創業1958年12月、高度成長期の東京・築地で松田瑞穂氏が株式会社吉野家を設立した。松田家の家業だった牛丼店を、具材を牛肉とタマネギに絞り、並盛をご飯二六〇グラムに肉八五グラム、つゆを満遍なくかけられるようお玉の穴を四七個に定めるところまで規格化した一杯へ集約したのが原点である。単品を短い時間で回す業態は都心の勤め人の胃袋をつかみ、1973年のフランチャイズ導入で四年後に一〇〇店へ達する急拡大の土台になった。
- 歴史詳細 3章・4,274字
メインコンテンツ。一次資料をベースに歴史を紐解く
- 沿革年表 56件
主要な出来事を重要度別に時系列で整理
- 長期業績 2006〜2026年(21カ年)
有価証券報告書などの公開データに基づく長期データ
- 直近の業績
業績推移と経営体制
- セグメント情報 2014〜2025年(12カ年)
各事業の売上・営業利益・利益率の推移
- 歴代社長 3名
代表取締役社長・CEO の在任期間・経歴・在任中の施策
- 取締役一覧 2019〜2025年(7カ年)
取締役の構成バランスと社外独立性
- 大株主・株主構成 2015〜2025年(11カ年)
上位10名の入れ替わりと所有者区分7区分の推移
- 組織と給料 2011〜2025年(15カ年)
連結/単体の年次変化と業界他社の平均給与比較
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1958年〜1987年 松田瑞穂氏の牛丼一筋チェーン化から1980年の会社更生法申請まで
時給二〇〇円で人を集めた牛丼チェーンの急拡大
1958年12月、東京・築地で牛丼店を営んでいた松田瑞穂氏が株式会社吉野家(現・株式会社吉野家ホールディングス)を設立した[1][2]。吉野家はもともと松田家の家業で、東京大空襲の後に築地で営業を再開した店を松田瑞穂氏が軌道に乗せた。具材から糸こんにゃくや長ネギ、豆腐を取り除き、牛肉とタマネギだけの一杯に絞り込んだのも、並盛をご飯二六〇グラムに肉八五グラムとし、つゆを満遍なくかけられるようお玉の穴を四七個に定めた[3]のも松田瑞穂氏の発案とされる。牛丼一品に価値を集約するこの型が、その後の急拡大の土台になった。
松田瑞穂氏は多店舗化を急いだ。1968年12月にはチェーン展開による多店舗化を目指して新橋に二号店を開き[4]、都心の企業戦士でにぎわう立地に店を重ねた。「一〇〇億円に向かって驀進中の外食チェーン。時給二〇〇円」という求人広告は、時給一五〇〜一七〇円が相場の時代に賄い付きの好条件で人を集めた[5]。ミュージシャンを志して福岡から上京した安部修仁氏も、この広告に引かれて一九七〇年代後半にアルバイトとして加わり、後に社員へ登用されている[6]。学歴を問わず適性で若手を抜擢する松田瑞穂氏の登用方針が、現場から幹部を育てる文化をつくった。
1973年にフランチャイズ制度を導入し、小田原にフランチャイズ一号店を開いてからは店舗が急増した[7]。四年後には一〇〇店、その翌年には二〇〇店に達し[8]、松田瑞穂氏は二〇代の若い社員を地方の店舗開拓責任者へ次々に抜擢した。1977年11月には米国西海岸での店舗展開を目的にYOSHINOYA WEST, INC.(現・YOSHINOYA AMERICA, INC.)を設立し[9]、海外へも足を延ばした。牛丼という単品を短時間で回す業態は、都市の勤め人の胃袋を的確につかみ、外食チェーンの成長モデルとして注目を集めた。
過剰出店と乾燥肉の失敗が招いた会社更生法申請
社内では二〇〇店が限界という見方が共通認識だった。一店に一日一〇〇〇人を集めるには商圏人口一〇万が要り、そうした都市は国内に二〇〇ほどしかないと見積もられていた[10]。それでもフランチャイズオーナーの拡大要請が続いて出店は止まらなかった。一方で牛肉調達は難しさを増す。吉野家の勢力拡大でショートプレート(バラ肉)の需給が逼迫していたところに、1973年に日本政府が国内畜産保護を目的として牛肉輸入を制限し、肉が高騰した[11]。並盛は一杯二〇〇円から段階的に三五〇円まで引き上げられ、客足が遠のいた[12]。
