モスフードサービス の歴史

更新: Author:

創業 1972年
創業者 櫻田慧、渡辺和男、吉野祥
創業地 東京都板橋区
創業
1972年3月、日興証券を辞めた櫻田慧氏が、東京都板橋区の成増駅前に2.8坪の実験店を出した。ロサンゼルス支店の駐在中に通った手作りハンバーガー店が原型で、前年に日本マクドナルドが銀座に1号店を開設したのを見て業態を決めている。同年6月に八百屋の倉庫を改造した直営1号店を開設し、7月に株式会社モス・フード・サービスを設立した。創業は櫻田氏と、同じ日興証券出身の渡辺和男氏・吉野祥氏の3人による。1973年5月には醤油と味噌のソースを使うテリヤキバーガーを発売し、同年11月に名古屋でフランチャイズ1号店が開いている。
決断
立地の弱さを商品で埋める順序を、創業から50年変えていない。駅前の一等地ではなく賃料の安い商店街のはずれに小型店を置き、作り置きをせず注文を受けてから調理する。本部が加盟店から取るロイヤルティーは売上の1%で、利益は食材の供給から得る。開店資金は加盟店の全額負担で、家族経営のオーナーが選べる立地は自然と二等地に絞られた。客足の弱さを補うのは価格ではなく商品で、テリヤキバーガーもモスライスバーガーもここから出ている。1983年12月の吉野祥氏の急死を機に1985年11月に株式を店頭登録し、2006年2月には農業生産法人サングレイスへ資本参加している。調理も食材も店の外に出さなかったことが、値下げ競争から降りても客単価を保てる商品構成を作った。
現況
売上の8割は、国内のモスバーガー1業態が生んでいる。2026年3月期の連結売上高は1,028億円、営業利益66億円、当期純利益46億円で、売上高は3期連続で過去最高を更新した。セグメント別では国内モスバーガー事業が840億円・利益79億円、海外155億円・同3億円、その他飲食20億円・同2億円の損失である。海外は台湾を最大市場にアジア9つの国・地域へ広がるが、利益はほとんど出ていない。2018年9月の腸管出血性大腸菌O121による食中毒を公表した対応では翌期に9億円の最終赤字へ沈み、以後は手頃な『レギュラー』から『超プレミアム』まで3つの価格帯を並べて値上げと客数を両立させた。国内1業態に絞ったことが、原材料高を価格帯の設計で吸収する余地を残した。
競合
価格で並ばず、同じ商品を高く売る側に立ち続けてきた。平成不況で主力ハンバーガーの大幅値下げに転じた日本マクドナルドに対し、モスは価格を据え置いた。客単価は70〜80円高かったが、1994年3月期の既存店売上高は前年度比2%増と、6%減だった相手を上回り、店舗数も1,277店対1,040店で国内首位に立った。その後の30年で関係は反転し、2025年12月期の日本マクドナルドホールディングスの売上高4,166億円に対し、モスは2026年3月期に1,028億円である。差がついたのは商品ではなく店の数と回転で、加盟店オーナーの高齢化と二等地の小型店という構えが出店の速度を縛った。
モスフードサービス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 日興証券を辞めた3人が成増で始めた手作りハンバーガーチェーン (1972年〜)

ロサンゼルスで出会った味と成増の実験店

モスバーガーを運営するモスフードサービスの創業者・櫻田慧氏は1937年、岩手県に生まれた。1960年に日本大学経済学部を卒業して日興証券に入り、東京・浅草支店の営業マンとして頭角を現したのち、1962年にロサンゼルス支店へ赴任する。[1]駐在中に通い詰めた手作りハンバーガー店『トミーズ』は[2]、好立地とは言えない場所ながら材料の質と調理の丁寧さで客を集めており、この体験がのちの商売の原型となった。証券不況で本店外国部に呼び戻されたことに不満を募らせた櫻田氏は、1965年7月に日興証券を退社し、浅草の皮革問屋ヒサゴヤに転職した[3]

  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [1]櫻田慧は1937年岩手県生まれで、1960年に日本大学経済学部を卒業し日興証券に入社した
    • [2]1962年にロサンゼルス支店へ転属し、駐在中に手作りハンバーガー店「トミーズ」に足繁く通った
    • [3]1965年7月に日興証券を退社し、浅草の皮革問屋ヒサゴヤに転職した

