1974年 喫茶店のカレーから郊外チェーンへ──宗次夫妻の創業とブルームシステム
- 1978年名古屋市郊外に「カレーハウスCoCo壱番屋 西枇杷島店」を1号店としてオープン。
- 1979年愛知県尾西市(現・一宮市)にチェーン本部が完成。
- 1980年フランチャイズ加盟店(FC店)1号店として「カレーハウスCoCo壱番屋 稲沢国府宮店」をオープン。
- 1981年社員のれん分け制度「ブルームシステム(BS)」が発足。
- 1982年株式会社壱番屋を設立。
- 1983年愛知県一宮市に新社屋及びセントラルキッチン(現・愛知工場の一部)を竣工。
- 1994年ハワイ・オアフ島に「カレーハウスCoCo壱番屋」海外1号店をオープン。
壱番屋の業績推移:単体
出所:有価証券報告書・会社四季報等
喫茶バッカスの家庭的カレーとCoCo壱番屋1号店
壱番屋の歴史は、宗次徳二氏・直美氏夫妻が1974年に名古屋で開いた喫茶店「バッカス」に始まる。1948年生まれの宗次徳二氏は児童養護施設で育ち、大和ハウス工業勤務や不動産業での独立を経て25歳で飲食業に転じた。直美氏はのちに、喫茶店の多い愛知ではコーヒーにパンやサラダを付ける「物のサービス」が盛んな一方で接客がおろそかになりがちであり、接客サービスへの徹底したこだわりを開業時からの差別化の軸に据えたと語っている。客からご飯ものを求める声が増えると、調理の手間が少ないカレーに目を付けたが、業者が持ち込む業務用の缶詰カレーは味に納得できず、自分たちで作った家庭的な味のカレーを出すことにした。この味がその後の壱番屋の味のベースになった。 [1][2][3]
- 週刊東洋経済 2016年1月30日号
- [1]宗次徳二氏は1974年に妻の直美氏と名古屋市内に喫茶店バッカスを開店した
- 週刊東洋経済 2020年9月12日号
- [2]宗次徳二氏は1948年生まれで、大和ハウス工業などを経て1974年に喫茶バッカスを開業した
- 証券アナリストジャーナル 2000年3月号
- [3]愛知の喫茶文化への問題意識から接客サービスで差別化し、業務用缶詰カレーを退けて自家製の家庭的カレーを採用した
1978年1月、名古屋市郊外に「カレーハウスCoCo壱番屋」1号店の西枇杷島店を開いた。屋号はカレーなら「ここが一番や」に由来する。ライスの量や辛さを客が選べる注文方式をこの頃に採り入れ、のちにご飯は300グラムを標準に100グラム刻み、辛さは10辛まで、トッピング約40種という独自のカスタマイズ方式に育った。ルウは開業前に近隣のスーパーマーケットで各社の固形ルウを買い集めて食べ比べ、ハウス食品製を選んだ。1980年4月にフランチャイズ1号店の稲沢国府宮店を開き、1982年7月に株式会社壱番屋を設立、1983年7月には愛知県一宮市に新社屋とセントラルキッチンを構えた。 [4][5][6]
- 有価証券報告書【沿革】
- [4]1978年1月に名古屋市郊外の西枇杷島店を1号店として開店した
- [6]1980年4月にFC1号店の稲沢国府宮店を開店、1982年7月に株式会社壱番屋を設立、1983年7月に一宮市へ新社屋とセントラルキッチンを竣工した
- 週刊東洋経済 2016年1月30日号
- [5]屋号はカレーなら「ここが一番や」に由来し、ルウは食べ比べのうえハウス食品製を選んだ
店舗網の拡大を支えたのは、1981年1月に発足した社員のれん分け制度「ブルームシステム」である。正社員として入社し直営店やオーナー店で修業を積んだ社員に、夫婦での開業を原則として独立を認める仕組みで、一般からのフランチャイズ加盟は1995年6月に打ち切り、店を任せる相手を社内で育てた人材に絞った。加盟店から売上高に連動するロイヤルティーは取らず、本部はルウや食材の販売で利益を得る設計にした。売り上げを伸ばすほど本部への支払いが増えるようでは加盟店が事業意欲をなくす、という宗次徳二氏の考えによる。店舗数は1988年12月に国内100店に達した。 [7][8][9][10]
- 有価証券報告書【沿革】
- [7]1981年1月に社員のれん分け制度ブルームシステムが発足した
- [10]1988年12月に国内100店舗を達成した
- 証券アナリストジャーナル 2000年3月号
- [8]CoCo壱番屋の一般FC加盟は1995年(平成7年)6月に打ち切った
- 週刊東洋経済 2025年9月13日号
- [9]加盟店から売上連動のロイヤルティーを取らず、本部はルウ・食材の販売で利益を得る方針を採った
