辞めたのは会長で、残ったのは社長であった。この順序を決めたのは山田菊男氏自身で、財閥系企業として会社の顔である社長を温存する方式をとった。山田氏は1996年12月初旬に辞任を決意し、三菱重工業・東京三菱銀行・三菱商事の3首脳へ相談したうえで結論を出している。退任の時期は検察の調査への心証を考えた泉谷社長の判断で1カ月延び、3月末での辞任・相談役就任となった。責任の切り分けとしては明快であった。ただ、路線を敷いた会長が退き、その路線を引き継いだ社長が残った。拡大の是非は、この人事の論点にならなかった。
刷新の実質は限られた。販売部門の合理化——三菱商事と商圏が重なる販売店の統廃合——は、社内の抵抗もあって着手されないまま残った。1997年3月期の卸値100億円分の事後調整も、給油所を増やし続けた末に高くなった損益分岐点を映していた。人を替えても損益分岐点は下がらなかった。昭和シェル石油との精製統合構想も消え、1999年に日本石油との合併が決まった。