三菱石油の事業は、1924年の輸入代理店にさかのぼる。この年、三菱商事の燃料部が米アソシエイテッド石油会社(のちのタイドウォーター・アソシエイテッド石油会社)の製品について日本での一手販売権を得て、輸入販売を始めた。[1][2]輸入代理店として数年を過ごすうちに、三菱商事は製品を買って売るだけでなく、原油を輸入して国内で精製するほうが、石油を国内産業[3]として育てるうえで有利であり、国民経済にも寄与すると考えるようになった。ただし当時の国内の精製技術は幼稚で、原油を[4]調達するだけでは足りず、設備と技術そのものを海外から持ち込む必要があった。
そこで1929年、三菱本社・三菱鉱業・三菱商事の3社は[5]、アソシエイテッド石油会社との間で会社設立の基本契約を結んだ。契約の根本原則に置かれたのは、出資においても経営支配においても完全に平等とすること[6]、すなわち五分五分の関係だった。外資が過半を握るのでも、日本側が主導権を確保するのでもない。技術と原油を持つ側と、市場と販売網を持つ側が対等に並ぶという設計である。この契約に基づき、1931年2月11日、資本金500万円で三菱石油株式会社が設立[7]された。
設備の建設は会社の設立に先行した。1930年11月に京浜運河の埋立地帯で川崎製油所の着工に入り、1931年末に完成させている[8]。戦前の原油処理量は日産9,500バーレルに達し[9]、当時もっとも完備した製油所と称された。一方、製品の販売は創立以来、三菱商事を一手販売店として委託[10]する形をとった。外資が精製の技術と原油を持ち込み、三菱側が国内の販売網を担うという分担が、設立時点で明確に線引きされていた。その後も数次の増資を重ねて製油設備を拡充している。会社が自前で抱えたのは製油所と、そこで働く人員だった。原油をどこから買うかも、製品を誰に売るかも、当初は社外の二者が握っていた。
三菱石油が参入した1930年代前半の石油業界は、外資と国内資本がせめぎ合う場だった。明治期に日本石油と宝田石油が二大勢力として並び立ち、1921年10月の合併で日本石油[11]の独占的な発展が続いていた。そこに1900年、米スタンダード石油がインターナショナル石油を設立して以来[12]、外国石油資本の日本市場への進出が勢いを増していた。満州事変後の準戦時体制に入ると石油の戦略的な価値が重く見られるようになり、1934年に石油業法が制定される[13]。販売割当と価格公定によって外国業者の輸入・販売攻勢が抑えられ、関税障壁で国内業者が保護された。
皮肉なことに、外資の技術で建てた製油所は、外資を締め出す法制度のもとで最も伸びた。1937年には民間だけで精製198万キロリットル、供給526[14]万キロリットルと終戦前の最高記録に達している。しかし戦争が拡大すると米英の対日経済封鎖が強まり、1941年には輸入が途絶した[15]。精製部門は統合が進み、日本石油・昭和石油・丸善石油・大協石油・三菱石油[16]・興亜石油・日本鉱業・東亜燃料工業の八社に集約される。石油の集中生産が行われ、消費は厳格な統制のもとに置かれた。
三菱石油自身も、平時の事業の形をほとんど失った。1939年ごろに準戦時体制へ入って以降[17]、石油の配給業務は配給統制機関が担うようになり、三菱商事に委ねていた販売の実務は会社の手を離れた。太平洋戦争の激化とともに川崎製油所の操業率は下がり、1945年7月には徹底的な戦災を被ったまま終戦[18]を迎えている。南方原油の処理を目的に宮崎県富島町(現在の日向市)で着工した敷地約60万坪の大製油所も、建設の途上で計画を放棄[19]せざるをえなかった。設立から15年に満たない会社が、製油所と販売機能の双方を同時に失った状態で戦後を迎えた。
終戦直後の石油会社に残されたものは少なかった。川崎製油所が被災したうえに原油の輸入は途絶し、1946年9月には連合軍が太平洋沿岸製油所の操業禁止を指令する。同年10月、川崎製油所の諸施設は進駐軍に接収[20]された。業界全体を見ても状況は暗く、ポーレー賠償使節は精製施設と貯油施設の大規模な撤去を指令し、これを緩和する目的で来日したストライク使節団でさえ、日本の製油施設は非近代的で賠償の対象にならないからスクラップにすればよいと述べていた。[21]三菱石油を含む7社は集中排除の指定も[22]受けている。
