松坂屋総会屋への利益供与事件を受けた経営陣の退任と、不採算店舗の閉鎖・人員削減

創業家の支配を解いた老舗百貨店は、内紛に付け入られた統治をどう作り直したか

時期 1997年10月
意思決定者(推定) 岡田邦彦(社長)・松坂屋取締役会
論点 経営体制の立て直しと不採算事業の整理
概要
1997年10月20日、松坂屋の取締役広報室長兼秘書室長が総会屋への利益供与の疑いで愛知県警に逮捕された。社長と実力相談役が退き、後任の岡田邦彦社長のもとで子会社の整理、香港からの撤退、希望退職、四日市店・大阪店の閉鎖が続いた。事件の処理と負の遺産の整理を一体で進めた経営判断である。
背景
1985年、創業家の伊藤一族以外から初めて会長に就いた鈴木正雄氏が伊藤洋太郎社長を解任し、自ら社長に就いた。この内紛のさなかに総会屋の芳賀龍臥氏が松坂屋の幹部へ接触し、以後、株主総会の対応を担った者が経営の中枢へ進む人事が続いた。
内容
逮捕された取締役は1964年入社の社内きってのエースで、1993年5月に同期最速で取締役に就いた将来の社長候補であった。株主総会は1994年に4時間4分、1995年に2時間49分と紛糾していたが、直近2年は19分と38分で終わっていた。摘発後、社長と実力相談役がともに職を退いた。
含意
摘発された利益供与は商品券など数十万円分にすぎない。会社を実際に痛めたのは、先延ばしにしてきた不振子会社と、開業以来黒字を知らない店舗であった。1998年2月期の約96億円の特別損失を皮切りに、2003年の大阪店・くずは店閉鎖まで整理が続いた。
筆者の見解

付け入られたのは、商売ではなく内紛であった

芳賀龍臥氏が1985年に松坂屋の門を叩いたとき、目を付けたのは商売の弱みではなく、創業家を追った側と追われた側がにらみ合う社内の割れ目であった。鈴木正雄氏が伊藤家の支配を解いたことで、松坂屋は同族会社の統治を失いながら、それに代わる統治を持たないまま12年を過ごした。総会担当を務めた糸川英夫氏が同期最速で取締役に就き、同じく秘書室を経た伊藤旺氏が社長になった人事は、その空白の産物だったとみられる。

ただし、この事件が統治を作り直したと言い切るのは難しい。摘発された利益供与は商品券など数十万円分にすぎず、会社を実際に痛めたのは、四日市店の188億円の累積損失や、1966年の移転以来黒字を知らない大阪店といった別の負債であった。総会屋との関係と不採算店の温存が同じ時期に噴き出したのは、どちらも先延ばしという同じ癖から出ていたからだとみられる。逮捕は、その癖を外から断ち切る力として働いたといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

創業家の支配を解いた1985年のお家騒動

1985年、松坂屋では創業家の伊藤一族以外から初めて会長に就いた鈴木正雄氏が、当時の伊藤洋太郎社長を解任し、自ら社長の椅子に納まった。解任された伊藤洋太郎社長はのちに次郎左衞門と改名し、取締役名誉会長にとどまっている。営業本部長から身を起こした鈴木氏は、同社を創業者一族の支配から切り離した実力者で、日経ビジネスはその経営をワンマン型と紹介している。1997年の時点では取締役相談役の座にあった[1][2]

内紛はこの解任で終わらなかった。鈴木派と創業伊藤家の対立が表面化するさなかの1985年、40年のキャリアを持つ総会屋の芳賀龍臥氏が、東京で秘書室長代理を務めていた伊藤旺氏を訪ねている。そのときの話題は「おたくの経営はどうなっているんだ」という中身であった。総会屋が松坂屋の幹部に接触したのは、伊藤氏の説明ではこれが初めてであった。週刊東洋経済は、芳賀氏が経営をめぐるゴタゴタに付け入るスキを見たと書いている[3]

総会担当が出世の道筋に重なる社内

糸川英夫氏は1964年に慶應義塾大学経済学部から松坂屋へ入社し、経営企画や広報といった中枢の部署を歩いた。1988年3月に秘書室担当部長へ就くと、鈴木体制が固まるなかで株主総会対応の重責を担い、このころから芳賀氏との交際が始まったとみられている。1993年5月には同期入社で最も早く取締役に就き、社内きってのエースとして将来の社長候補に数えられていた[4]

株主総会に費やす時間は、その担当者の働きぶりを映していた。松坂屋の総会は1994年に4時間4分、1995年に2時間49分と紛糾したが、直近の2年は19分と38分で終わっている。秘書室と広報室はいずれも社長直轄で、糸川氏の上には社長しかいなかった。会社の説明では、総会屋への対応は名古屋本社が引き受け、東京本社では取締役が会わない建前であった。総会屋との折衝を引き受けた者が経営の中枢へ進む道筋が、この会社では自然につながっていた[5]

決断

逮捕と、トップの退場

1997年10月20日、松坂屋の取締役広報室長兼秘書室長であった糸川英夫氏が、総会屋の芳賀龍臥氏への利益供与の疑いで逮捕された。供与されたとされるのは商品券など数十万円分で、両名とも容疑を認めた。1982年の商法改正後では、伊勢丹、そごう、パルコ、イトーヨーカ堂、高島屋に続く流通業界の摘発であった。愛知県警は1996年の秋ごろから内偵を進めていた[6][7]

