三菱石油ベトナム南部沖「15-2」鉱区の取得と、自社オペレーターによる原油探鉱への進出
メジャーに出資して学ぶか、自ら操業者として掘るか——販売シェア8%の元売り6位が選んだ上流進出
- 概要
- 三菱石油が1992年6月の入札でベトナム南部沖の「15-2」鉱区を取得し、米系メジャーからの参加申し出を断って自らオペレーター(操業者)を務めた経営判断。1994年6月14日、関連会社の日本ベトナム石油が試掘1号井で原油埋蔵を確認し、商業生産時には日量10万バレル級の東南アジア有数の油田となる可能性が開けた。
- 背景
- 1987年に石油審議会が生産・販売の規制緩和の方針を示し、1992年4月には原油処理枠が撤廃された。販売シェア8%程度で元売り6位の三菱石油は、原価低減の積み上げで収益を守る一方、利益となる自主開発原油をほとんど持たなかった。山田菊男氏は1988年の副社長就任を機に、原油開発部門を収益源に育てることを中長期計画の柱に据えた。
- 内容
- 「15-2」は1970年代にドイツの石油会社が試掘井を3本掘って不発に終わった売れ残り鉱区で、他社は関心を示さなかった。三菱石油の技術陣は、貯留岩の下の基盤岩の亀裂に油がたまるという新しい解釈に沿って探鉱を試みた。出資比率は43.3%、開発技術者は同業中で飛び抜けて少ない15人、山田氏は捨て金の上限を100億円と決めていた。
- 含意
- 試掘成功は事業損益より先に財務へ効いた。株価急騰で転換社債の転換とワラント債の権利行使が9月末までに約800億円進み、自己資本比率は19.6%から30%超へ改善する見通しとなった。一方、2号井は1994年10月末に不調に終わり、製油所建設を含む下流進出は1,000億円規模の構想にとどまった。
小さな会社が、操業者の席に座ったこと
ドイツの石油会社が3本掘って不発に終わらせた鉱区を、販売シェア8%の元売り6位が取りに行き、メジャーの参加申し出を断って自らオペレーターの席に座った。可能にした条件は四つ重なる。基盤岩の亀裂に油がたまるという地質解釈、バクホー油田と同じ構造だという読み、通産省の慎重論を押し切った1991年の訪越、1,700億円のエクイティ調達が生んだ100億円の余力。開発技術者15人の現場が試掘費用の試算をトップへ直に上げる小ささも効いた。どれか一つが欠けても、この鉱区は掘れなかった。
ただ、成功はまず財務に効いた。事業損益ではない。油が出たという報せで株価が上がり、転換社債とワラント債の権利行使が約800億円進んで、自己資本比率は19.6%から30%超へ改善する見通しとなった。投じた資金は30億円程度で、金利負担の軽減が試掘費用を上回る計算になる。上流で稼ぐ会社になれたかどうかは、2号井の不調が示すとおり1994年の時点では判定できない。製油所という下流の構想も、輪郭が示されたにとどまった。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
販売シェア8%、元売り6位という位置
1987年6月、通産省の諮問機関である石油審議会が生産・販売の規制緩和の方針を打ち出し、1992年4月には各社の生産量を半年ごとに割り当ててきた原油処理枠が撤廃された。三菱石油の販売シェアは8%程度で、10%を超える元売り大手5社グループには入れず6位にとどまる。1991年度の売上高経常利益率は、石油会社30社の平均が2.2%、同社も2.3%にすぎない[1]。
規模で劣る同社は、下流のコスト削減を積み上げてきた。1988年5月に総額100億円を投じる5カ年の情報システム化計画をまとめ、1992年秋には主力の水島製油所で生産最適化システムを稼働させている。松枝正門副社長は「製品の差異化が難しく、1リットル当たり1円くらいの利益しか出ない」と述べ、原価を細かく削って積み上げるほかに道はないとみていた[2][3]。