禁じられたのは精製作業だけではなく、製油所の構内で何かをすること自体だった。石油各社は構外での副業に活路を求め、日本石油は医薬品・ポマード・靴ズミ[23]を作って仕事をつなぎ、丸善石油と三菱石油もその仲間に加わった。三菱石油の場合、これと並行して数年間、川崎製油所などで進駐軍用石油の受払作業と貯油施設の復旧工事を受託しており[24]、この間の経営は主としてこれらの受託事業で維持されている。石油を精製できない石油会社が、接収した側の設備管理を請け負って命脈を保った。
流れが変わったのは1949年である。同年2月に東亜燃料工業とスタンヴァック、3月に日本石油とカルテックス、そして三菱石油とタイドウォーターが相次いで外資提携契約を結び[25]、6月には昭和石油とシェル、7月には興亜石油とカルテックスが続いた。同年7月には総司令部から太平洋岸製油所の操業および原油輸入[26]に関する覚書が発せられ、それまでの操業禁止指令が廃止される。技術の供与と原油・製品の供給を受ける代わりに、日本側は株式の譲渡や工場の現物出資によって共同子会社を設けた。こうして日本の石油産業は、原油を輸入して消費地で精製する体制へ移った。
販売の側も1949年に形が定まった。1947年4月の石油配給公団法によって民生用の供給を担っていた公団が解散し、輸入基地を運営して配給能力を持つ国内企業が元売業者として登録され、販売活動に参加することを認められた。同年4月に元売業者の指定を受けた三菱石油は、財閥解体で解散[27]を命じられた三菱商事から石油販売施設の一切を引き継ぎ[28]、旧三菱商事の石油部門の人員を吸収して販売を開始する。設立時に三菱商事へ委託していた販売機能が、20年を経て自社の内側に戻った。精製設備の急速な拡充に合わせて油槽所と給油所の整備も進めている。
資本の側では、設立時の設計のうち片側だけが崩れた。設立時の株主であり基本契約の当事者でもあった三菱本社・三菱鉱業・三菱商事の3社は財閥解体[29]で持株会社の指定を受け、保有していた三菱石油株は持株会社整理委員会によって公開処分されたため、日本側の株主構成は大きく変わった。ところがタイドウォーター側は国内情勢の変化にもかかわらず平等原則による経営方針を堅持し、戦後に行われた5度の増資すべてで新株の50%を引き受け[30]、1951年9月には日本側と同数の取締役5名を選出して[31]、うち1名が副社長に就いた。日本側の当事者だけが入れ替わり、外資側だけが元のまま残るという非対称が、この時点で生まれた。
1949年7月に操業禁止の指令が解除されると、三菱石油はただちに川崎製油所の復旧に着手した。1950年5月に第一次復旧が成り、同年8月に石油精製を再開している[32]。精製再開当時の原油処理能力は1日あたり約4,500バーレルにすぎなかったが、1955年には約29,000バーレルに達した[33]。1954年には高級潤滑油のための溶剤脱蝋装置と溶剤精製装置[34]、高級揮発油のためのプラットフォーミング装置を導入している。いずれも米テキサコ・デヴェロップメント社とユニヴァーサル・オイル・プロダクツ社が発明した当時最新式の装置で、川崎製油所は完全製油所としての体裁を整えた。
販売の規模も戦後10年で様変わりした。1949年の販売開始当時は月平均7,000キロリットル[35]にすぎなかった販売量が、1955年には約9万キロリットルへと増えている。全国に営業所6カ所・出張所6カ所を置き、特約店は約140店、油槽所33カ所[36]、給油所133カ所を数えた。高オクタン価揮発油の販売、舶用重油の供給、それに戦前から評価の高かったタイドウォーター製の高級潤滑油タイコールとヴィードルの輸入販売が[37]、この時期の営業を特徴づけた。資本金は1950年6月にいったん200万円へ減額されたのち、同年10月に2,500万円へ増資し[38]、さらに4回の増資を経て1954年10月に24億円となり、1955年3月期の売上高は92億7,000万円に達している。
高度成長期の石油業界を規定したのは1962年7月に施行された石油業法である[39]。同年10月の原油輸入自由化に備えて需給調整と安定供給をねらった法だが、精製各社への生産枠の割り振りは各社の販売シェアと絡んで調整が難航した。結果として、大手は販売力に対して生産量が不足し、中小[40]ではその逆になるという、いびつな業界構造が生まれる。これが業者間転売物の発生につながり、需給が締まっているときでも製品市況が下落する現象を引き起こした。業者間転売という商流は、このあと石油業界に定着した。
