出光佐三氏が門司で出光商会を興し、機械油の行商から海と大陸の販路を開いた創業

学校の恥と呼ばれた丁稚奉公を経て、返さなくてよい8,000円で何を始めようとしたのか

更新:

時期 1911年6月
意思決定者 出光佐三氏 出光商会 店主
論点 独立の資金と、機械油という商材の選択
概要
1911年6月、出光佐三氏が福岡県門司市で個人商店・出光商会を興し、石油販売業を始めた経営判断。神戸高等商業学校を出ながら小さな油商・酒井商会で丁稚奉公に入り、実家の破産を機に独立した。元手は知人の日田重太郎氏が返済も利子も報告も求めずに融通した8,000円であった。
背景
出光佐三氏は外交官を志したが、父から辞令一本で動かされる役人ではなく自分の仕事をやれと諭され、商人の道を選んだ。神戸高商から大商店の鈴木商店へ入ろうとして口が開かず、石油と小麦粉を扱う酒井商会に入った。前垂れ掛けの店に学校出が入ったことを友人は「学校のつらよごし」と非難した。
内容
佐三氏は小麦粉ではなく機械油を商材に選んだ。潤滑油は毎月売れるため、まず衣食の道が立つという読みによる。門司では日本石油やスタンダードにいた先輩たちが、電化の進展で油の需要は先細ると独立を止めたが、佐三氏は方針を変えなかった。
含意
陸上の電化で頭打ちとみられた油の需要に対し、佐三氏は興りつつあった漁業と大陸の鉄道という動く需要を選んだ。1913年に下関で発動機付き漁船の燃料油販売に着手し、1914年には旧満鉄への機械油納入を足掛かりに満州一帯へ広がった。株主も債権者も持たない出発が、問屋を介さない販路の設計を許していた。
筆者の見解

他人の金で始めるという条件

この創業を特徴づけているのは、元手の出どころよりも、その金に付いていた条件の少なさであるとみることができる。日田重太郎氏が佐三氏に渡した8,000円には、返済も利子も事業報告も求められず、独立を貫くことと兄弟仲良くすることだけが望まれた。借りた金であれば返済期限が商いの速度を決め、出資であれば配当と口出しが付いてくる。どちらでもない資金を持って出発した佐三氏は、月々の採算に追われず、先輩たちが先細ると見た油を扱い、問屋を飛ばして消費者へ直接届けるという定石外の商いを、初手から試すことができた。神戸高商を出ながら大商店に入らず前垂れ掛けを選んだ判断と、この資金の性質は、独立そのものを目的に置く点で地続きになっていたとみられる。

同時に、この出発の身軽さは、後の出光を長く縛る性質のものでもあったとみられる。株主を持たない商いは誰の指図も受けない代わりに、苦しいときに頼れる資本もない。1911年に一人で油を担いだ人物が、1953年のイラン石油輸入では十二社対一社と評される孤立に耐え、敗戦後には約二千人を一人も解雇しない選択を通した。返さなくてよい金で独立を許された経験が、後年の人を切らないという方針とどう響き合っていたのかは、本人の言葉からは断定できない。ただ、恩を受けて始めた商いが、恩を返す先を金主ではなく店員と消費者に置き替えていった経過は、その後の出光の輪郭を考えるうえでなお読み直す余地を残している。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

外交官志望から、前垂れ掛けの油商へ

出光佐三氏は神戸高等商業学校に入る前、外交官を志していた。その希望を父に告げたところ、役人は辞令一本で任地を移されるため人間としての値打ちがどこにあるのか、なんでもいいから自分の仕事をやれと諭された。佐三氏は外交官を思いとどまり、商人の道へ向かう。神戸高商では校長の水島鉄也氏から人間としての生き方を学び、後年これを両親の家庭と並ぶ第二の恵みとして挙げている。学校で得たものは商法の知識よりも、自分の仕事を自分で持つという構えであった[1][2]

卒業後、佐三氏はまず神戸の大商店である鈴木商店に入ろうとした。ところが水島校長は鈴木商店の名を知らず、口をかけてもらっても返事は来ない。学校出の入る先ではないという扱いであった。そこで佐三氏は、石油と小麦粉を商う神戸市兵庫区鍛冶屋町の酒井商会に頼んで使ってもらう。決まった途端に鈴木商店から入ってくれと言ってきたが、もう遅かった。高商出が前垂れ掛けの小さな店に入ったことを、友人たちは「お前は気違いだ。学校のつらよごしだ」と強い言葉で非難した[3][4]

家の破産と、返さなくてよい8,000円

酒井商会の主人・酒井賀一郎氏は奮闘型の人物で、佐三氏はそこで人生の勉強を積んだ。もっとも店の中で佐三氏は浮いていた。信用を落としてまで金をもうけることはできないという佐三氏の考えは、世の中は金がなければ何もできないと説く支店長には理解されず、二人はいつも衝突した。非難した友人には、お前が重役になるのが早いか自分が独立するのが早いか競争しようと言い返している。独立は、丁稚奉公を選んだ時点ですでに佐三氏の前提に置かれていた[5][6]

酒井商会に二年いたとき、佐三氏の実家が破産した。両親と兄弟のために自分がここで仕事を始めなければならないと考え、それまでの勤めを投げ打つ。資金の当ては、西宮の近所に住んでいた日田重太郎氏であった。淡路の仮屋の出で風雅一点張りの日田氏は、佐三氏を西宮から宝塚まで歩こうと誘い、その道中で京都の別荘を八千円で売ってその金を渡すと申し出た。返さなくてよい、利子もいらない、事業の報告もいらない、条件は独立を貫徹することと兄弟仲良くやることだけであった。日田氏自身は汽車も三等に乗る人で、金回りがよいわけではなかった[7][8]

