下請け染色からの脱却と、自動車内装材・一貫生産への業態転換
発注元に採算を握られる委託加工から抜け出せるか——「異端者」川田達男は下請け気質をどう変えたか
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- 概要
- セーレンは、合繊大手から染色を請け負う委託加工2位の下請け企業から、原糸から最終製品まで自社で手がける自動車内装材メーカーへと業態を作り替えた。社内で「異端者」と呼ばれた川田達男氏が1975年の自動車内装材参入から社長就任後の一貫生産体制の構築まで主導した、下請け気質を変える長い経営判断であった。
- 背景
- 福井精練加工は1962年の上場時、筆頭株主が帝人、第2位が旭化成で、発注元から採算決定権を渡す委託賃加工に依存していた。1973年のオイルショックで合繊大手が生産調整に入ると、発注減の影響を直に受ける下請けの脆さが露呈した。
- 内容
- 川田氏は1975年に社内の反対を押し切って自動車内装材へ参入し、トヨタ・日産・ホンダへ納入を広げた。1985年には生地生産から染色までの一貫生産会社を4カ月強で立ち上げ、1987年の社長就任後は電子染色「ビスコテック」と「Do or Die」で下請け体質の解消を徹底した。
- 含意
- 委託加工から在庫リスクを負う独自事業への転換は、発注元の事業計画に縛られない収益構造を生んだ。自動車内装材を核とする車輌資材事業は主力へ育ち、繊維企業の多くが縮小するなかでセーレンは高い営業利益率を保つ企業へと姿を変えた。
下請けを抜けるという長い仕事
この転換の核心は、一つの製品を当てたことではなく、事業の構造そのものを組み替えた点にある。委託加工は在庫を持たず加工料を得る身軽なモデルだが、値段も採算も発注元が握る。川田達男氏は、在庫リスクを引き受けてでも原糸から最終製品までを自社に取り込み、自ら値決めできる立場を選んだ。異端者として窓際から始めた自動車の仕事を、一貫生産という重い設備投資で事業へ固め、社長就任後は電子染色やカネボウ繊維の取り込みで最後の工程まで内製化した。下請け気質を変えるとは、掛け声ではなく採算の決定権を取り戻す構造改革であったとみることができる。
もっとも、下請けを抜けた先には別の課題が待っていた。委託加工に代わって主力となった車輌資材は、いまやセーレンの売上の約7割を占め、収益の大半を1事業に負う構造になっている。かつて合繊大手の事業計画に業績を左右された会社は、今度は自動車産業の変動に業績を左右されうる立場にある。半導体加工部材や人工衛星向け部材といった新領域を次の柱に育てられるか——下請けから独立事業体へと自らを作り替えたセーレンが次に向き合うのは、その独立をさらにもう一段広げる仕事であるといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
発注元に採算を握られる委託加工2位
セーレンの前身である福井精練加工は、1962年に大阪証券取引所第2部へ上場したとき、筆頭株主が帝人、第2位が旭化成であった。合繊メーカーから出資を受けたうえで染色を請け負う形は、安定取引と引き換えに採算の決定権を発注側へ渡す関係でもあった。1968年5月期には売上の36%を旭化成、24%を帝人向けが占め、上位5社で約78%に達し、合成繊維染色加工の国内シェアは4.9%で業界2位に位置した。川田達男氏は後年、この生業を「原糸メーカーとか一部商社から白い生地をお預かりして、おっしゃる通りの色、肌触りにしてお返しをします。委託されて、下請けで賃加工するのです」と説明している[1]。
委託加工への依存は、市況が下向くと途端に弱さを見せた。1973年10月の第一次石油危機で合成繊維原料の価格が急騰し、合繊大手が生産調整に入ると、下請けの染色加工会社も発注減の影響を直に受けた。同年2月に商号を福井精練加工から「セーレン」へ変えたばかりの会社は、発注元の事業計画に業績が連動する構造の脆さに直面した。自前の収益源を持たないかぎり、繊維市況の縮小とともに沈むほかない立場に置かれていた[2]。
「異端者」川田達男の登場