松田瑞穂氏は輸入制限を避けるため、米国産の肉を台湾で乾燥肉(フリーズドライ肉)に加工して輸入する方式を考案し、タレも粉末化した。発想は目新しかったものの味は落ち[13]、客離れがさらに進む。1980年に入ると経営は悪化し、資金繰りに窮した吉野家は大株主でフランチャイズオーナーでもあった不動産管理会社の新橋商事に緊急融資を仰いだ。以後、再建の指揮権は新橋商事へ移り[14]、社内は新橋側とそれ以外に割れて一枚岩ではなくなった。営業部長だった安部修仁氏も有楽町店の店長へ降格されている。
1980年7月、吉野家は東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請し、事実上倒産した[15]。負債は約一二二億円に上る[16]。飲食企業への会社更生法適用は前代未聞で、店舗の機材からどんぶりに至るまでリースの吉野家には資産らしい資産もなかった。同年11月に更生手続開始が決定する。安部修仁氏ら現場の若手は新規出店をすべて止め、九州・広島地区の全店を含む不採算店を閉め、値引きの再建セールで「吉野家ここにあり」を訴えた[17]。倒産の一因になった乾燥肉は大半を廃止し、粉末タレも元の生タレに戻した。1983年3月には会社更生計画が認可される[18]。保全管理人を務めた増岡章三弁護士とセゾングループの堤清二氏が旧制高校・東京大学の学友であった縁もあり、セゾングループの支援が決まった[19]。その後は朝食メニューやカレー、うどんの導入が当たって既存店売上高の更新が続き、1987年3月に会社更生手続が終結した。計画より早い債務完済で、倒産から六年八カ月で再建を果たしている。
吉野家は大丈夫だ。会社更生の申し立てをしてくれ。
1988年〜2007年 商号変更と株式公開による再上場、そして二度目の危機となったBSE
吉野家ディー・アンド・シーへの商号変更と株式公開
再建を終えた吉野家は多角化へ動く。1988年3月、ダンキンドーナツを展開する株式会社ディー・アンド・シーを吸収合併し、商号を株式会社吉野家ディー・アンド・シーへ改めた[20]。牛丼一品への集中で一度つまずいた反省から、業態の幅を広げる狙いだった。1990年1月には日本証券業協会に店頭登録銘柄として登録し[21]、会社更生法申請から一〇年で株式公開にこぎ着けた。もっともダンキンドーナツ事業は伸びず、1998年9月に撤退している[22]。カレー店の多店舗化なども振るわず、多角化はしばらく成果に乏しかった。
1999年10月には更生会社の株式会社京樽の株式を取得し[23]、持ち帰りずしなど別業態を傘下に加えた。2000年11月、吉野家ディー・アンド・シーは東京証券取引所市場第一部へ上場する[24]。会社更生法申請から二〇年での一部上場は「奇跡の復活」と報じられたが、社内の空気は祝賀一色ではなかった。上場と前後して牛丼二位の松屋フーズが並盛を二九〇円へ三割値下げし、吉野家に一一〇円の価格差をつけた[25]ためである。2000年10月には全店売上高が前年割れに転じ、価格競争の激しさが再建後の吉野家に重くのしかかった。
米国産牛肉の輸入停止による牛丼販売の休止
2003年12月、米国でBSE(牛海綿状脳症)の感染牛が発見され、日本政府は米国産牛肉の輸入を停止した[26]。牛肉の九九%を米国産に頼っていた吉野家は看板商品の食材を絶たれる[27]。2004年2月11日、吉野家は牛丼の販売を一時休止した[28]。米国産でなければ吉野家の味は作れないという判断から、安部修仁社長は豪州産などへの切り替えではなく休止を選んだ。会社更生法申請以来の危機とされたが、無借金で自己資金も厚く、財務面での不安は小さかった。
吉野家は焼鶏丼やマーボー丼、豚丼といった代替商品の開発に走ったが、客足は戻らなかった。牛丼停止から一年経った2005年2月期の既存店売上高は前年比で三割沈む[29]。すき家や松屋が豪州産や中国産の牛肉で牛丼を続けるなかでも、安部修仁社長は米国産へのこだわりを崩さなかった[30]。牛肉というパーツだけを差し替えても客の期待には応えられないという判断からである。輸入は2005年12月にいったん再開されたものの脊柱の混入が見つかって一カ月で再停止し[31]、休止は長期化した。
2006年9月18日、九五〇日ぶりに牛丼が復活し、全国の店で完売が相次いだ[32]。この間、吉野家は多角化を再び進めていた。2004年6月には讃岐うどんチェーンの株式会社はなまるを傘下に収め、後にグループ社長を担う河村泰貴氏が再建にあたった[33]。2007年10月には純粋持株会社制へ移行し、商号を株式会社吉野家ホールディングスへ改めるとともに、事業会社の株式会社吉野家を新設分割で設立した[34]。安部修仁氏はホールディングス社長として、牛丼の吉野家に京樽やはなまるを並べる連結経営へ軸を移した。
