この解任劇の核心は、社長という肩書きよりも、創業者本人が握り続けた実質的な決定権にあったのだろう。伸康氏は取締役から副社長まで社内の階段を順当に上り、社長就任も既定路線と受け止められていたが、それでも経営の大きな方向づけは、相談役となった信夫氏の最終決裁を必要としていた。実子であっても、拡大積極路線という創業の精神に反する改革を急ぎすぎれば、その地位は揺らぎ得る——このオーナー企業特有の力学が、この人事に表れているだろう。
中坊公平氏という社外の第三者を介した収拾のさせ方にも、この会社らしさがにじむ。信夫氏は役員陣の声を受け止めながらも、実子への引導は自らの口では渡さず、旧知の弁護士に委ねた。効率経営への転換自体は、少子化という長期の逆風を見据えた合理的な選択であったにもかかわらず、それを急進的に進めた結果として覆されたことは、変革の中身以上に、変革の速度と合意形成が問われた出来事であったといえる。