モスバーガーを運営するモスフードサービスの創業者・櫻田慧氏は1937年、岩手県に生まれた。1960年に日本大学経済学部を卒業して日興証券に入り、東京・浅草支店の営業マンとして頭角を現したのち、1962年にロサンゼルス支店へ赴任する。[1]駐在中に通い詰めた手作りハンバーガー店『トミーズ』は[2]、好立地とは言えない場所ながら材料の質と調理の丁寧さで客を集めており、この体験がのちの商売の原型となった。証券不況で本店外国部に呼び戻されたことに不満を募らせた櫻田氏は、1965年7月に日興証券を退社し、浅草の皮革問屋ヒサゴヤに転職した[3]。
ヒサゴヤには日興証券の後輩だった渡辺和男氏と、元日興証券社員の吉野祥氏が相次いで合流した[4]。しかし同社の経営は苦しく、3人は独立の意思を固める。吉野氏と渡辺氏が1970年5月に退社すると、翌月[5]には独立への受け皿として株式会社モスを設立した。転機は1971年7月、日本マクドナルド1号店の銀座開業だった[6]。その盛況を見た櫻田氏はロサンゼルス時代に知った味を思い出し、『ハンバーガーでいこう』と2人に言い放つ。1972年3月に東武東上線成増駅前の[7]ショッピングセンター地下へわずか2.8坪の実験店を出し[8]、同年6月には八百屋の倉庫を改造した直営1号店『成増店』を開店、7月に株式会社モス・フード・サービスを設立した。[9]
社名のMOSには『山(Mountain)のように気高く堂々と、海(Ocean)のように深く広い心で、太陽(Sun)のように燃え尽きることのない情熱を持って』[引用元]という意味が込められている。創業間もない時期の櫻田氏は1日3時間の睡眠で午前7時から午後11[10]時まで1号店の切り盛りにあたり、1972年秋にはぎっくり腰で倒れて病床で涙をこぼした。日興証券時代に89キロあった体重は61キロまで落ちたが、事業の先行きに何とかメドが立ったのは、1973年3月に日本大学構内に出した2号店が繁盛し、1号店も軌道に乗ってからだった。[11]
モスの商法は、米国流ハンバーガー事業の『日本化』を徹底する点に特徴があった。駅前の一等地に大型店を構える先行チェーンに対し、出店コストの安い商店街のはずれ、いわゆる二等地に小さな店を出し、作り置きをせず注文を受けてから調理する[12]。日本人の味覚に合わせた商品開発も柱に据え、創業翌年の1973年5月には、醤油と味噌をベースにしたソースを使う『テリヤキバーガー』を発売した。[13]和風の照り焼き味は発売と同時にヒットし、マクドナルドをはじめ他チェーン[14]が追随する定番商品となる。1973年11月には愛知県名古屋市にフランチャイズ1号店[15]『新瑞店』が開店し、加盟店網の拡大が始まった。
フランチャイズの仕組みも独特だった。本部が加盟店から徴収するロイヤルティーは売り上げの1%に抑え、本部は加盟店への食材供給で利益を確保する[16]。加盟店の多くはオーナー自らが調理場に立つ家族経営で、開店資金は全て加盟店が負担した[17]。資金力の乏しい個人オーナーの立地は二等地に限られるため、客足を呼ぶ独自商品の開発が欠かせないという循環が商品力を鍛えた。店舗網は1979年1月に100店、1983年8月に200店、1986年12[18]月に500店と広がり、1986年6月には熊本・滋賀両県への出店で外食産業初の全47都道府県出店を達成した。[19]1987年には、当時余っていた標準米[20]を使いご飯のプレートで具を挟む『モスライスバーガー』を発売している。
株式公開を決意させたのは盟友の死だった。1983年12月、店舗を巡回して経営指導を行うスーパーバイザー業務を統括していた吉野祥氏(当時専務)が急死する[21]。フランチャイジーと日常的に接する実務で中心的な役割を担った吉野氏を欠いた打撃は重く、属人的な結束から組織的な経営への移行が急務となった。櫻田慧氏は3カ月間何も手につかなかったが、組織の整備など企業基盤を固めることが重要だと判断し、株式公開を決めた。このころ加盟を希望する店は急増しており、質を落とさずにチェーン網を速く広げる素地も整っていた。店舗数は1983年8月の200店から1985年6[22]月には300店へ増えている。
1985年11月に株式を店頭売買銘柄として日本証券業協会に登録し[23]、1988年3月には東京証券取引所市場第二部に上場した[24]。店舗数は1988年7月に700店、1989年4[25]月には800店に到達する。企業基盤がひとまず固まったのを見届けた櫻田慧氏は1990年6月に会長へ退き、社長を渡辺和男氏[26]に譲った。18年間にわたり社長を務めてきた櫻田氏はこれ以後、ラーメンや牛どん、カレーライスといった新業態の開発や国際戦略の立案に軸を移すと語り、自らが体現してきたカリスマ経営の第一線から一歩引いた。
1991年3月末のモスバーガーチェーンは1015店に達し[27]、うち直営は50店にすぎず、全体の95%にあたる965店をフランチャイズ加盟店が占めた。1991年3月期のチェーン全店売上高は790億円[28]でハンバーガー業界2位、加盟店に食材を供給する本部モスフードサービスの売上高は404億円、経常利益は50億円の規模だった。海外にも足がかりを築き、1991年2月に台湾でモスバーガー1号店『新生南路店』を、1993年5月にはシンガポール1号店『イセタンスコッツ店』を開いている。[29]台湾はのちに最大の海外市場へ育った。