翌21日に記者会見した伊藤旺社長は「総会対策を指示した覚えは全くない」と述べ、自らの進退については社内調査と捜査の状況を見極めるのが先決だと語った。ただし芳賀氏と面識のあることは認め、最初に会ったのが12年前の1985年で、その後も2回、1993年の社長就任後にも1回会っていることを明らかにした。総会屋という認識はなかった、というのが釈明の中身であった[8]

内部告発と、12年越しの決着

週刊東洋経済は、社長が総会屋担当を経験し、社長候補までが総会屋担当という「異例」な企業体質が浮き上がったと書いた。糸川氏は取り調べに対し、利益供与の件は上に報告したと供述していた。伊藤社長は指示も報告も否定し、彼一人でやったこととしかいいようがないと語ったが、秘書室と広報室が社長直轄である以上、この説明で経営責任が消えることはなかった[9]

摘発の発端は内部告発との見方が多く、鈴木派直系である伊藤社長や糸川氏に対する創業伊藤家の不満が背景にあるという観測も根強かった。伊藤家筋からとされる怪文書が出回り、糸川氏はその対策に忙殺されていたともいわれる。同年12月、当局が一件を明らかにして経営陣に警告したため社長も実力相談役も辞めざるをえなくなった、と業界関係者は語っている。1985年に始まった内紛は、12年を経て両派の退場によって決着した[10][11]

結果

先送りしてきた子会社の一括処理

経営陣の交代と並んで表に出たのは、総会屋との関係とは別の負債であった。松坂屋は1998年2月期に、債務超過の子会社・関連会社あわせて6社の整理縮小で約96億円の特別損失を計上し、上場以来初の最終赤字に転落した。香港松坂屋有限公司など2社は清算に踏み切っている。週刊東洋経済は、総会屋との癒着を断てなかったのと同じように不振子会社群の処理を先延ばしにしてきたつけが一挙に吹き出したと書いている[12]

香港からの撤退は1998年8月に実行された。松坂屋の香港出店は1975年で、香港独特の地代と人件費の高騰から1990年には赤字に転じていた。アジア通貨危機後の個人消費の落ち込みがとどめとなり、撤退にともなう損失は約15億円に達している。日本人観光客と駐在員を主な客とする売場は、1997年7月の中国返還後に観光客が激減した影響をそのまま被った[13]

岡田邦彦体制での店舗閉鎖と人員削減

1999年に社長へ就いた岡田邦彦氏のもとで、整理の対象は人員と店舗へ移った。週刊東洋経済は同年8月の時点でも、松坂屋は他社に比べリストラ自体が遅れていると指摘している。前後して418人におよぶ希望退職を実施し、人件費を圧縮した。岡田社長は2000年の取材に「不祥事など伝統に傷がつくことも経験している」と語り、名古屋の顧客の期待を裏切らない難しさを口にしている[14][15]

店舗の整理は2001年5月の四日市店閉鎖から始まった。同店は1991年の開業以来一度も黒字にならず、累積損失は188億円に達していた。2003年11月には大阪店とくずは店の閉鎖を発表する。大阪店は1966年に天満橋へ移った後、一度も黒字になっていない。くずは店も6期連続の赤字であった。当時10店のうち黒字は名古屋本店と静岡店だけで、本体の前期経常利益は18億円にとどまっている[16][17][18]

この整理を、週刊東洋経済は2007年に振り返っている。総会屋事件などで揺れに揺れた後、当時社長であった岡田邦彦氏が店舗閉鎖や人員削減で負の遺産を一掃した、という評価であった。愛知万博を控えた名古屋経済の好転も加わり、業績は持ち直しつつあった。持株会社へ移った2006年2月期の連結売上高は3,439億円、経常利益は77億円、従業員は4,004人まで絞られている。10年をかけた後始末を終えたところで、松坂屋は大丸との経営統合に向かう[19][20]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 1997年11月1日号「[フラッシュ]松坂屋 トップの責任に波及か老舗百貨店を襲った総会屋騒ぎ、背景には内紛を秘めた企業体質がある」
  • 週刊東洋経済 1997年12月6日号「[覆面座談会 今週の問題]それでも総会屋は生き残る 4大証券に続き大企業が利益供与で続々摘発」
  • 週刊東洋経済 1998年4月18日号「[特集]リストラ地獄の恐怖 97年度の特別大損失を総ざらい」
  • 週刊東洋経済 1998年7月25日号「香港現地報告 香港を襲う真性デフレの猛威 日本の銀行、百貨店の撤退も不況を助長」
  • 週刊東洋経済 1999年8月7日号「[特集]2003年勝ち組負け組 百貨店 丸井・高島屋・伊勢丹優位変わらず」
  • 週刊東洋経済 2000年5月13日号「[特集]ドラマチック名古屋 高島屋vs4Mデパート Part1」
  • 週刊東洋経済 2001年3月31日号「[特集]三重“維新” 松坂屋撤退後の四日市は? 流通バトル 三重県トップの商工業都市の将来」
  • 週刊東洋経済 2003年11月1日号「[TheHeadline/ニュース最前線]今週のアップダウン 百貨店の都心集中進み弱小「支店」がまたダウン」
  • 週刊東洋経済 2007年3月3日号「ニュース最前線01 流通規模を最優先!? 大丸と松坂屋が統合急ぐ事情」
  • 日経ビジネス 1993年8月30日号「新社長登場 伊藤旺氏[松坂屋]『攻め』の第一歩は社員の自信回復」
  • 松坂屋 有価証券報告書【沿革】

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