自前の事業を唱えたその係長が川田達男氏であった。1970年代に新事業担当として抜擢されたものの、社内では異端とみなされ、配属された部下は数名にとどまり、新規事業への注力は経営の合意事項ではなかった。川田氏自身、後年に「私は『異端者』と見られ続けてきました。入社してすぐに会社の経営を批判し、左遷されました」と振り返っている。主流の仕事を外され、窓際で自由にやってよいと言われた立場から、傘地や自動車のカバー、靴の裏地などを手当たり次第に試すなかで、たまたま自動車の仕事に行き当たった[3]。
決断
自動車内装材という賭け
川田氏は1975年、自動車内装材への参入を社内の反対を押し切って決断した。自動車のシート材は当時、塩化ビニールが主流で繊維は不向きとされていた。原糸を顧客から預かって加工料を得る無在庫の委託加工と異なり、自動車内装材は素材を仕入れて織り上げ、在庫リスクを抱えてメーカーに納入する事業であった。経営企画室は反対し、川田氏は社内で揶揄されながらも事業化を進めた。1975年にトヨタ自動車への販売を始め、1976年に日産自動車、1988年にホンダへと納入を広げ、国内大手全社との取引を10年余で築いた。オイルショックで塩ビ価格が高騰し、起毛技術を生かした繊維内装材に価格競争力が生まれた偶然も追い風になった[4]。
賭けを事業へ固めたのが、一貫生産への踏み込みであった。1984年に取引先から大幅な増産を求められた川田氏は、生地の生産から染色までを自社で担う体制をわずか4カ月あまりで立ち上げ、1985年にカーシートを一貫生産する会社を設けて自ら初代社長に就いた。ドイツ製の編み機を入れて編立から染色までを一気通貫でこなす仕組みは、指図書どおりに染めて返すだけの委託加工とはまったく別の事業構造であった。素材から最終製品までを握ることで、発注元の指示を待つ立場から、自ら価値と値段を決められる立場へと近づいた[5]。
社長就任と「Do or Die」による徹底
1987年8月、川田氏は47歳で創業家からセーレン社長を託された。染色加工工程をコンピュータ制御する電子染色「ビスコテック」の開発を同年に始め、発注元の指図どおりに染める受け身の事業を、デジタルデータから直接色柄を出力する独自技術の外販へと転じさせた。1995年のバブル崩壊後には経営指針を「命がけでやろう」という「Do or Die」へ改め、創業以来の下請け体質を解消する方針を社内へ徹底した。織り・編み・縫製を担う子会社を相次いで設けて工程の内製化を進め、2004年に経営破綻したカネボウの繊維事業では、再生不能と分類された合繊部門の買収に唯一名乗りを上げ、原糸工程まで自社に取り込んだ[6]。
結果
下請けを脱した独自事業体へ
転換は一直線ではなかった。事業構造を組み替える途上の2003年3月期は、連結売上高631億円・経常利益21億円に対し、当期は9億円の純損失を計上した。それでも、発注元の指示を待つ委託加工から、自動車内装材を主力とする独自事業へと組み替えた構造は定着し、翌2004年3月期には黒字へ復した。川田氏が1985年5月期に「セーレンの蘇生」と業界に注目された自動車内装材は、委託加工に代わる柱として育ち、下請け2位から抜け出す出口になった[7]。
長い目でみれば、下請けからの脱却はセーレンを高収益の産業資材メーカーへと変えた。原糸から最終製品まで一気通貫で手がける車輌資材事業は主力に据わり、繊維企業の多くが縮小や再編に追われるなかで、セーレンは安定した利益を稼ぐ構造を築いた。2025年3月期の連結売上高は1,597億円、売上高営業利益率は11.2%に達し、車輌資材が売上の約7割・営業利益の8割弱を占めるに至った。発注元に採算を握られていた会社が、自ら値決めできる事業へと立場を変えた帰結であった[8]。
- 明治大学史資料センター 大学史紀要(2017年)「川田達男氏インタビュー」
- 日経ビジネス電子版 2021年7月30日「不屈の路程(2)セーレン・川田会長 窓際からの逆転劇を演じた30代」
- 日経ビジネス電子版 2021年8月13日「不屈の路程 セーレン・川田会長」
- PRESIDENT Online 2015年3月25日「世界初、繊維の一貫生産ビジネスモデルを実現」(川田達男)
- セーレン 社史(02-history)
- セーレン 有価証券報告書(2003年3月期・2004年3月期・2025年3月期・連結)