いた際、出光は反対に回って協議は決裂し、1963年11月に石油連盟を脱退して1966年10月の調整撤廃まで単独で走った[40]。自由競争を貫く理由を、出光佐三氏はこう語っている。『供給は無制限だし、価格は世界一安いということならば、これによって日本の産業は非常に勃興するでしょう。一例をいえば、電力をこれによって興せば世界一の安い電力ができる。ほかの産業みなしかり。だから、この石油をいかにして日本が有効に使うかということが肝心だと思う』[引用元][41](実業の日本 1962年)。ベイルート・テヘラン・クウェートなど中東各地に事務所を置き[42]、国際メジャーを経由しないDD契約で原油を確保する体制も整えた。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [40]1962年の業界自主生産調整に反対し1963年11月に石油連盟を脱退、1966年10月の調整撤廃まで単独路線
    • [42]ベイルート・テヘラン・クウェート等に事務所を開設しDD契約で原油を確保
  • 実業の日本(1962年)
    • [41]出光佐三の発言 安価な石油を日本がいかに有効に使うかが肝心

調達の独立は輸送と生産の自前化と対になり、1961年10月に給油所運営のアポロサービス、1962年5月に内航部門の宗像海運[43]、同年8月に船舶部を分離した出光タンカーを設立している。1962年には13万2000トンの日章丸三世を[44]、1966年には当時世界最大となる21万トンの出光丸を投入した。製油所も1963年1月の千葉、1970年10月の兵庫と続き、1964年9月には石油化学部門を分離して出光石油化学を設立[45]、翌10月に徳山工場を竣工している。1967年には71億円を投じ[46]、千葉製油所に重油直接脱硫装置を建設した。1971年1月には開発部を分離して出光日本海石油開発を設立し[47]、1972年6月には沖縄石油精製へ45%を出資している。

  • 出光興産 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1961年10月 アポロサービス設立 1962年5月 宗像海運設立 1962年8月 船舶部を分離し出光タンカー設立
    • [45]1963年1月 千葉製油所竣工 1970年10月 兵庫製油所竣工 1964年9月 出光石油化学設立 1964年10月 徳山工場竣工
    • [47]1971年1月 開発部を分離し出光日本海石油開発を設立 1972年6月 沖縄石油精製に45%出資
    • [44]1962年 13万2000トンの日章丸(三世)建造 1966年 世界最大のマンモスタンカー出光丸21万トン建造
    • [46]1967年 71億円を投じ千葉製油所に重油直接脱硫装置を世界に先駆けて建設
    • [37]1957年3月 徳山製油所竣工により販売業者から生産者へ転換
    • [44]1962年 13万2000トンの日章丸(三世)建造 1966年 世界最大のマンモスタンカー出光丸21万トン建造
    • [46]1967年 71億円を投じ千葉製油所に重油直接脱硫装置を世界に先駆けて建設
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [38]自社精製設備の保有が原油調達の自由度を確保する手段だった
    • [39]1959年11月 ソ連原油を初輸入 1973年5月 中国大慶原油を導入
    • [40]1962年の業界自主生産調整に反対し1963年11月に石油連盟を脱退、1966年10月の調整撤廃まで単独路線
    • [42]ベイルート・テヘラン・クウェート等に事務所を開設しDD契約で原油を確保
  • 実業の日本(1962年)
    • [41]出光佐三の発言 安価な石油を日本がいかに有効に使うかが肝心
  • 出光興産 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1961年10月 アポロサービス設立 1962年5月 宗像海運設立 1962年8月 船舶部を分離し出光タンカー設立
    • [45]1963年1月 千葉製油所竣工 1970年10月 兵庫製油所竣工 1964年9月 出光石油化学設立 1964年10月 徳山工場竣工
    • [47]1971年1月 開発部を分離し出光日本海石油開発を設立 1972年6月 沖縄石油精製に45%出資

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出光興産の沿革1900〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
ライジングサン石油設立
1911〜1940年門司の機械油行商から、大陸80店の販売網へ出光佐三氏が門司で出光商会を興し、機械油の行商から海と大陸の販路を開いた創業