牛丼の在庫が切れても、全店の営業は続ける。一定期間は普通のどんぶりチェーンになる、ということだ。 この先二〜三年間は何もしなくても社員の給料を払い続ける資金はある。店と人材さえあれば、ブランドや収益はいつでも作る自信がある。
2008年〜2026年 持株会社移行後の牛丼価格競争と事業ポートフォリオの再編
三度目の正念場となった牛丼価格競争と経営トップの交代
2008年3月、吉野家は牛丼の二四時間販売を再開し、危機前の営業体制へ戻した[35]。ところが2009年末から牛丼三社の価格競争が再燃する。松屋が牛めしを三二〇円へ、すき家が牛丼を二八〇円へ引き下げるなか[36]、米国産牛肉の仕入れコストを理由に吉野家は恒常的な値下げに追随しなかった。割安な豪州産などを使う二社との価格差が客離れを招き、吉野家は牛丼三社のなかで独り負けの状態に陥った[37]。持株会社化で進めたステーキ店やラーメン店の買収も収益に結びつかず、多角化はむしろ重荷となった。
2010年2月期の連結決算は経常赤字に沈み、子会社の不振も重なって最終損益は八九億円の赤字に膨らんだ。会社更生法申請以来の規模で、吉野家にとって三度目の正念場となった。緊急事態を受けて安部修仁ホールディングス社長は同年4月、事業会社である吉野家の社長を出射孝次郎氏から引き継いで復帰し、両社の社長を兼ねる体制を敷いた[38]。活路の一つに掲げたのが中国を中心とする海外展開で、経済発展の著しい市場に日本での成長の方程式を持ち込む構えを見せた。
2013年2月に米国産牛肉の輸入規制が緩和されて牛丼向けの肉が入りやすくなると、安部修仁社長は同年4月に牛丼並盛を三八〇円から二八〇円へ値下げした[39]。BSE以前の水準へ戻す一手で、客足は急回復する。同じ頃に投入した牛すき鍋膳も、「うまい、やすい、はやい」の看板を「うまい、やすい、ごゆっくり」へ読み替える挑戦として当たった。2014年8月、入社四二年・社長就任二二年の安部修仁氏が経営の第一線を退き、はなまる出身の河村泰貴氏がホールディングス社長として吉野家を率いる世代交代が進んだ[40]。
ほかと同じことやったって、しょうがねぇんだよ。
海外展開の加速と京樽譲渡による事業ポートフォリオ再編
河村泰貴社長は牛肉価格の高騰を背景に、2014年12月に牛丼並盛を三〇〇円から三八〇円へ値上げした[41]。国内で客数の伸び悩みが続くなか、力を注いだのが海外展開である。河村泰貴社長は東南アジアの部隊に「GO WEST」を掲げ、中東やインド、アフリカまで店舗網を広げる方針を示した[42]。台湾や中国本土に加え、マレーシアなど東南アジアへも出店が進み、「吉野家」は海外店舗数が国内に迫る規模へ育っていく。国内では健康志向のベジ丼やちょい飲み業態の吉呑みなど、牛丼単品に頼らない試みを重ねた。
2020年に始まったコロナ禍は外食に打撃を与えた。2021年2月期の連結決算は営業損益が五三億円の赤字、最終損益は七五億円の赤字へ沈む。吉野家ホールディングスは不採算店の閉鎖と出店抑制を進めつつ、事業の絞り込みに踏み切った。2020年2月にステーキ業態のアークミールを安楽亭へ譲渡し、2021年4月には持ち帰りずしの京樽の全株式を回転ずしのFOOD & LIFE COMPANIESへ譲渡した[43]。2022年4月にはマレーシアの寿司チェーンSUSHI KINGも手放し[44]、牛丼の吉野家とうどんのはなまる、海外を核とする体制へ絞り込んだ。
2022年4月、東京証券取引所の市場区分見直しに伴い、吉野家ホールディングスはプライム市場へ移行した[45]。京樽の譲渡で連結店舗はいったん大きく減ったが、コロナ禍が明けると業績は回復に向かう。連結売上高は2021年2月期の一七〇三億円を底に持ち直し、2025年2月期には二〇五〇億円、翌2026年2月期には二二五七億円まで戻した。会社は「2029年度グループ中期経営計画」を掲げ、既存事業の変革と新たな成長ドライバーの育成、海外の店舗網拡大を柱に据えている[46]。牛丼一品から出発した会社は、二度の危機を経て、牛丼と多業態・海外を組み合わせる外食グループへと姿を変えた。