ヒサゴヤには日興証券の後輩だった渡辺和男氏と、元日興証券社員の吉野祥氏が相次いで合流した[4]。しかし同社の経営は苦しく、3人は独立の意思を固める。吉野氏と渡辺氏が1970年5月に退社すると、翌月[5]には独立への受け皿として株式会社モスを設立した。転機は1971年7月、日本マクドナルド1号店の銀座開業だった[6]。その盛況を見た櫻田氏はロサンゼルス時代に知った味を思い出し、『ハンバーガーでいこう』と2人に言い放つ。1972年3月に東武東上線成増駅前の[7]ショッピングセンター地下へわずか2.8坪の実験店を出し[8]、同年6月には八百屋の倉庫を改造した直営1号店『成増店』を開店、7月に株式会社モス・フード・サービスを設立した。[9]

  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [4]櫻田慧はヒサゴヤに渡辺和男を招き、元日興証券社員の吉野祥を仲間に引き入れた
    • [5]吉野・渡辺の2人が1970年5月に退社し、翌月に受け皿として株式会社モスを設立した
    • [6]1971年7月に日本マクドナルド1号店が銀座に開業し、櫻田は「ハンバーガーでいこう」と決めた
  • モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1972年3月に東京都板橋区成増に実験店を開いた
    • [9]1972年6月にモスバーガー1号店「成増店」がオープンし、同年7月に株式会社モス・フード・サービスを設立した
    • [8]実験店は2.8坪の小規模な店舗だった

社名のMOSには『山(Mountain)のように気高く堂々と、海(Ocean)のように深く広い心で、太陽(Sun)のように燃え尽きることのない情熱を持って』[引用元]という意味が込められている。創業間もない時期の櫻田氏は1日3時間の睡眠で午前7時から午後11[10]時まで1号店の切り盛りにあたり、1972年秋にはぎっくり腰で倒れて病床で涙をこぼした。日興証券時代に89キロあった体重は61キロまで落ちたが、事業の先行きに何とかメドが立ったのは、1973年3月に日本大学構内に出した2号店が繁盛し、1号店も軌道に乗ってからだった。[11]

  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [10]創業期の櫻田は1日3時間の睡眠で午前7時から午後11時まで1号店を切り盛りし、体重は89キロから61キロに減った
    • [11]1973年3月に日本大学構内に出した2号店が繁盛し、事業の先行きにメドが立った
  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [1]櫻田慧は1937年岩手県生まれで、1960年に日本大学経済学部を卒業し日興証券に入社した
    • [2]1962年にロサンゼルス支店へ転属し、駐在中に手作りハンバーガー店「トミーズ」に足繁く通った
    • [3]1965年7月に日興証券を退社し、浅草の皮革問屋ヒサゴヤに転職した
    • [4]櫻田慧はヒサゴヤに渡辺和男を招き、元日興証券社員の吉野祥を仲間に引き入れた
    • [5]吉野・渡辺の2人が1970年5月に退社し、翌月に受け皿として株式会社モスを設立した
    • [6]1971年7月に日本マクドナルド1号店が銀座に開業し、櫻田は「ハンバーガーでいこう」と決めた
    • [10]創業期の櫻田は1日3時間の睡眠で午前7時から午後11時まで1号店を切り盛りし、体重は89キロから61キロに減った
    • [11]1973年3月に日本大学構内に出した2号店が繁盛し、事業の先行きにメドが立った
  • モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1972年3月に東京都板橋区成増に実験店を開いた
    • [9]1972年6月にモスバーガー1号店「成増店」がオープンし、同年7月に株式会社モス・フード・サービスを設立した
    • [8]実験店は2.8坪の小規模な店舗だった

マクドナルドの逆を行く二等地とテリヤキバーガー

モスの商法は、米国流ハンバーガー事業の『日本化』を徹底する点に特徴があった。駅前の一等地に大型店を構える先行チェーンに対し、出店コストの安い商店街のはずれ、いわゆる二等地に小さな店を出し、作り置きをせず注文を受けてから調理する[12]。日本人の味覚に合わせた商品開発も柱に据え、創業翌年の1973年5月には、醤油と味噌をベースにしたソースを使う『テリヤキバーガー』を発売した。[13]和風の照り焼き味は発売と同時にヒットし、マクドナルドをはじめ他チェーン[14]が追随する定番商品となる。1973年11月には愛知県名古屋市にフランチャイズ1号店[15]『新瑞店』が開店し、加盟店網の拡大が始まった。

  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [12]モスは二等地への小型出店と注文を受けてからの調理を戦略とし、マクドナルドの手法を逆手に取った
    • [13]1973年5月にテリヤキバーガーを発売した
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号
    • [14]テリヤキバーガーは発売と同時にヒットし、マクドナルドはじめ他チェーンがメニューに加えた
  • モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1973年11月にフランチャイズ1号店「新瑞店」(愛知県)がオープンした

