全品半額への値下げと低価格イタリア料理チェーンへの業態転換
場所も料理も動かせない不振の洋食店で、正垣泰彦はなぜ残った変数を価格だけに絞ったのか
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- 概要
- 1967年に千葉県市川市本八幡で開いた洋食店が数年の不振に沈んだのち、創業者の正垣泰彦が1975年ごろに全メニューを前の相場より6〜7割安い水準まで下げ、低価格のイタリア料理店へ業態を変えた判断。驚くほどの安さに客が集まり、看板のミラノ風ドリアを304円で売る後年の原型が固まった。
- 背景
- 東京理科大在学中に開いた店は開業の翌年に火災で全焼し、正垣は同じ本八幡でイタリア料理店として再出発した。それでも客足はつかず、物理学の訓練で原因を切り分けると、悪い立地も未熟な料理の腕も自分では動かせない要因だった。
- 内容
- 動かせないものを除くと残る変数は価格だけという結論から、正垣は前の店より五割から七割安い値付けを全品にかけた。人が迷わず払う食事の額は雑誌や煙草の倍という独自の見立てを置き、喜ばれる核商品に絞ってミラノ風ドリアを304円で出した。
- 含意
- 賃料の安い悪立地に出して家賃を抑え、浮いた原資を素材の原価へ回す配分がここで定まった。安さで客数を集め素材に投資するこの型は、のちの自社工場・製造直販と首都圏から全国への多店舗化を支え、海外への移植の土台にもなった。
動かせるものを、どこに絞るか
この判断の芯は、安売りそのものではなく、動かせるものと動かせないものを切り分けた選別にある。正垣は立地と料理の腕を早々に不変の与件と見切り、手をつけられる価格へ資源を集めた。しかも値下げを一度きりの客寄せに終わらせず、賃料の安い立地で家賃を削り、その分を素材の原価へ振り向ける配分として組み立てた。物理を学んだ創業者が、原因と結果を切り分ける習い性を商売の設計に持ち込んだところに、この転換の性格がうかがえる。
もっとも、安さを支えた仕組みは、後年に別の顔も見せた。海外から安く食材を集める調達は、円安が進むと逆に原価を押し上げる。安く売り続けるほど、為替の振れが利益を削る度合いは増していく。それでも、1975年に定めた、安さで客数を集め浮いた原価を素材へ回すという配分は、製造直販から全国展開、アジアへの移植まで受け継がれた。今日サイゼリヤが持つデフレに強いブランドの価値と、海外へ伸びた事業が抱える為替の重みは、いずれもこの値下げの延長線上で読み解ける。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
本八幡の洋食店と火災による再出発
正垣泰彦は東京理科大学物理学科の在学中に、千葉県市川市本八幡で洋食店を開いた。卒業論文のため通った研究所での日々から研究者の道に見切りをつけ、ゼロから自力で事業を育てるなら食べ物屋がよいという判断による開業だった。ところが開業の翌年、店内の喧嘩で投げ合われた石油ストーブから火が出て、店は全焼する。正垣は同じ本八幡でイタリア料理に絞って店を出し直した。手間をかけず素材をそのまま出せるイタリア料理なら、味の八、九割が素材で決まり、料理人の腕に左右されにくいという読みが、この選び直しにあった[1][2][3]。
値下げしても客が来ない数年
業態をイタリア料理へ変えても、店に客はつかなかった。正垣は物理学で身につけた原因と結果を分ける考え方で、不振の理由を二つに絞り込んだ。第一は立地で、店は二階にあって入り口が分かりにくく、母の意向もあって移れない。第二は料理の腕で、作る自分に腕がない。どちらも自分の手では動かせない要因だった。おいしさで客を呼ぶ道も、便利な場所へ移る道も断たれたまま、開業から数年が過ぎた[4]。
決断
残った変数を価格に絞る
立地も腕も動かせないなら、残る変数は価格だけになる。正垣はここで実験に踏み切り、前の相場より6〜7割安い値付けまで踏み込んだ。驚くほどの安さに客が押し寄せると、増えた客をさばくために料理は喜ばれる核商品へ絞った。その一つがミラノ風ドリアで、304円で売り出した。品目を絞ったぶん無駄な仕入れが消え、手際よく出せるようになり、安値でも採算の合う構造ができた。値下げは、単なる安売りではなく、原因を切り分けた末に残った一手だった[5]。
半額を成り立たせた価格の理屈
値下げには正垣なりの理屈があった。人が迷わず払う食事の額は、世界のどこでも値の変わらない雑誌や煙草の倍あたりだという見立てである。当時もっとも売れた週刊少年ジャンプが190円、セブンスターが220円で、一品を380〜440円に置けば客は自然に来る。加えて、同じ品質なら安いほど客は必ず来ると読み、1000円のものは500円以下という目安を引いた。前の店より五割下げるこの値付けを、正垣は一部の目玉ではなく全品にかけた[6]。
安さと採算を両立させる算段も、値下げと合わせて組んだ。正垣は粗利益を6割ほどに保ち、人件費を粗利の4割に収める枠を引いた。働き手一人が一時間で生む粗利益をあらわす人時生産性を5000円に置けば、大手並みの給与を払っても利益が残るという計算である。店の作業を200ほどの単位に分けて時間で管理し、少ない人数で回すことで、低価格の原価に耐える体をつくった。安くするための値付けと、安く売って残すための作業設計とを、正垣は同じ理屈の上に並べた[7]。
結果
繁盛店への転換と低価格イタリアンの確立
値下げを境に、閑古鳥の鳴いた店は繁盛店へ変わった。以後のサイゼリヤは安さを崩さないことを商いの芯に据え、低価格のイタリア料理という業態を固めていく。1999年の日経ビジネスは、製造業並みの工程管理を持ち込み、食材を生産者から直接調達して高品質とコスト削減を同時に果たし、小商圏化と低価格化で年間百店の出店をかける同社の姿を伝えた。安さを貫くことが、客の支持を集め続ける理由になっていた[8][9]。
素材への原価集中が支えた製造直販と全国網
安く売って利益を残すには、原価の中身を握る必要があった。サイゼリヤは食材の調達から加工、輸送までを自社で担う製造直販へ進み、1997年には埼玉県吉川市に吉川工場を建てて店の下ごしらえを工場へ移した。正垣は、良い素材があれば工場で集中して検品と加工をするほうが品質を保て、おいしさとコスト削減を両立できると語った。首都圏に店を集める集中出店ともかみ合い、日経金融新聞は2001年12月、仕入れコストの削減と食材工場の活用で営業利益率が16.3%へ上がったと伝えた。1975年に掴んだ型は、市川周辺の数店を全国千店規模へ広げる下地になった[10][11]。
- あさひ銀総研レポート 1993年7月号(あさひ銀総合研究所)
- 週刊東洋経済 2017年10月28日号「サイゼリヤ・外食を科学する」(東洋経済新報社)
- 日経ビジネス 1999年12月13日号「品質高め味追求、一方でムダを徹底排除」(日経BP社)
- 日経金融新聞(2001年12月18日)「効率化実り高成長続く」