三菱石油泉井事件の引責による山田菊男会長の辞任と、泉谷良彦社長の続投

会長が退き、社長が残る——財閥系企業の「会社の顔」を守る人事は、拡大路線の後始末をだれに託したか

時期 1997年2月
意思決定者(推定) 山田菊男 会長
論点 不祥事の引責人事と経営体制
概要
1997年2月28日、三菱石油が泉井石油商会への不明朗な資金提供をめぐる事件の責任を負う形で、山田菊男会長の3月末での辞任を発表し、泉谷良彦社長は残した人事。会長辞任・社長温存という組み合わせは山田氏自身が決めたもので、本人がその旨を明言している。
背景
1989年に社長へ就いた山田氏は、ガソリン販売シェアの拡大を掲げて給油所投資を続けた。1996年7月、三井鉱山の提訴を機に、大阪の石油卸商・泉井石油商会へ業者間転売取引を通じて巨額の資金が流れていたことが発覚し、翌年1月には元社員が逮捕され、本社も家宅捜索を受けた。
内容
山田氏は1996年12月初旬に辞任を決意し、三菱重工業・東京三菱銀行・三菱商事の3首脳へ相談したうえで結論を出した。退任時期は検察の調査への心証を考えた泉谷社長の判断で1カ月延び、3月末での辞任・相談役就任となった。
含意
責任の所在を示すと同時に、財閥系企業として会社の顔である社長を守る人事でもあった。もっとも刷新の実質は限られ、拡大路線が積み上げた損益分岐点は残った。2期連続の赤字と、消えた昭和シェル石油との精製統合構想を経て、同社は1999年4月に日本石油と合併し社名を消した。
筆者の見解

会社の顔を守る人事が残したもの

辞めたのは会長で、残ったのは社長であった。山田菊男氏はこの順序を自分で決めたと明言し、財閥系企業では会社の顔である社長を温存しなければならなかったと語っている。責任の切り分けとしては明快で、三菱グループ3首脳のうち伊夫伎一雄氏が求めた「けじめ」にも沿っていた。ただ、路線を敷いた会長が退き、その路線を引き継いだ社長が残った。拡大の是非は、この人事の論点にならなかった。

刷新の実質は限られた。山田氏が最後の課題と認めた販売部門の合理化——三菱商事と商圏が重なる販売店の統廃合——は、社内の抵抗もあって着手されないまま残った。1997年3月期の卸値100億円分の事後調整も、給油所を増やし続けた末に高くなった損益分岐点を映していた。人を替えても損益分岐点は下がらなかった。統合相手と目された昭和シェル石油との構想も消え、1999年に日本石油との合併が決まった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

ゲッティ支配のあとに始まった拡大路線

三菱石油は1984年まで、米ゲッティ石油に株式の50%を握られていた。ゲッティは対日投資に熱心でなく、給油所への投資資金は他社に比べて乏しかった。ゲッティが株式を手放すと、投資の制約が外れた。1989年に社長へ就いた山田菊男氏は1994年、8%台前半だったガソリン販売シェアを9%へ引き上げる経営計画を掲げた。他社が不採算の給油所を閉めていた時期に、増設を続けた[1][2]

拡大とは別に、同社は1962年の石油業法に発する精販ギャップを抱えていた。精製能力に対して販売能力が低いというひずみである。石油業法は精製各社への生産枠を販売実績や設備能力を勘案して割り振ったが、この調整は大手が販売力に対して生産量を欠き、中小ではその逆になるという業界構造を残した。行き場を失った製品は業者間転売物として市中へ流れ、需給が締まっていても市況を押し下げた。三菱石油の精製シェアは9%、販売シェアは8%台で、余剰は同社にも生じていた[3][4]

泉井石油商会への資金と、経営への波及

1996年7月、事件が表に出た。三井鉱山が三菱石油に23億8,000万円の債務保証の履行を求めて提訴し、両社が業者間転売取引の形で大阪の石油卸商・泉井石油商会の泉井純一被告へ巨額の資金を提供していたことが発覚した。泉井被告への流入資金は1992年からの3年間だけで41億円、総額では60億円を超えるとされた。41億円という額は、個人の逸脱として処理できる規模ではなかった[5][6]

泉井被告の接待を受けた元資源エネルギー庁幹部は、電力会社に三菱石油のC重油を購入するよう働きかけ、中部電力は打診を受けたことを認めている。1997年1月には同社の元東京支店次長が泉井被告の共犯者として逮捕され、その後、処分保留で釈放された。本社は家宅捜索を受け、泉谷良彦社長自身も事情聴取などで200時間の拘束を受けた。市況の悪化で系列給油所の赤字が表に出はじめていたが、経営陣は捜査への対応に追われた[7][8]