フランチャイズの仕組みも独特だった。本部が加盟店から徴収するロイヤルティーは売り上げの1%に抑え、本部は加盟店への食材供給で利益を確保する[16]。加盟店の多くはオーナー自らが調理場に立つ家族経営で、開店資金は全て加盟店が負担した[17]。資金力の乏しい個人オーナーの立地は二等地に限られるため、客足を呼ぶ独自商品の開発が欠かせないという循環が商品力を鍛えた。店舗網は1979年1月に100店、1983年8月に200店、1986年12[18]月に500店と広がり、1986年6月には熊本・滋賀両県への出店で外食産業初の全47都道府県出店を達成した。[19]1987年には、当時余っていた標準米[20]を使いご飯のプレートで具を挟む『モスライスバーガー』を発売している。

  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [16]加盟店から本部が集めるロイヤルティーは売り上げの1%で、本部は食材供給で利益を確保した
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号
    • [17]加盟店の多くはオーナー自ら調理する家族経営で、開店資金は加盟店が負担した
    • [18]店舗数は1979年1月に100店、1983年8月に200店、1986年12月に500店へ達した
    • [20]1987年にモスライスバーガーを発売した。原料には当時余っていた標準米を使った
  • モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1986年6月に健軍店・彦根大藪店のオープンで外食産業初の全47都道府県出店を達成した
  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [12]モスは二等地への小型出店と注文を受けてからの調理を戦略とし、マクドナルドの手法を逆手に取った
    • [16]加盟店から本部が集めるロイヤルティーは売り上げの1%で、本部は食材供給で利益を確保した
    • [13]1973年5月にテリヤキバーガーを発売した
    • [18]店舗数は1979年1月に100店、1983年8月に200店、1986年12月に500店へ達した
    • [20]1987年にモスライスバーガーを発売した。原料には当時余っていた標準米を使った
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号
    • [14]テリヤキバーガーは発売と同時にヒットし、マクドナルドはじめ他チェーンがメニューに加えた
    • [17]加盟店の多くはオーナー自ら調理する家族経営で、開店資金は加盟店が負担した
  • モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1973年11月にフランチャイズ1号店「新瑞店」(愛知県)がオープンした
    • [19]1986年6月に健軍店・彦根大藪店のオープンで外食産業初の全47都道府県出店を達成した

盟友の急死を機に決めた株式公開と上場

株式公開を決意させたのは盟友の死だった。1983年12月、店舗を巡回して経営指導を行うスーパーバイザー業務を統括していた吉野祥氏(当時専務)が急死する[21]。フランチャイジーと日常的に接する実務で中心的な役割を担った吉野氏を欠いた打撃は重く、属人的な結束から組織的な経営への移行が急務となった。櫻田慧氏は3カ月間何も手につかなかったが、組織の整備など企業基盤を固めることが重要だと判断し、株式公開を決めた。このころ加盟を希望する店は急増しており、質を落とさずにチェーン網を速く広げる素地も整っていた。店舗数は1983年8月の200店から1985年6[22]月には300店へ増えている。

  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [21]1983年12月に専務の吉野祥が急死し、櫻田慧は株式公開を決意した
    • [22]店舗数は1983年8月の200店から1985年6月に300店へ増えた

1985年11月に株式を店頭売買銘柄として日本証券業協会に登録し[23]、1988年3月には東京証券取引所市場第二部に上場した[24]。店舗数は1988年7月に700店、1989年4[25]月には800店に到達する。企業基盤がひとまず固まったのを見届けた櫻田慧氏は1990年6月に会長へ退き、社長を渡辺和男氏[26]に譲った。18年間にわたり社長を務めてきた櫻田氏はこれ以後、ラーメンや牛どん、カレーライスといった新業態の開発や国際戦略の立案に軸を移すと語り、自らが体現してきたカリスマ経営の第一線から一歩引いた。

  • モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1985年11月に株式を店頭売買銘柄として日本証券業協会に登録した
    • [24]1988年3月に東証二部へ上場した
    • [25]店舗数は1988年7月に700店、1989年4月に800店へ達した
  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [26]櫻田慧は18年間社長を務めた後、1990年6月に会長に就任し、社長を渡辺和男に譲った
  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [21]1983年12月に専務の吉野祥が急死し、櫻田慧は株式公開を決意した
    • [22]店舗数は1983年8月の200店から1985年6月に300店へ増えた
    • [26]櫻田慧は18年間社長を務めた後、1990年6月に会長に就任し、社長を渡辺和男に譲った
  • モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1985年11月に株式を店頭売買銘柄として日本証券業協会に登録した
    • [24]1988年3月に東証二部へ上場した
    • [25]店舗数は1988年7月に700店、1989年4月に800店へ達した

