創業者派閥のクーデター未遂と栗和田榮一氏による経営権掌握
一度は解任された社長は、いかにして寝返り工作で経営の主導権を奪い返したか
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- 概要
- 2000年6月、佐川急便の取締役会で創業者派閥が栗和田榮一社長の解任動議を提出し、栗和田氏はいったん解任を受け入れたものの、即座に反撃の人事と寝返り工作を仕掛け、同日中に自らの社長再任を可決させた経営判断。16日後の株主総会で創業家派閥の代表取締役2人は取締役の座を失い、代表権は栗和田氏1人に集約された。
- 背景
- 1992年の東京佐川急便事件を受けて栗和田榮一氏は約6,000億円の債務を抱えたまま社長に就任し、緊縮財政を進めてきたが、事件以前の「古き良き時代」を懐かしむ一部役員が創業家の意向を後ろ盾に不満をくすぶらせていた。
- 内容
- 2000年6月3日の取締役会で栗和田氏の解任が賛成9・反対8で可決されたが、栗和田氏側も反撃の解任動議を提出し、寝返った役員2人を得て同日中に社長再任を可決させた。6月19日の株主総会では創業家が欠席し、クーデターに関わった代表取締役2人の取締役解任が確定、代表権を持つ役員は栗和田氏1人のみとなった。
- 含意
- 事件を機に栗和田氏は「第2の創業」を掲げて改革を加速させ、2002年6月には副社長の真鍋邦夫氏に社長職を譲って自らは会長に退いたが、創業家派閥が一掃された経営体制はその後20年余りにわたり栗和田氏を中心に据える形で続いた。
派閥一掃という統治の代償
栗和田氏が選び取ったのは、対立した相手を制度の内側で排除し、代表権を自らに集めるという統治のかたちであった。創業家の出身でありながら実父とあえて距離を置き、会社の存続を最優先に据えてきた栗和田氏のそれまでの選択の延長線上に、この一連の対応があったとみることができる。
もっとも、代表権を1人に集めるという選択は、経営体制の集中を意味すると同時に、その後の後継問題を長く栗和田氏個人へ結びつける構造も残した。2021年に栗和田氏が社長職へ復帰した経緯は、20年前のこの派閥一掃が創業家中心の統治から容易に離れられない構図を後々まで残したことを示しているといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
「東京佐川急便事件」から続く緊縮財政と権限の集中
1992年、東京佐川急便の特別背任事件を受けて、創業者・佐川清氏の長男である栗和田榮一氏が佐川急便社長に就任した。当時グループが抱えていた債務は6,000億円近くにのぼり、栗和田氏は資金ショートしかねない危機感のなかで緊縮財政を社内に訴え、各社に分散していた勘定項目の統一や裁量権の本社吸い上げを進めていった[1]。
全国62社にまで広がっていたグループ各社は独立採算のブロック制のもとに置かれ、各社の社長は経費の使い方も含めて大きな権限を握る「一国一城の主」であった。東京佐川急便はその最も極端な例であり、事件当時の暴走もこうした構造を土壌にしていたと栗和田氏は振り返っている[2]。
実父・佐川清氏との距離と「創業家軽視」という不満
栗和田氏は創業者・佐川清氏の実子であったが、経営判断を誤れば会社ごと消えかねない状況のなかで、清氏に会えばその意向を経営に反映せざるを得なくなると考え、意図して面会を避けてきた。この距離の置き方が一部役員の目には創業家軽視と映り、2000年6月の取締役会での解任動議は「栗和田社長はもう4年以上も佐川清氏に会っていない、創業家をないがしろにしている」という理由で提出されている[3]。
栗和田氏が社長を引き受けたのは、1992年2月、金沢で療養中だった佐川清氏のもとへ再建担当の銀行団とともに足を運んだ次期社長含みの人物からの説得を受けてのことだった。栗和田氏は経営の独立性や権限を明確に確立できることを条件に就任を承諾しており、この条件が後年、創業家との距離を保つ判断の原点になったとみることができる[4]。
決断
2000年6月3日の取締役会、解任から寝返りまで
2000年6月3日、佐川急便の取締役会は栗和田榮一社長の解任をめぐって18人の取締役の賛否が割れる事態となった。創業者・佐川清氏の意向を受けた境氏・湊川氏ら両副社長を中心とする反社長派が解任動議を提出し、当事者である栗和田氏を除いた採決の結果、賛成9・反対8で栗和田氏の解任が決定した[5]。
解任決定を受けた栗和田氏側は即座に反撃に転じた。社長派から境氏・湊川氏の代表取締役解任動議が提出されてこちらも可決され、続く社長選任の採決では役員2人が寝返って社長派に転じたことで、栗和田氏の社長再任が決した。同じ取締役会のなかで社長がいったん解任され、直後に再び選び直されるという異例の展開になった[6]。
株主総会での追認と代表権の一本化
解任動議提出から16日後の6月19日、佐川急便は定時株主総会を開いた。創業者の佐川清氏と息子の光氏はいずれも総会を欠席し、目立った波乱が起きないまま、クーデターに関わった境氏・湊川氏の取締役解任が正式に確定した。栗和田氏はこの一連の経過を、外部から見ればさぞ奇妙な出来事と映っただろうと後年振り返っている[7][8]。
この結果、佐川急便で代表権を持つ役員は栗和田氏ただ1人に絞られた。従来は取締役としての社歴の長さや創業家との近さといった資質と関わりなく代表権が与えられる、名誉職のような体質があったが、栗和田氏はこの体質を改め、最終責任を1人で負う体制へ切り替える判断を下した[9]。
結果
「第2の創業」への加速と真鍋体制への継承
栗和田氏は今回のクーデターを、東京佐川急便事件という負の遺産と完全に決別し「第2の創業」を掲げて社内改革を加速させる契機と位置づけた。2001年1月時点で、事件当時にグループ全体で9,336億円あった有利子負債は半減の4,824億円まで圧縮される見通しとなり、事件直前の1991年3月期の水準に戻る目算が立っていた[10]。
派閥一掃を経た栗和田体制は、2002年6月に大きな節目を迎えた。栗和田氏は10年間務めた社長職を副社長の真鍋邦夫氏に譲って会長に就き、真鍋氏は東京佐川急便事件以来の体制整備を優先課題に掲げて第2次改革アクションプランを引き継いだ。同年、佐川急便は宅配便個数を8億1,800万個まで伸ばし、首位のヤマト運輸(9億4,400万個)に迫る規模へ成長していた[11]。
- 日経ビジネス 2001年1月29日号「栗和田榮一氏[佐川急便社長]、兵を語る クーデター未遂、遠因は『東京佐川事件』」
- NetIB-News(2021年6月18日)「【コロナで明暗企業(7)】SGホールディングス~親族間の抗争を勝ち抜いてきた創業家の栗和田会長が社長に復帰(4)」
- 週刊東洋経済 2002年12月7日号「[トップの履歴書]佐川急便社長 真鍋邦夫『第2次改革』を確実に仕上げる」