後任の泉谷良彦氏も、同じ課題を就任時に挙げている。1994年6月に社長へ就いた泉谷氏は、規制緩和は避けられないとして、今から合理化を進めガソリンスタンドのセルフ化などに備えるべきだと述べた。そして当面の仕事に、部門別の利益管理の徹底と、海外市場を収益源に育てることを据えた[4]。
メジャーの警告と、原油開発部門の育成
その積み上げでは埋まらない差があると山田菊男氏に告げたのは、メジャーの側である。潤滑油の取引を通じて接触した英BPの幹部は、規制が撤廃されたら日本から製油所がすべて消えるかもしれない、と語ったという。利益の過半を原油開発部門で上げるメジャーに対し、日本の元売りは利益となる自主開発原油をほとんど持たない。製品価格の競争が激しくなれば日本勢は残れないと、彼らはみていた[5]。
山田氏は1981年に取締役・海外担当となり、メジャーの考え方と収益構造を間近に知る機会を得ていた。1988年の副社長就任を機に中長期計画を練り直し、その重要な柱として原油開発部門を収益源に育てることを据える。1989年の社長就任と同時に海外プロジェクト部が発足し、パプアニューギニア(1990年開始)、カナダのオイルサンド(1992年開始)と案件が続いた[6][7]。
決断
メジャーへの出資から、自前の鉱区へ
先行する二つの案件で、三菱石油はメジャーがオペレーターを務めるプロジェクトに出資したにすぎない。埋蔵量も確認済みで、狙いは技術やノウハウを学ぶことに置かれていた。産油国との交渉から探査プランの立案、専門業者の選定、データに基づく事業の進退の判断まで、操業者の仕事は場数を踏まねば身につかない。次は自らオペレーター事業を手がけたいと考えていた折に、ベトナム沖の鉱区が浮上した[8][9]。
1991年4月、山田氏は三菱グループの訪越ミッションの団長としてベトナムへ渡った。当時は米国の対ベトナム政策への配慮から日本企業が進出しづらく、通産省は社長の訪越が米国を刺激することを懸念して、常務クラスの派遣を水面下で打診していた。手をこまぬいているうちに欧州勢に権益を独占されるという危機感から、山田氏は元売りの社長としては唯一ベトナムへ出向き、ファン・バン・カイ第一副首相らと会見した[10]。
入札資格を得た三菱石油は、1992年1月の入札で有望と判断した鉱区に札を入れたが、韓国勢に落札された。同年6月の入札で手に入れたのが「15-2」鉱区だった。ドイツの石油会社が1970年代に試掘井を3本掘り、いずれも不発に終わらせた売れ残り鉱区にほかならない。現地で探鉱に携わった担当者は、めぼしい所を掘ったが油は出なかった鉱区という印象が強く、応札前の公表データの解析にも当初は気乗りしなかったと振り返っている[11]。
基盤岩への探鉱と、オペレーターの引き受け
地質解釈の新しい知見が、この売れ残り鉱区に勝機を与えた。世界の多くの油田は砂岩などの貯留岩にあり、ドイツ社の試掘井もすべて砂岩層に掘られていた。ところが近年、貯留岩の下にある基盤岩の亀裂に油がたまることが分かってきており、隣接するバクホー油田(推定日産12万バレル)がその構造をとる。「15-2」の地下にも同じ地質環境が続いていれば基盤岩に油だまりがあるかもしれない。三菱石油の技術陣は、なじみのなかった基盤岩への探鉱に踏み切った[12]。
油田開発は、採算ラインに乗る油田の発見率が2%程度といわれ、試掘までに最低50億円かかる事業である。財務体質や技術力に優れる欧米メジャーがオペレーターを担い、日本企業はその一部に投資するだけという例が大半を占めた。日本企業の探鉱事業には通常、石油公団が半額を出資する。その慣行に照らせば、三菱石油の出資比率43.3%は単独出資に近い。米系メジャーからの参加申し出も断り、同社は自らオペレーターとなった[13]。
