1958年〜 松田瑞穂氏の牛丼一筋チェーン化から1980年の会社更生法申請まで
- 1958年 吉野家を設立
- 1968年 新橋に「吉野家」2号店を開店
- 1977年 YOSHINOYA WEST,INC.を設立
- 1980年 会社更生法の申請と、不採算店閉鎖・生タレ復帰による再建 清算か、更生か——牛丼一品で急拡大した外食チェーンが倒産の淵で選んだ道
- 1983年 会社更生計画認可決定
- 1987年 会社更生手続終結決定
時給200円で人を集めた牛丼チェーンの急拡大
1958年12月、東京・築地で牛丼店を営んでいた松田瑞穂氏が株式会社吉野家(現・株式会社吉野家ホールディングス)を設立した。吉野家はもともと松田家の家業で、東京大空襲の後に築地で営業を再開した店を松田瑞穂氏が軌道に乗せた。具材から糸こんにゃくや長ネギ、豆腐を取り除き、牛肉とタマネギだけの一杯に絞り込んだのも、並盛をご飯二六〇グラムに肉八五グラムとし、つゆを満遍なくかけられるようお玉の穴を四七個に定めたのも松田瑞穂氏の発案とされる。牛丼一品に価値を集約するこの型が、その後の急拡大の土台になった。 [1][2][3]
- 吉野家ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1958年12月に株式会社吉野家(現・吉野家ホールディングス)を設立した
- 週刊東洋経済 2014年8月9日号
- [2]創業社長は松田瑞穂氏で、築地で営業再開した家業の店を軌道に乗せた
- [3]牛肉とタマネギだけの一杯に絞り、並盛はご飯260グラムに肉85グラム、お玉の穴は47個とした
松田瑞穂氏は多店舗化を急いだ。1968年12月にはチェーン展開による多店舗化を目指して新橋に二号店を開き、都心の企業戦士でにぎわう立地に店を重ねた。「一〇〇億円に向かって驀進中の外食チェーン。時給二〇〇円」という求人広告は、時給一五〇〜170円が相場の時代に賄い付きの好条件で人を集めた。ミュージシャンを志して福岡から上京した安部修仁氏も、この広告に引かれて1970年代後半にアルバイトとして加わり、後に社員へ登用されている。学歴を問わず適性で若手を抜擢する松田瑞穂氏の登用方針が、現場から幹部を育てる文化をつくった。 [4][5][6]
- 吉野家ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [4]1968年12月にチェーン展開を目指し新橋に吉野家2号店を開いた
- 週刊東洋経済 2014年8月9日号
- [5]「時給二〇〇円」の求人広告は相場の時給150〜170円を上回る好条件だった
- [6]安部修仁氏は1970年代後半にアルバイトとして入り社員に登用された
1973年にフランチャイズ制度を導入し、小田原にフランチャイズ一号店を開いてからは店舗が急増した。四年後には100店、その翌年には200店に達し、松田瑞穂氏は二〇代の若い社員を地方の店舗開拓責任者へ次々に抜擢した。1977年11月には米国西海岸での店舗展開を目的にYOSHINOYA WEST, INC.(現・YOSHINOYA AMERICA, INC.)を設立し、海外へも足を延ばした。牛丼という単品を短時間で回す業態は、都市の勤め人の胃袋を的確につかみ、外食チェーンの成長モデルとして注目を集めた。 [7][8][9]
- 週刊東洋経済 2014年8月9日号
- [7]1973年にフランチャイズ制度を導入し小田原にFC1号店を開店した
- [8]FC導入の4年後に100店、その翌年に200店へ達した
- 吉野家ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [9]1977年11月に米国西海岸展開のためYOSHINOYA WEST, INC.(現・YOSHINOYA AMERICA, INC.)を設立した
- 吉野家ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1958年12月に株式会社吉野家(現・吉野家ホールディングス)を設立した
- [4]1968年12月にチェーン展開を目指し新橋に吉野家2号店を開いた
- [9]1977年11月に米国西海岸展開のためYOSHINOYA WEST, INC.(現・YOSHINOYA AMERICA, INC.)を設立した
- 週刊東洋経済 2014年8月9日号
- [2]創業社長は松田瑞穂氏で、築地で営業再開した家業の店を軌道に乗せた
- [3]牛肉とタマネギだけの一杯に絞り、並盛はご飯260グラムに肉85グラム、お玉の穴は47個とした
- [5]「時給二〇〇円」の求人広告は相場の時給150〜170円を上回る好条件だった
- [6]安部修仁氏は1970年代後半にアルバイトとして入り社員に登用された
- [7]1973年にフランチャイズ制度を導入し小田原にFC1号店を開店した
- [8]FC導入の4年後に100店、その翌年に200店へ達した