- 週刊東洋経済 2016年1月30日号
- [1]宗次徳二氏は1974年に妻の直美氏と名古屋市内に喫茶店バッカスを開店した
- [5]屋号はカレーなら「ここが一番や」に由来し、ルウは食べ比べのうえハウス食品製を選んだ
- 週刊東洋経済 2020年9月12日号
- [2]宗次徳二氏は1948年生まれで、大和ハウス工業などを経て1974年に喫茶バッカスを開業した
- 証券アナリストジャーナル 2000年3月号
- [3]愛知の喫茶文化への問題意識から接客サービスで差別化し、業務用缶詰カレーを退けて自家製の家庭的カレーを採用した
- [8]CoCo壱番屋の一般FC加盟は1995年(平成7年)6月に打ち切った
- 有価証券報告書【沿革】
- [4]1978年1月に名古屋市郊外の西枇杷島店を1号店として開店した
- [6]1980年4月にFC1号店の稲沢国府宮店を開店、1982年7月に株式会社壱番屋を設立、1983年7月に一宮市へ新社屋とセントラルキッチンを竣工した
- [7]1981年1月に社員のれん分け制度ブルームシステムが発足した
- [10]1988年12月に国内100店舗を達成した
- 週刊東洋経済 2025年9月13日号
- [9]加盟店から売上連動のロイヤルティーを取らず、本部はルウ・食材の販売で利益を得る方針を採った
「ニコ・キビ・ハキ」と超現場主義の店舗運営
社是は「ニコニコ、キビキビ、ハキハキ」。誰にでもできる接客の基本を徹底することが、値引きをしない経営の裏付けになった。宗次徳二氏は毎朝5時ごろに出社し、店頭に置いたアンケートはがき──多い時期で1日1,000通以上、月間3万通前後が社長室に届いた──へ2〜3時間かけて目を通し、苦情にはコメントを付けて加盟店オーナーへファクスで送った。1日5〜6店の店舗巡回も日課で、同業者との会食は最小限にとどめた。全国54名のスーパーバイザーによる月1回以上の店舗評価や、本部社員が客として店を点検する社員モニター制度など、フランチャイズでも質を保つ仕組みを幾重にも重ねた。バブル崩壊後に外食で価格破壊が広がっても値下げはせず、接客の質で客をつなぎとめる方針を貫いた。 [11][12][13]
- 証券アナリストジャーナル 2000年3月号
- [11]アンケートはがきは1日1,000通以上・月間3万通前後が届き、宗次徳二氏が毎朝分類・確認していた
- [12]スーパーバイザーは全国54名で月1回以上店舗を巡回評価し、社員モニター制度を併用していた
- 週刊東洋経済 2025年9月13日号
- [13]価格破壊が広がった時期にも値下げをしない方針を貫いた
1994年6月にはハワイ・オアフ島に海外1号店を開いた。1995年には、当時全国統轄本部長だった浜島俊哉氏が、CoCo壱番屋と同じ商材で単価を100〜150円下げたカレースタンド業態「FSココイチ」を立ち上げ、約50店まで増やしたものの新宿・渋谷のような繁華街以外では定着しなかった。ただ、この業態で開発した「とび辛スパイス」はCoCo壱番屋の店頭に残っている。供給面では1983年稼働の愛知に加えて、1997年10月に佐賀工場、1999年8月に栃木工場を建て、工場で作って急速冷凍したカレーソースを全国の営業拠点から毎日配送する体制を整え、1,000店規模の出店に備えた。 [14][15][16]
- 有価証券報告書【沿革】
- [14]1994年6月にハワイ・オアフ島へ海外1号店を開店した
- [16]1997年10月に佐賀工場、1999年8月に栃木工場を竣工した
- 週刊東洋経済 2016年1月30日号
- [15]浜島俊哉氏が1995年に低単価業態FSココイチを立ち上げ、約50店まで拡大後に撤退し、とび辛スパイスが残った
- 証券アナリストジャーナル 2000年3月号
- [11]アンケートはがきは1日1,000通以上・月間3万通前後が届き、宗次徳二氏が毎朝分類・確認していた
- [12]スーパーバイザーは全国54名で月1回以上店舗を巡回評価し、社員モニター制度を併用していた
- 週刊東洋経済 2025年9月13日号
- [13]価格破壊が広がった時期にも値下げをしない方針を貫いた
- 有価証券報告書【沿革】
- [14]1994年6月にハワイ・オアフ島へ海外1号店を開店した
- [16]1997年10月に佐賀工場、1999年8月に栃木工場を竣工した
- 週刊東洋経済 2016年1月30日号
- [15]浜島俊哉氏が1995年に低単価業態FSココイチを立ち上げ、約50店まで拡大後に撤退し、とび辛スパイスが残った