決断

会長が退き、社長が残る

1997年2月28日、三菱石油は山田菊男会長が3月末で辞任し相談役に就くと発表した。山田氏は1928年に福岡県で生まれ、1950年に慶應義塾大学法学部を出て同社へ入り、1981年に取締役、85年に常務、88年に副社長を経て、89年に社長、94年に会長へ進んだ。社長時代からの拡大路線を敷いた当人であり、会長となってからも実力会長と呼ばれていた。辞任は事件の責任を負ってのものであった[9]

退いたのは会長で、社長は残った。この組み合わせを決めたのは山田氏自身であった。「会社として、だれを残した方がいいかと考えると、やっぱり社長を温存すべきだと判断しました。そのために、2人のトップのうち、会長である私が辞めなければなりません」。理由も本人が語っている。「欧米企業では社長をクビにすることもありますが、日本企業では難しい。とりわけ『三菱』の名が付く財閥系企業の古い体質では、会社の顔である社長を温存しなければなりませんでした」。責任の所在を示す人事であると同時に、会社の顔を守る人事でもあった[10]

決意の時期と、三菱グループ3首脳への相談

山田氏は1996年12月初旬に辞任を決めていた。当初は2月末での退任を考えていたが、検察の調査が続く段階で会長が辞めれば良くない心証を与えるとして、泉谷社長の判断で3月末まで1カ月延ばした。山田氏は泉谷社長へ「2月末で辞任してもいい。社長の判断で決めてくれ」と伝えていたと述べ、辞任直前まで取締役への残留を求めていたとする報道については、そのような事実はないと強く否定している[11]

決断の前に、山田氏は三菱グループの3首脳へ相談している。三菱重工業の相川賢太郎会長は「辞める必要はない」と引き留め、東京三菱銀行の伊夫伎一雄相談役は「三菱のトップらしいけじめをつけてくれ」と求めた。三菱商事の諸橋晋六会長は両者の中間であった。山田氏は3人の声を聞いて結論を出したと語っている。ただ、住友商事や高島屋のトップ辞任が続いた同じ2月末であり、会社ぐるみの不祥事だけに退職慰労金の扱いが焦点になるとの見方も出ていた[12][13]

結果

赤字転落と「独り負け」

1996年3月期の三菱石油は、経常利益207億円と、業界首位の日本石油の109億円や昭和シェル石油の191億円を上回っていた。もっともその中身はポリエステル原料パラキシレンの輸出ブームに支えられ、経常段階で推定150億円をこの一品目が稼いでいた。1996年4月の特石法廃止でガソリン市況が落ち、原油高と円安が重なると、同年11月の中間決算で1997年3月期の経常利益見通しは80億円へ引き下げられた[14]

そして1997年3月期は経常赤字へ転落し、10円配当を6円配へ減らした。最大の要因は系列特約店を支えるための卸値100億円分の引き下げにあった。元売各社が廃止を公式表明していた「事後調整」を三菱石油自身が公式に認めたことを意味し、業界に衝撃を与えた。1998年3月期も赤字となり、上場元売6社のうち赤字は同社だけであった。大和総研の伊藤敏憲氏は「三菱石油が裸の姿。他社は損失が宙に浮いている格好」と評している。損失を先に表へ出したという点では、同社の処理は他社より早かった[15][16]

着手されなかった販売合理化と、消えた統合相手

泉谷社長は赤字の原因を、給油所投資の拡大が裏目に出たことと、コスト圧縮が他社に数年遅れたことにあると説明し、1998年3月期には営業段階で260億円の赤字を見込んだ。同社は1997年12月にコスト圧縮計画「MOVE21」を策定し、2001年3月期までに1996年3月期比で525億円の経費削減を掲げた。内訳は販売205億円、精製148億円、物流92億円、人件費44億円、管理36億円。早期退職の募集には1997年と1998年に57人と129人が応募した[17][18]

山田氏が最後の課題と認めていたのは販売部門の合理化であった。三菱商事と商圏が重なる販売店の統廃合が焦点で、そのために三菱商事の燃料部門から役員を迎える案も考えていたが、社内の抵抗を受けて泉谷社長は受け入れない方針を決めた。統合相手と目された昭和シェル石油との精製・物流統合構想も、川崎地区の3社の土地が14カ所に分散して物理的にも採算的にもペイしないと判明し、1998年春に消えた。精販ギャップは残り、単独で立て直す道は細った。三菱石油は1999年4月、日本石油と合併して社名を消した[19][20][21]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1997年2月24日号「泉井事件が影落とす三菱石油「合併」劇」
  • 日経ビジネス 1997年3月10日号「住友商事、高島屋、三菱石油 辞任したトップの退職慰労金」
  • 日経ビジネス 1997年4月14日号「山田菊男氏[三菱石油前会長]「志半ば」だが引責辞任。次代へレールは敷け」
  • 週刊東洋経済 1997年3月22日号「注目企業の97年度見通し 三菱石油」
  • 週刊東洋経済 1998年4月11日号「“独り負け”三菱石油は浮上できるか」
  • 週刊東洋経済 1998年12月26日号「2002年に勝ち残る会社の条件」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「石油-高度成長の光と影、石油ショック」

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