決断

小麦粉ではなく機械油を選んだ理由

1911年6月、佐三氏は日田氏から無償で受けた金を元手に店を持ち、門司へ出て石油の店を始めた。有価証券報告書の沿革は、創業者の個人経営により福岡県門司市に出光商会を創設し、関門地区を中心に石油販売業を開始したと記録している。門司は筑豊の石炭を積み出す港で、関門海峡を挟んで下関と向かい合う海運の結節点であった。奉公先の酒井商会は石油と小麦粉の両方を扱っていたが、佐三氏は油だけを持って出た[9][10]

小麦粉から石油へ商材を替えた理由を、佐三氏は毎月売れるからだと説明している。衣食足りて礼節を知るというから、まず衣食の道だけは決めてかからねばならない、それには潤滑油のように毎月売れるものを、という順序であった。機械が動く限り潤滑油は減り、減れば必ず注文が来る。理念を語る前に月々の現金が回る商材を選んだ点に、破産した実家と兄弟を背負って独立した者の計算がうかがえる。日本会社史総覧も、創業当初の扱いを機械油と記録している[11][12]

先輩たちの制止と、「試金石のつもりでやれ」

ところが門司へ着いてみると、当の石油の先達たちが独立を止めた。スタンダードや日本石油にいた先輩を訪ねて話すと、これから電気が発達して、油を使うディーゼルなども電気に変わりつつある、見通しのよくない油に新しく手を出す手はなかろうと諭される。佐三氏は事情を知らずに手をつけようとしていたため非常に困ったと書き残している。それでも、こんなことで最初の方針を変えるようでは自分の信念はどこにあるかと決心を新たにし、始めることにした。業界の内側にいる者ほど油の先細りを見ていた点に、この創業の分の悪さが表れている[13]

同じころ、別の人物が佐三氏に教訓を垂れている。やるならこの仕事で成功すると思うな、これは難事業であるから、ある点までやり通せばいかなる事業でもやってできないものはない、まず試金石のつもりでやれ、という言葉であった。佐三氏はこの教訓を大した資本だったと振り返る。返済を求めない8,000円と、成功を求めない教訓と。二つとも、短期の採算で判断を縛らない性質の後ろ盾であった。当座の儲けに追われずに販路を探せる猶予が、この創業には与えられていた[14]

結果

陸の電化を避け、海と大陸の動く需要へ

商いを支えたのは、陸上の工場ではなかった。佐三氏は、そうした状態でいるところへ漁業というものが興ってきたと記す。新しい事業が起きてきたことと、満州大陸方面へ出掛けて新販路を開拓したことが、まず成功のはじまりであった。日本会社史総覧によれば、1913年に下関で発動機付き漁船の燃料油販売に着手して成功し、翌1914年には旧満鉄への機械油納入をきっかけに石油製品の一般市販へ進んで満州一帯に基盤を築いた。先輩たちが見ていた電化は陸の話で、海に浮かぶ発動機と大陸を走る車軸には届いていなかった[15][16]

販路が広がる一方で、佐三氏は商売そのものに矛盾を覚えていた。資本家への反感から始めた仕事なのに、油を高く売れば相手が損をし、相手が安く買えば自分が損をする。この割り切れなさを抱えたまま、佐三氏は続けた。答えが出たのは第一次世界大戦のときであった。開業から六、七年目、戦争で油が足りなくなると見た佐三氏は、商売気を離れて得意先に手当てを勧める。他社が油切れで休業するなか、佐三氏の客だけは仕事を止めずに済んだ。金はもうけなかったが得意先をもうけた、と佐三氏は書いている[17][18]

「大地域小売業」への到達と、門司の一商店が届いた地点

矛盾の解き方を、佐三氏は恩師の言葉に結びつけている。卒業間際、内池廉吉博士から、これから商人はなくなる、ただし複雑になった生産者と消費者の間に介在して双方の利益を図る配給者としての商人が一つ残る、と説かれていた。売り手と買い手が奪い合う関係ではなく、両者の間の経費を削る役として立つ。関門、問屋、卸屋、小売という関門を省いて消費者に直接届ける商いを、佐三氏は後年みずから大地域小売業と呼んだ。門司で始めた機械油の行商は、この考え方の最初の実地であった[19][20]

創業から二十年余りを経た1932年、業界紙の石油時報は出光商会主・出光佐三氏を石油市場の先端をいく存在として取り上げ、同地方一帯はもちろん朝鮮、満州、台湾にまで足を伸ばし、各種油類の売上高は1年1,000万円以上に及ぶと伝えている。1919年に華北・山東省、1920年に朝鮮、1922年に台湾と販路は継ぎ足され、門司の一商店は関門と大陸をつなぐ中堅元売の位置に届いていた。1940年3月、佐三氏は出光商会の内地・朝鮮・台湾・関東州の営業財産を継承する出光興産株式会社を東京に設立し、個人の商いは法人の形を得た[21][22]

出典・参考
  • 出光佐三「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 出光興産 有価証券報告書【沿革】
  • 石油時報 1932年9月号「石油市場の尖端をいく・出光商会主・出光佐三氏」

免責事項およびポリシー