1972年 日興証券を辞めた3人が成増で始めた手作りハンバーガーチェーン
- 1972年東京都新宿区に「ハンバーガーの製造販売及び販売指導」を事業目的として株式会社モス・フード・サービスを設立
- 1972年モスバーガー1号店「成増店」(東京都)オープン
- 1972年東京都板橋区成増に実験店オープン
- 1973年フランチャイズ1号店「新瑞店」(愛知県)オープン
- 1985年株式を店頭売買銘柄として社団法人日本証券業協会に登録
- 1986年健軍店(熊本県)、彦根大藪店(滋賀県)のオープンにより、外食産業初の全47都道府県出店を達成
- 1988年株式を東京証券取引所市場第二部に上場
モスフードサービスの業績推移:単体
出所:有価証券報告書・会社四季報等
ロサンゼルスで出会った味と成増の実験店
モスバーガーを運営するモスフードサービスの創業者・櫻田慧氏は1937年、岩手県に生まれた。1960年に日本大学経済学部を卒業して日興証券に入り、東京・浅草支店の営業マンとして頭角を現したのち、1962年にロサンゼルス支店へ赴任する。駐在中に通い詰めた手作りハンバーガー店「トミーズ」は、好立地とは言えない場所ながら材料の質と調理の丁寧さで客を集めており、この体験がのちの商売の原型となった。証券不況で本店外国部に呼び戻されたことに不満を募らせた櫻田氏は、1965年7月に日興証券を退社し、浅草の皮革問屋ヒサゴヤに転職した。 [1][2][3]
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- [1]櫻田慧は1937年岩手県生まれで、1960年に日本大学経済学部を卒業し日興証券に入社した
- [2]1962年にロサンゼルス支店へ転属し、駐在中に手作りハンバーガー店「トミーズ」に足繁く通った
- [3]1965年7月に日興証券を退社し、浅草の皮革問屋ヒサゴヤに転職した
ヒサゴヤには日興証券の後輩だった渡辺和男氏と、元日興証券社員の吉野祥氏が相次いで合流した。しかし同社の経営は苦しく、3人は独立の意思を固める。吉野氏と渡辺氏が1970年5月に退社すると、翌月には独立への受け皿として株式会社モスを設立した。転機は1971年7月、日本マクドナルド1号店の銀座開業だった。その盛況を見た櫻田氏はロサンゼルス時代に知った味を思い出し、「ハンバーガーでいこう」と2人に言い放つ。1972年3月に東武東上線成増駅前のショッピングセンター地下へわずか2.8坪の実験店を出し、同年6月には八百屋の倉庫を改造した直営1号店「成増店」を開店、7月に株式会社モス・フード・サービスを設立した。 [4][5][6][7][8][9]
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- [4]櫻田慧はヒサゴヤに渡辺和男を招き、元日興証券社員の吉野祥を仲間に引き入れた
- [5]吉野・渡辺の2人が1970年5月に退社し、翌月に受け皿として株式会社モスを設立した
- [6]1971年7月に日本マクドナルド1号店が銀座に開業し、櫻田は「ハンバーガーでいこう」と決めた
- モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
- [7]1972年3月に東京都板橋区成増に実験店を開いた
- [9]1972年6月にモスバーガー1号店「成増店」がオープンし、同年7月に株式会社モス・フード・サービスを設立した
- [8]実験店は2.8坪の小規模な店舗だった
社名のMOSには「山(Mountain)のように気高く堂々と、海(Ocean)のように深く広い心で、太陽(Sun)のように燃え尽きることのない情熱を持って」という意味が込められている。創業間もない時期の櫻田氏は1日3時間の睡眠で午前7時から午後11時まで1号店の切り盛りにあたり、1972年秋にはぎっくり腰で倒れて病床で涙をこぼした。日興証券時代に89キロあった体重は61キロまで落ちたが、事業の先行きに何とかメドが立ったのは、1973年3月に日本大学構内に出した2号店が繁盛し、1号店も軌道に乗ってからだった。 [10][11][12]
- [10]MOSはMountain・Ocean・Sunの頭文字で、山・海・太陽にちなむ意味が込められている
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- [11]創業期の櫻田は1日3時間の睡眠で午前7時から午後11時まで1号店を切り盛りし、体重は89キロから61キロに減った
