壱番屋株式の店頭公開と創業者夫妻の引退、生え抜き社長への経営承継
株主のほうを向く経営を拒んできた宗次徳二氏は、なぜ公開と同時に会社から降りたか
- 概要
- 上場を勧める証券会社を断り続けてきた宗次徳二氏は、1998年に社長を妻の直美氏へ譲って会長に退き、2000年2月に株式を店頭公開した。2001年秋には副社長の浜島俊哉氏からの申し出を受けて後継者に指名し、2002年6月に夫妻そろって経営から退いた。創業者が53歳で会社を離れた承継であった。
- 背景
- 喫茶店の開業から25年、宗次徳二氏は50歳、店舗数は500に達していた。年間5,000時間を超える勤務と、1日1,000通届く客のアンケート葉書を早朝から読む経営は創業者個人の体力に支えられており、その体制のまま先へ進めるかが問われていた。
- 内容
- 上場準備に入った1998年に社長を直美氏へ交代し、2000年2月10日に日本証券業協会へ株式を店頭登録した。2001年秋、副社長の浜島俊哉氏が自ら社長就任を申し出て、代表権を自分一人とし創業者夫妻には役員も降りてほしいという条件を付し、夫妻はこれを受け入れた。
- 含意
- 承継後の壱番屋は国内2,000店を掲げてフランチャイズの出店規制を緩め、2004年12月に1,000店舗へ届いた。創業者は特別顧問として経営に一切関与せず、宗次徳二氏は後年これを日本一の事業承継の成功例と自負している。
創業者が去るための順序
この承継を、高齢の創業者が身を引いた話として読むと芯を外す。宗次徳二氏は53歳で、まだ十分に働ける年齢であった。目を引くのは順序で、まず株式を公開して会社を社外の目にさらし、次に社長を妻へ、さらに生え抜きへ渡し、最後に自分が意見を言える役職から消えている。年5,000時間働き1日1,000通の葉書を読む経営が創業者個人に依存していたからこそ、その依存を段階を踏んで解く必要があったとみられる。
もっとも、この順序が最後まで通ったのは、浜島俊哉氏の側から来期から社長をやらせてほしいと申し出があったからで、宗次徳二氏が後継者を育て上げた結果ではない。本人も、夢中でやってきてふと気がついたら後を任せられる人がいた、と語っている。代表権を一人にしてほしいという条件を突きつけられた側に、選べる道は多くなかったともいえる。承継の成否は、退く側の作法よりも、引き受ける人物が現れるかどうかに左右されるのかもしれない。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
上場を断り続けた創業者
壱番屋は1978年1月、名古屋市郊外に開いた一軒のカレー店から始まった。宗次徳二氏と直美氏の夫妻は、喫茶店で客の求めに応じて出していたカレーを独立させ、ライスの量と辛さを客が選ぶ注文方式と、社員が夫婦で独立するのれん分け制度で店を増やした。証券会社は早くから株式公開を勧めていたが、宗次徳二氏は株主のほうを向いた経営はしたくないという理由でこれを断り続けた[1][2]。
方針が変わったのは1990年代の終わりであった。喫茶店を25歳で始めてから25年が過ぎ、宗次徳二氏は50歳、店舗数は500に達していた。節目という感覚に健康上の事情が重なり、いつまでも自分が先頭を切って走れるわけではないという理由で公開へ傾いた。年間5,000時間を超えて働き、本部に1日1,000通届く客のアンケート葉書へ早朝から3時間かけて目を通す経営は、創業者個人の体力の上に成り立っていた[3][4]。
決断
社長交代を先に置いた店頭公開
1998年、上場準備に入った宗次徳二氏は社長の座を妻の直美氏へ譲り、自身は会長に就いた。公開を断り続けてきた経緯があるだけに、態度を一転させれば経営意欲をなくしたと受け取られかねない。その見られ方を避けるための交代であったと本人は説明している。朝9時前に出社してきた直美氏へ株式を公開しようと思うと告げると、やってもいいよという二つ返事が返ってきた[5][6]。
2000年2月、壱番屋は日本証券業協会へ株式を店頭登録した。公開の6日後に開かれた講演で宗次直美社長は、店舗数が北海道から沖縄まで621店に達し、フランチャイズのオーナーは173名でその半数が複数店を運営していると述べている。一般加盟の募集はすでに打ち切っており、直営・フランチャイズ・社員の独立を各3分の1とする構成で、2004年中に1,000店へ届かせる計画を示した[7][8]。
生え抜きからの申し出
経営そのものを誰へ渡すかは、株式公開とは別の課題として残っていた。夫妻には息子がいたが、4号店を出した直後に生まれたこの子に同じ苦労はさせたくないと早くから話し合っており、証券会社から今のうちに株式を譲っておくよう勧められても断っていた。2001年の秋、副社長だった浜島俊哉氏が来期から社長をやらせてほしいと自ら申し出る。夢中でやってきてふと気がついたら後を任せられる人がいた、と宗次徳二氏は振り返っている[9][10]。
浜島俊哉氏は申し出に条件を添えた。代表権を持つのは自分だけにしてほしい、できれば創業者夫妻には役員も降りてほしいという内容であった。20歳のときにまだ4店舗だったCoCo壱番屋でアルバイトを始め、21歳で任された新店を潰して降格人事の第1号になり、1982年の入社後に店長とスーパーバイザーを経て1992年に取締役へ就いた生え抜きである。創業者夫妻は壱番屋の理念を最も理解している人物として条件を受け入れた[11][12]。
結果
引き継いだ側と、離れた側
2002年6月、宗次夫妻は経営から退いた。宗次徳二氏は53歳での引退で、以後は創業者特別顧問として意見を言える役職に自分を置かず、助言をして聞き入れられなければ腹が立つという理由で口出しを避けた。引き継いだ浜島俊哉氏は、副社長時代に読んだ『ビジョナリー・カンパニー』の一節を手がかりに、自分の仕事は時を告げることではなく事業が続く時計を作ることだと役割を定義している[13][14]。
浜島俊哉氏は就任にあたって国内2,000店を目標に掲げ、1つのフランチャイズオーナーは複数県に出店できないという社内規制を取り払った。2003年3月にあんかけスパゲッティ専門店「パスタ・デ・ココ」の1号店を開き、2004年3月に東京・名古屋両証券取引所の市場第二部へ上場、同年12月には国内・海外あわせて1,000店舗へ届いた。承継後最初の通期にあたる2003年5月期の売上高は303億円、経常利益は27億円であった[15][16][17]。
- 証券アナリストジャーナル 2000年3月号「壱番屋 カレー専門店を全国展開」
- 週刊東洋経済 2005年1月8日号「2005年に挑む40代経営者 店を潰して降格人事も経験 叩き上げ社長が動く組織を作る」
- 週刊東洋経済 2016年1月30日号「孤高のココイチここにあり! 個客適応力が支持の秘密だった CoCo壱番屋」
- 週刊東洋経済 2020年9月12日号「トクする事業承継M&A Prologue ファンケル/CoCo壱番屋 オーナー経営者の決断」
- 週刊東洋経済 2025年9月27日号「21世紀の証言 カレーハウスCoCo壱番屋 創業者 宗次徳二 無視されたら腹が立つ だから、口出ししなかった」
- 壱番屋 有価証券報告書【沿革】
- 壱番屋 有価証券報告書(2003年5月期・単体)