1911年6月、出光佐三氏が福岡県門司市で個人商店・出光商会を興し、石油販売業を始めた経営判断。神戸高等商業学校を出ながら小さな油商・酒井商会で丁稚奉公に入り、実家の破産を機に独立した。元手は知人の日田重太郎氏が返済も利子も報告も求めずに融通した8,000円であった。

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★★★
出光興産を東京に設立
1941〜1972年敗戦からの再起と、日章丸が破った国際カルテル早山・新津・旭の3社合併で昭和石油設立
終戦により海外財産を喪失
石油配給公団販売店として石油業に復帰
石油元売業者に指定
国際石油カルテルに抗した民族系独立路線の確立

1953年の日章丸事件から1963年の石油連盟脱退まで、出光佐三氏の主導で国際石油メジャーのカルテルにも国内の生産調整にも与せず、産油国との直接取引と販売末端までの自前化によって自主独立を貫いた出光興産の経営路線。

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★★★
徳山製油所竣工
出光タンカーを設立
千葉製油所竣工
石油連盟を脱退★★
出光石油化学を設立★★
兵庫製油所竣工
出光日本海石油開発を設立
1973〜2005年設備投資が積み上げた2兆円と、投機的格付けが迫った資本の開放北海道製油所竣工
愛知製油所竣工
昭和石油とシェル石油が対等合併、昭和シェル石油誕生★★
エベネザ石炭鉱山の権益取得・輸入開始
マッセルブルック石炭鉱山を取得
ノルウェー領北海スノーレ油田生産開始
出光裕治出光大分地熱滝上地熱発電所が営業運転開始
出光昭三十七年ぶりの外部資本導入と、会長の一声で白紙に戻った上場

1998年9月にムーディーズから『B2』の投機的格付けを付けられた出光興産が、2000年6月に優先株式2,900千株を発行して290億円を調達し、2001年3月末までに880千株を追加して合計378億円を増資した経営判断。1940年の設立以来、出光家以外の外部資本を受け入れるのは初めてで、資本増強そのものが37年ぶりだった。

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★★★
出光昭有機EL分野に参入★★
天坊昭彦兵庫製油所の製油機能停止
天坊昭彦出光石油化学を吸収合併
2006〜2026年東証への上場、創業家との攻防を経た昭和シェル統合天坊昭彦三菱商事とLPガス事業統合、アストモスエネルギー設立★★
天坊昭彦個人商店を理想とした会社が東証一部へ上場する

2006年10月、出光興産が東京証券取引所市場第一部へ上場した経営判断。1911年の創業以来、外部資本を拒んで非上場を貫いてきた会社が、2005年10月の資本組み替えを経て株式市場に登場した。2004年度の年商2兆7636億円という規模での東証一部への直接上場は前例がない。

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月岡隆徳山製油所の原油処理機能停止
月岡隆営業赤字▲1,048億円・純損失▲1,380億円に転落★★
月岡隆昭和シェル石油の株式31.3%を取得★★
月岡隆昭和シェル合併に反対する創業家へ対抗した3割の公募増資

2017年7月3日、出光興産が発行済株式の約3割にあたる4800万株の公募増資を発表し、約1200億円を調達した経営判断。昭和シェル石油との合併に反対する創業家の議決権比率を33.9%から約26%へ引き下げ、合併を単独で否決できる3分の1の拒否権を失わせる狙いがあった。月岡隆社長ら経営陣の主導による。

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★★★
木藤俊一木藤俊一氏が社長に就任
木藤俊一出光興産と昭和シェル石油の経営統合(2019年成立)

2015年に基本合意した出光興産と昭和シェル石油の経営統合が、出光創業家の約2年にわたる反対を経て、2019年4月1日に株式交換で成立した案件。

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★★★
木藤俊一営業赤字▲39億円・純損失▲229億円
木藤俊一西部石油・東亜石油の全株式を取得
木藤俊一西部石油山口製油所の原油処理機能停止
酒井則明酒井則明氏が社長に就任
出典・参考

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