平成不況で外食産業の成長が止まり、マクドナルドやケンタッキーが実質値下げの低価格セット[30]を投入するなか、モスは価格を一切下げなかった。客単価はマクドナルドより70〜80円高いにもかかわらず、1994年3月期の既存店売上高は前年度比2%増と、6%減だった日本マクドナルドを上回った[31]。同期の本部売上高は550億3100万円、経常利益は65億200[32]万円、チェーン全店の末端売上高は1107億円と1000億円の大台を超えた。店舗数は1277店と日本マクドナルドの1040店を上回り[33]、ハンバーガーチェーンの首位に立った。1994年6月には東京・銀座に初の都心繁華街店を出し、朝食メニュー[34]やサンドイッチ店頭販売の実験にあてている。
1996年9月、モスフードサービスの株式は東証二部から一部へ指定替[35]えとなった。一方でこの時期には、加盟店オーナーの高齢化と店[36]の引き継ぎが将来の不安材料として指摘され始めていた。30歳で店を持ったオーナーは創業から20年余りで50歳を超え、体力の衰えから若い時のような働き方が難しくなりつつあった。フランチャイズ比率95%のチェーンにとって、オーナーの世代交代は本部の成長を左右する構造的な課題だった。寝食を惜しんで働いても店の規模が小さく、夫婦2人の年収がせいぜい1000万円前後にとどまる加盟店[37]の現実も誌面に紹介されていた。
1997年5月、創業者で会長の櫻田慧氏が60歳で急逝[38]した。それだけに、理念と哲学でチェーンをまとめてきたカリスマの喪失に、経営陣も加盟店オーナーも動揺する。業績は1997年3月期から減益に転じ[39]、既存店売上高の前年割れが続いた。生野菜を有機野菜などへ切り替える取り組みを1997[40]年に始めるなど商品の質へのこだわりは保たれたが、減益と既存店の前年割れは止まらず、チェーンは創業者のいない経営体制づくりを迫られた。
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|---|---|---|---|---|
| 1972〜1990年日興証券を辞めた3人が成増で始めた手作りハンバーガーチェーン | 実験店オープン | ★ | ||
| モスバーガー1号店「成増店」(東京都)オープン | ★★ | |||
| モス・フード・サービスを設立 | ★ | |||
| フランチャイズ1号店「新瑞店」(愛知県)オープン | ★★ | |||
| 商号を「モスフードサービス」と変更 | ★ | |||
| 盟友の急死を機に決めた株式公開と東証二部上場 1983年12月にスーパーバイザー業務を統括していた吉野祥専務が急死したのを機に、創業者の櫻田慧社長が株式公開を決断し、1985年11月に株式を店頭売買銘柄として日本証券業協会へ登録、1988年3月に東京証券取引所市場第二部へ上場した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 健軍店・彦根大藪店の開店により外食産業初の全47都道府県出店を達成 | ★ | |||
| 株式を東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 1991〜1997年店舗数で日本マクドナルドを抜いた1990年代と創業者・櫻田慧氏の急逝 | 台湾におけるモスバーガー1号店「新生南路店」オープン | ★★ | ||
| シンガポールにおけるモスバーガー1号店「イセタンスコッツ店」オープン | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部に指定替え | ★ | |||
| 1998〜2015年お家騒動からの立て直し――店舗改革・匠味・農業参入・アジア再進出 | 櫻田厚 | 農業生産法人サングレイスへの資本参加による産地合弁への参入 2006年2月、モスフードサービスが農業生産法人・野菜くらぶなどと共同で農業生産法人サングレイスを設立し、資本参加によってトマトの生産そのものへ関与した経営判断。以後、産地ごとの合弁を各地に設ける形へ広げた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 櫻田厚 | 香港におけるモスバーガー1号店「APN店」オープン | ★ | ||
| 櫻田厚 | タイ王国におけるモスバーガー1号店「セントラルワールドプラザ店」オープン | ★ | ||
| 櫻田厚 | ダスキンと資本・業務提携契約を締結 | ★★ | ||
| 櫻田厚 | モスフードサービス東日本に商号変更 | ★ | ||
| 櫻田厚 | 大韓民国におけるモスバーガー1号店「チャムシルロッテ店」オープン | ★ | ||
| 2016〜2025年創業家経営の区切り、食中毒とコスト危機を越えて過去最高の売上へ | 中村栄輔 | モスシャインを設立 | ★ | |
| 中村栄輔 | モスシャインが障害者雇用促進法に基づく特例子会社の認定を取得 | ★ | ||
| 中村栄輔 | 腸管出血性大腸菌O121による食中毒事故の公表と全店の衛生総点検 2018年8月に関東・甲信地方のモスバーガー19店舗を利用した28人が腸管出血性大腸菌O121に感染した食中毒事故について、モスフードサービスが9月10日と9月14日に相次いで公表し、店舗の営業自粛と全店の衛生総点検、検査項目の追加に踏み切った対応。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 中村栄輔 | 営業自粛と全店の衛生総点検を実施 | ★★ | ||
| 中村栄輔 | フィリピンにおけるモスバーガー1号店「ロビンソンガレリア店」オープン | ★ | ||
| 中村栄輔 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 中村栄輔 | モスクレジットを吸収合併 | ★ |
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事実根拠:出所(モスフードサービス)