不況下でも値下げしない1000店チェーン

1991年3月末のモスバーガーチェーンは1015店に達し[27]、うち直営は50店にすぎず、全体の95%にあたる965店をフランチャイズ加盟店が占めた。1991年3月期のチェーン全店売上高は790億円[28]でハンバーガー業界2位、加盟店に食材を供給する本部モスフードサービスの売上高は404億円、経常利益は50億円の規模だった。海外にも足がかりを築き、1991年2月に台湾でモスバーガー1号店『新生南路店』を、1993年5月にはシンガポール1号店『イセタンスコッツ店』を開いている。[29]台湾はのちに最大の海外市場へ育った。

  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [27]1991年3月末の店舗数は1015店で、うち直営50店、95%の965店がFC加盟店だった
    • [28]1991年3月期のチェーン総売上高は790億円で業界2位、本部の売上高404億円・経常利益50億円だった
  • モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1991年2月に台湾1号店「新生南路店」、1993年5月にシンガポール1号店「イセタンスコッツ店」がオープンした

平成不況で外食産業の成長が止まり、マクドナルドやケンタッキーが実質値下げの低価格セット[30]を投入するなか、モスは価格を一切下げなかった。客単価はマクドナルドより70〜80円高いにもかかわらず、1994年3月期の既存店売上高は前年度比2%増と、6%減だった日本マクドナルドを上回った[31]。同期の本部売上高は550億3100万円、経常利益は65億200[32]万円、チェーン全店の末端売上高は1107億円と1000億円の大台を超えた。店舗数は1277店と日本マクドナルドの1040店を上回り[33]、ハンバーガーチェーンの首位に立った。1994年6月には東京・銀座に初の都心繁華街店を出し、朝食メニュー[34]やサンドイッチ店頭販売の実験にあてている。

  • 日経ビジネス 1994年7月11日号
    • [30]不況下でマクドナルド等が低価格セットを導入する中、モスは価格を下げなかった。客単価はマクドナルドより70〜80円高かった
    • [31]1993年度の既存店売上高はモスが前年度比2%増、日本マクドナルドは6%減だった
    • [32]1994年3月期は本部売上高550億3100万円・経常利益65億200万円、チェーン末端売上高1107億円だった
    • [33]1993年度末の店舗数はモス1277店・日本マクドナルド1040店で、モスがチェーン店舗数トップだった
    • [34]1994年6月8日に東京・銀座6丁目へ都心繁華街初の直営店を開き、朝食メニューやサンドイッチ販売を実験した
  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [27]1991年3月末の店舗数は1015店で、うち直営50店、95%の965店がFC加盟店だった
    • [28]1991年3月期のチェーン総売上高は790億円で業界2位、本部の売上高404億円・経常利益50億円だった
  • モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1991年2月に台湾1号店「新生南路店」、1993年5月にシンガポール1号店「イセタンスコッツ店」がオープンした
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号
    • [30]不況下でマクドナルド等が低価格セットを導入する中、モスは価格を下げなかった。客単価はマクドナルドより70〜80円高かった
    • [31]1993年度の既存店売上高はモスが前年度比2%増、日本マクドナルドは6%減だった
    • [32]1994年3月期は本部売上高550億3100万円・経常利益65億200万円、チェーン末端売上高1107億円だった
    • [33]1993年度末の店舗数はモス1277店・日本マクドナルド1040店で、モスがチェーン店舗数トップだった
    • [34]1994年6月8日に東京・銀座6丁目へ都心繁華街初の直営店を開き、朝食メニューやサンドイッチ販売を実験した

東証一部指定替えと創業者の突然の死

1996年9月、モスフードサービスの株式は東証二部から一部へ指定替[35]えとなった。一方でこの時期には、加盟店オーナーの高齢化と店[36]の引き継ぎが将来の不安材料として指摘され始めていた。30歳で店を持ったオーナーは創業から20年余りで50歳を超え、体力の衰えから若い時のような働き方が難しくなりつつあった。フランチャイズ比率95%のチェーンにとって、オーナーの世代交代は本部の成長を左右する構造的な課題だった。寝食を惜しんで働いても店の規模が小さく、夫婦2人の年収がせいぜい1000万円前後にとどまる加盟店[37]の現実も誌面に紹介されていた。

  • モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1996年9月に東証二部から一部へ指定替えとなった
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号
    • [36]1994年時点で加盟店オーナーの高齢化と店の引き継ぎがFC維持の課題と指摘されていた
    • [37]加盟店は夫婦2人の年収がせいぜい1000万円前後と指摘されていた

1997年5月、創業者で会長の櫻田慧氏が60歳で急逝[38]した。それだけに、理念と哲学でチェーンをまとめてきたカリスマの喪失に、経営陣も加盟店オーナーも動揺する。業績は1997年3月期から減益に転じ[39]、既存店売上高の前年割れが続いた。生野菜を有機野菜などへ切り替える取り組みを1997[40]年に始めるなど商品の質へのこだわりは保たれたが、減益と既存店の前年割れは止まらず、チェーンは創業者のいない経営体制づくりを迫られた。

  • 日経ビジネス 2000年2月28日号
    • [38]1997年5月に創業者の櫻田慧が60歳で急逝した
    • [39]業績は1997年3月期から減益が続いた
    • [40]1997年から生野菜を有機野菜に切り替えた
  • モスフードサービス 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1996年9月に東証二部から一部へ指定替えとなった
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号
    • [36]1994年時点で加盟店オーナーの高齢化と店の引き継ぎがFC維持の課題と指摘されていた
    • [37]加盟店は夫婦2人の年収がせいぜい1000万円前後と指摘されていた
  • 日経ビジネス 2000年2月28日号
    • [38]1997年5月に創業者の櫻田慧が60歳で急逝した
    • [39]業績は1997年3月期から減益が続いた
    • [40]1997年から生野菜を有機野菜に切り替えた

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

モスフードサービスの沿革1972〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1972〜1990年日興証券を辞めた3人が成増で始めた手作りハンバーガーチェーン実験店オープン
モスバーガー1号店「成増店」(東京都)オープン★★
モス・フード・サービスを設立
フランチャイズ1号店「新瑞店」(愛知県)オープン★★
商号を「モスフードサービス」と変更
盟友の急死を機に決めた株式公開と東証二部上場

1983年12月にスーパーバイザー業務を統括していた吉野祥専務が急死したのを機に、創業者の櫻田慧社長が株式公開を決断し、1985年11月に株式を店頭売買銘柄として日本証券業協会へ登録、1988年3月に東京証券取引所市場第二部へ上場した経営判断。

詳細を読む
★★★
健軍店・彦根大藪店の開店により外食産業初の全47都道府県出店を達成
株式を東京証券取引所市場第二部に上場
1991〜1997年店舗数で日本マクドナルドを抜いた1990年代と創業者・櫻田慧氏の急逝台湾におけるモスバーガー1号店「新生南路店」オープン★★
シンガポールにおけるモスバーガー1号店「イセタンスコッツ店」オープン
東京証券取引所市場第一部に指定替え
1998〜2015年お家騒動からの立て直し――店舗改革・匠味・農業参入・アジア再進出櫻田厚農業生産法人サングレイスへの資本参加による産地合弁への参入

2006年2月、モスフードサービスが農業生産法人・野菜くらぶなどと共同で農業生産法人サングレイスを設立し、資本参加によってトマトの生産そのものへ関与した経営判断。以後、産地ごとの合弁を各地に設ける形へ広げた。

詳細を読む
★★★
櫻田厚香港におけるモスバーガー1号店「APN店」オープン
櫻田厚タイ王国におけるモスバーガー1号店「セントラルワールドプラザ店」オープン
櫻田厚ダスキンと資本・業務提携契約を締結★★
櫻田厚モスフードサービス東日本に商号変更
櫻田厚大韓民国におけるモスバーガー1号店「チャムシルロッテ店」オープン
2016〜2025年創業家経営の区切り、食中毒とコスト危機を越えて過去最高の売上へ中村栄輔モスシャインを設立
中村栄輔モスシャインが障害者雇用促進法に基づく特例子会社の認定を取得
中村栄輔腸管出血性大腸菌O121による食中毒事故の公表と全店の衛生総点検

2018年8月に関東・甲信地方のモスバーガー19店舗を利用した28人が腸管出血性大腸菌O121に感染した食中毒事故について、モスフードサービスが9月10日と9月14日に相次いで公表し、店舗の営業自粛と全店の衛生総点検、検査項目の追加に踏み切った対応。

詳細を読む
★★★
中村栄輔営業自粛と全店の衛生総点検を実施★★
中村栄輔フィリピンにおけるモスバーガー1号店「ロビンソンガレリア店」オープン
中村栄輔プライム市場に移行
中村栄輔モスクレジットを吸収合併
出典・参考

免責事項およびポリシー