過剰出店と乾燥肉の失敗が招いた会社更生法申請
社内では200店が限界という見方が共通認識だった。一店に一日1,000人を集めるには商圏人口10万が要り、そうした都市は国内に二〇〇ほどしかないと見積もられていた。それでもフランチャイズオーナーの拡大要請が続いて出店は止まらなかった。一方で牛肉調達は難しさを増す。吉野家の勢力拡大でショートプレート(バラ肉)の需給が逼迫していたところに、1973年に日本政府が国内畜産保護を目的として牛肉輸入を制限し、肉が高騰した。並盛は一杯200円から段階的に350円まで引き上げられ、客足が遠のいた。 [10][11][12]
- 週刊東洋経済 2014年8月9日号
- [10]一店一日1000人集客には商圏人口10万が必要で、社内で200店が限界とみられていた
- [11]1973年に日本政府が畜産保護を目的に牛肉輸入を制限し、牛肉が高騰した
- [12]並盛は200円から段階的に350円まで値上げされた
松田瑞穂氏は輸入制限を避けるため、米国産の肉を台湾で乾燥肉(フリーズドライ肉)に加工して輸入する方式を考案し、タレも粉末化した。発想は目新しかったものの味は落ち、客離れがさらに進む。1980年に入ると経営は悪化し、資金繰りに窮した吉野家は大株主でフランチャイズオーナーでもあった不動産管理会社の新橋商事に緊急融資を仰いだ。以後、再建の指揮権は新橋商事へ移り、社内は新橋側とそれ以外に割れて一枚岩ではなくなった。営業部長だった安部修仁氏も有楽町店の店長へ降格されている。 [13][14]
- 週刊東洋経済 2014年8月9日号
- [13]松田瑞穂氏は米国産肉を台湾で加工する乾燥肉方式を導入したが味が落ちた
- [14]1980年、資金繰りに窮し大株主でFCオーナーの不動産管理会社・新橋商事に緊急融資を仰ぎ再建の指揮権が移った
1980年7月、吉野家は東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請し、事実上倒産した。負債は約122億円に上る。飲食企業への会社更生法適用は前代未聞で、店舗の機材からどんぶりに至るまでリースの吉野家には資産らしい資産もなかった。同年11月に更生手続開始が決定する。安部修仁氏ら現場の若手は新規出店をすべて止め、九州・広島地区の全店を含む不採算店を閉め、値引きの再建セールで「吉野家ここにあり」を訴えた。倒産の一因になった乾燥肉は大半を廃止し、粉末タレも元の生タレに戻した。1983年3月には会社更生計画が認可される。保全管理人を務めた増岡章三弁護士とセゾングループの堤清二氏が旧制高校・東京大学の学友であった縁もあり、セゾングループの支援が決まった。その後は朝食メニューやカレー、うどんの導入が当たって既存店売上高の更新が続き、1987年3月に会社更生手続が終結した。計画より早い債務完済で、倒産から六年八カ月で再建を果たしている。 [15][16][17][18][19]
- 吉野家ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [15]1980年7月に会社更生手続開始を申し立て、同年11月に更生手続開始が決定した
- [18]1983年3月に会社更生計画認可、1987年3月に会社更生手続が終結した
- 週刊東洋経済 2007年12月1日号
- [16]会社更生法申請時の負債は約122億円だった
- 週刊東洋経済 2014年8月9日号
- [17]再建期に新規出店を止め九州・広島地区の全店など不採算店を閉め、乾燥肉を廃止し生タレに戻した
- [19]保全管理人の増岡章三弁護士とセゾングループの堤清二氏の縁でセゾングループの支援が決まった
- 週刊東洋経済 2014年8月9日号
- [10]一店一日1000人集客には商圏人口10万が必要で、社内で200店が限界とみられていた
- [11]1973年に日本政府が畜産保護を目的に牛肉輸入を制限し、牛肉が高騰した
- [12]並盛は200円から段階的に350円まで値上げされた
- [13]松田瑞穂氏は米国産肉を台湾で加工する乾燥肉方式を導入したが味が落ちた
- [14]1980年、資金繰りに窮し大株主でFCオーナーの不動産管理会社・新橋商事に緊急融資を仰ぎ再建の指揮権が移った
- [17]再建期に新規出店を止め九州・広島地区の全店など不採算店を閉め、乾燥肉を廃止し生タレに戻した
- [19]保全管理人の増岡章三弁護士とセゾングループの堤清二氏の縁でセゾングループの支援が決まった
- 吉野家ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [15]1980年7月に会社更生手続開始を申し立て、同年11月に更生手続開始が決定した
- [18]1983年3月に会社更生計画認可、1987年3月に会社更生手続が終結した
- 週刊東洋経済 2007年12月1日号
- [16]会社更生法申請時の負債は約122億円だった