- [12]1973年3月に日本大学構内に出した2号店が繁盛し、事業の先行きにメドが立った
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- [1]櫻田慧は1937年岩手県生まれで、1960年に日本大学経済学部を卒業し日興証券に入社した
- [2]1962年にロサンゼルス支店へ転属し、駐在中に手作りハンバーガー店「トミーズ」に足繁く通った
- [3]1965年7月に日興証券を退社し、浅草の皮革問屋ヒサゴヤに転職した
- [4]櫻田慧はヒサゴヤに渡辺和男を招き、元日興証券社員の吉野祥を仲間に引き入れた
- [5]吉野・渡辺の2人が1970年5月に退社し、翌月に受け皿として株式会社モスを設立した
- [6]1971年7月に日本マクドナルド1号店が銀座に開業し、櫻田は「ハンバーガーでいこう」と決めた
- [11]創業期の櫻田は1日3時間の睡眠で午前7時から午後11時まで1号店を切り盛りし、体重は89キロから61キロに減った
- [12]1973年3月に日本大学構内に出した2号店が繁盛し、事業の先行きにメドが立った
- モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
- [7]1972年3月に東京都板橋区成増に実験店を開いた
- [9]1972年6月にモスバーガー1号店「成増店」がオープンし、同年7月に株式会社モス・フード・サービスを設立した
- [8]実験店は2.8坪の小規模な店舗だった
- [10]MOSはMountain・Ocean・Sunの頭文字で、山・海・太陽にちなむ意味が込められている
マクドナルドの逆を行く二等地とテリヤキバーガー
モスの商法は、米国流ハンバーガー事業の「日本化」を徹底する点に特徴があった。駅前の一等地に大型店を構える先行チェーンに対し、出店コストの安い商店街のはずれ、いわゆる二等地に小さな店を出し、作り置きをせず注文を受けてから調理する。日本人の味覚に合わせた商品開発も柱に据え、創業翌年の1973年5月には、醤油と味噌をベースにしたソースを使う「テリヤキバーガー」を発売した。和風の照り焼き味は発売と同時にヒットし、マクドナルドをはじめ他チェーンが追随する定番商品となる。1973年11月には愛知県名古屋市にフランチャイズ1号店「新瑞店」が開店し、加盟店網の拡大が始まった。 [13][14][15][16]
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- [13]モスは二等地への小型出店と注文を受けてからの調理を戦略とし、マクドナルドの手法を逆手に取った
- [14]1973年5月にテリヤキバーガーを発売した
- 日経ビジネス 1994年7月11日号
- [15]テリヤキバーガーは発売と同時にヒットし、マクドナルドはじめ他チェーンがメニューに加えた
- モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
- [16]1973年11月にフランチャイズ1号店「新瑞店」(愛知県)がオープンした
フランチャイズの仕組みも独特だった。本部が加盟店から徴収するロイヤルティーは売り上げの1%に抑え、本部は加盟店への食材供給で利益を確保する。加盟店の多くはオーナー自らが調理場に立つ家族経営で、開店資金は全て加盟店が負担した。資金力の乏しい個人オーナーの立地は二等地に限られるため、客足を呼ぶ独自商品の開発が欠かせないという循環が商品力を鍛えた。店舗網は1979年1月に100店、1983年8月に200店、1986年12月に500店と広がり、1986年6月には熊本・滋賀両県への出店で外食産業初の全47都道府県出店を達成した。1987年には、当時余っていた標準米を使いご飯のプレートで具を挟む「モスライスバーガー」を発売している。 [17][18][19][20][21]
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- [17]加盟店から本部が集めるロイヤルティーは売り上げの1%で、本部は食材供給で利益を確保した
- 日経ビジネス 1994年7月11日号
- [18]加盟店の多くはオーナー自ら調理する家族経営で、開店資金は加盟店が負担した
- [19]店舗数は1979年1月に100店、1983年8月に200店、1986年12月に500店へ達した
- [21]1987年にモスライスバーガーを発売した。原料には当時余っていた標準米を使った
- モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
- [20]1986年6月に健軍店・彦根大藪店のオープンで外食産業初の全47都道府県出店を達成した
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- [13]モスは二等地への小型出店と注文を受けてからの調理を戦略とし、マクドナルドの手法を逆手に取った
- [17]加盟店から本部が集めるロイヤルティーは売り上げの1%で、本部は食材供給で利益を確保した
- [14]1973年5月にテリヤキバーガーを発売した
- [19]店舗数は1979年1月に100店、1983年8月に200店、1986年12月に500店へ達した
- [21]1987年にモスライスバーガーを発売した。原料には当時余っていた標準米を使った
- 日経ビジネス 1994年7月11日号
- [15]テリヤキバーガーは発売と同時にヒットし、マクドナルドはじめ他チェーンがメニューに加えた
- [18]加盟店の多くはオーナー自ら調理する家族経営で、開店資金は加盟店が負担した
- モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
- [16]1973年11月にフランチャイズ1号店「新瑞店」(愛知県)がオープンした
- [20]1986年6月に健軍店・彦根大藪店のオープンで外食産業初の全47都道府県出店を達成した
盟友の急死を機に決めた株式公開と上場
株式公開を決意させたのは盟友の死だった。1983年12月、店舗を巡回して経営指導を行うスーパーバイザー業務を統括していた吉野祥氏(当時専務)が急死する。フランチャイジーと日常的に接する実務で中心的な役割を担った吉野氏を欠いた打撃は重く、属人的な結束から組織的な経営への移行が急務となった。櫻田慧氏は3カ月間何も手につかなかったが、組織の整備など企業基盤を固めることが重要だと判断し、株式公開を決めた。このころ加盟を希望する店は急増しており、質を落とさずにチェーン網を速く広げる素地も整っていた。店舗数は1983年8月の200店から1985年6月には300店へ増えている。 [22][23]
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- [22]1983年12月に専務の吉野祥が急死し、櫻田慧は株式公開を決意した
- [23]店舗数は1983年8月の200店から1985年6月に300店へ増えた
1985年11月に株式を店頭売買銘柄として日本証券業協会に登録し、1988年3月には東京証券取引所市場第二部に上場した。店舗数は1988年7月に700店、1989年4月には800店に到達する。企業基盤がひとまず固まったのを見届けた櫻田慧氏は1990年6月に会長へ退き、社長を渡辺和男氏に譲った。18年間にわたり社長を務めてきた櫻田氏はこれ以後、ラーメンや牛どん、カレーライスといった新業態の開発や国際戦略の立案に軸を移すと語り、自らが体現してきたカリスマ経営の第一線から一歩引いた。 [24][25][26][27]
- モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
- [24]1985年11月に株式を店頭売買銘柄として日本証券業協会に登録した
- [25]1988年3月に東証二部へ上場した
- [26]店舗数は1988年7月に700店、1989年4月に800店へ達した
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- [27]櫻田慧は18年間社長を務めた後、1990年6月に会長に就任し、社長を渡辺和男に譲った
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- [22]1983年12月に専務の吉野祥が急死し、櫻田慧は株式公開を決意した
- [23]店舗数は1983年8月の200店から1985年6月に300店へ増えた
- [27]櫻田慧は18年間社長を務めた後、1990年6月に会長に就任し、社長を渡辺和男に譲った
- モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
- [24]1985年11月に株式を店頭売買銘柄として日本証券業協会に登録した
- [25]1988年3月に東証二部へ上場した
- [26]店舗数は1988年7月に700店、1989年4月に800店へ達した