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|---|---|---|---|---|
| 三菱商事燃料部が米アソシエイテッド石油会社製品の一手販売権を取得 | ★ | |||
| 三菱3社と米アソシエイテッド石油会社が対等出資の会社設立基本契約を締結 | ★★ | |||
| 1931〜1945年米アソシエイテッド石油と五分五分で組んだ設立と、戦時統制下の八社体制 | 川崎製油所が完成 | ★ | ||
| 米アソシエイテッド石油との折半出資による三菱石油の設立と、川崎製油所の建設 昭和6年(1931年)2月11日、三菱本社・三菱鉱業・三菱商事の3社と米アソシエイテッド石油会社(のちのタイドウォーター・アソシエイテッド石油会社)が、出資と経営支配における完全な平等を根本原則として、資本金500万円で三菱石油を設立した経営判断。外資の原油と精製技術に、三菱の資本と販売網を折半で組み合わせた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 川崎製油所が空襲で被災 | ★ | |||
| 大製油所建設を放棄 | ★ | |||
| 1946〜1962年製油所を接収された副業の時代から、外資提携の復活による再建へ | 川崎製油所の諸施設が進駐軍に接収 | ★ | ||
| タイドウォーター・アソシエイテッド石油会社と外資提携契約を締結 | ★★ | |||
| 元売業者の指定を受領 | ★ | |||
| 三菱商事から石油販売施設と人員を引き継ぎ販売を開始 | ★ | |||
| 川崎製油所で石油精製を再開(第一次復旧は同年5月) | ★ | |||
| 戦前の提携関係が復活 | ★ | |||
| 川崎製油所に溶剤脱蝋装置・溶剤精製装置・プラットフォーミング装置を導入 | ★ | |||
| 高級潤滑油と高級揮発油の製造体制を整備 | ★ | |||
| 4回の増資により資本金24億円に | ★ | |||
| 1973〜1993年二度の石油ショックと過剰精製能力、情報化で薄利多売を支えた経営 | 三菱グループがゲッティ保有の三菱石油株50%を買い戻すことで合意 | ★★ | ||
| 日本石油と業務提携を発表。元売13社が7グループ11社に集約された業界再編の一環 | ★★ | |||
| 22項目・100億円の情報システム化5カ年計画「Σプロジェクト」を策定 | ★ | |||
| 山田菊男氏が社長に就任 | ★ | |||
| 海外プロジェクト部を新設し原油開発事業に参入 | ★ | |||
| 1994〜1999年和製メジャーを目指した拡大路線と、2期連続赤字の末の吸収合併 | ベトナム南部沖「15-2」鉱区の取得と、自社オペレーターによる原油探鉱への進出 三菱石油が1992年6月の入札でベトナム南部沖の『15-2』鉱区を取得し、米系メジャーからの参加申し出を断って自らオペレーター(操業者)を務めた経営判断。1994年6月14日、関連会社の日本ベトナム石油が試掘1号井で原油埋蔵を確認し、商業生産時には日量10万バレル級の東南アジア有数の油田となる可能性が開けた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 三井鉱山からの提訴を機に、泉井石油商会への巨額の資金提供が表面化 | ★★ | |||
| 泉井事件の引責による山田菊男会長の辞任と、泉谷良彦社長の続投 1997年2月28日、三菱石油が泉井石油商会への不明朗な資金提供をめぐる事件の責任を負う形で、山田菊男会長の3月末での辞任を発表し、泉谷良彦社長は残した人事。会長辞任・社長温存という組み合わせは山田氏自身が決めたもので、本人がその旨を明言している。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 1997年3月期が経常赤字に転落 | ★ | |||
| 日本石油と三菱石油の合併「日石三菱」(1999年成立) 1999年4月、石油元売り大手の日本石油が三菱石油を吸収合併し、日石三菱が発足した案件。石油製品全体で約25%のシェアを握る国内最大の元売りが生まれた。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(三菱石油)