三菱石油の開発技術者は、同業中で飛び抜けて少ない15人にすぎない。いくらまでの損をかぶれるかを判断するのが最大の仕事だったという山田氏に、現場は試掘費用の試算をリアルタイムで伝えた。トップと直結した小さな現場組織が機動力を発揮し、山田氏は捨て金の上限を100億円と決める。役員の多くには戸惑いがあり、泉谷良彦社長は「いくつもの仮定の上にやっと成立するプロジェクト。それにしてはリスクマネーが大きすぎる。みんな不安を抱いていた」と当時を振り返っている[14][15]。
財務の改善が、その上限を支えた。1986年以降に設立した欧州金融子会社などを通じ、三菱石油は1992年3月期末までにエクイティファイナンスで1,700億円近くを調達し、借入金の返済を進めている。円高と原油安を追い風に収益力も強まり、1985年3月期末にほぼゼロだったキャッシュフローは1992年3月期に255億円へ厚みを増した。多少のリスクには耐えられる体質が、この時点でできあがっていた[16]。
結果
1号井の成功と、先に効いた財務
1994年6月14日、山田会長のもとにベトナムから吉報が入った。関連会社の日本ベトナム石油が1号井の試掘で原油埋蔵を確認し、商業生産時には日量10万バレル級の東南アジア有数の油田となる可能性が開けた。同社が当時使う原油の約4割に相当する。後発の三菱石油が初のオペレーター事業で有望な油田を掘り当てたことに、帝国石油、出光興産、ジャパンエナジー、日本石油の開発担当者は一様に「うらやましい」と語った[17][18]。
油が出たというニュースで株価が急騰し、思わぬ効果をもたらした。転換社債の転換とワラント債の権利行使が急速に進み、その額は9月末までに約800億円に達した。財務担当の宮沢次郎取締役が驚くほどのペースで、前期末に19.6%だった自己資本比率は今期末には30%を超え、業界平均を6ポイント前後上回る見通しとなった。ベトナムに投じた資金はまだ30億円程度で、金利負担の改善効果だけで試掘費用を賄える計算になる[19]。
2号井の不調と、下流構想の輪郭
別の油だまりを狙った2号井は、1994年10月末に不調に終わった。鉱区全体の評価は、3本目の試掘井によって埋蔵量が一応把握できる1996年まで結論が出ない。証券アナリストは、為替1ドル100円、日産10万バレル、うち三菱石油の取り分50%、原油1バレル17ドルという複数の仮定のもとで、1996年後半以降に年間40億〜50億円の配当収入を見込んだ。油田が収益にどれだけ貢献するかは、当時「有望らしい」としか言えない段階にある[20][21]。
山田会長は1994年10月初めにベトナムを再訪し、「貴国とはこれから20年以上の付き合いになると思う」と述べて、窓口を石油公社などに一本化するよう政府高官に要請した。発言の念頭には、製油所やガソリンスタンドの展開という下流部門への進出があった。ただし製油所は1,000億円規模の投資となり、原油開発とは性質の違うリスクをともなう。欧米メジャーはすでに東南アジアに製油所をいくつも持ち、5〜7割のシェアを握っていた[22]。
- 日経ビジネス 1994年11月14日号「三菱石油ベトナム沖試掘に成功 和製メジャーへ一歩」
- 日経ビジネス 1992年11月30日号「三菱石油 需要変動に機敏に対応 薄利多売でも収益改善」
- 日経ビジネス 1994年9月12日号「泉谷良彦氏[三菱石油]登場 自然体で『規制緩和に備え』」
- 『日本産業史』第3巻 エネルギー・資源「石油-高度成長の光と影、石油ショック」(高村寿一・小山博之編, 日経文庫, 日本経済新聞社, 1994年)