大塚商会創業者・大塚實から長男・大塚裕司への社長交代と、データで判断する営業への移行
40年の創業社長を継いだ2代目は、勘と足で稼ぐ営業をどう組み替えようとしたか
- 概要
- 2001年8月1日、40年間社長を務めた創業者の大塚實氏が会長へ退き、長男で代表取締役副社長だった大塚裕司氏が代表取締役社長に就任した。就任と同じ年、大塚商会は顧客管理と営業支援を一体化したSPR(セールス・プロセス・リエンジニアリング)を始めている。
- 背景
- 後継者としての大塚裕司氏の指名は1994年3月にはすでに公にされていたが、実際の交代までに7年を要した。その間に大塚裕司氏は社内情報システムの構築で陣頭指揮を執り、上場に反対だった父を翻意させ、2000年7月の東証一部上場までを内側で準備した。
- 内容
- 単体売上高3,036億円・社員6,251人の東証一部上場企業を、営業から経理、財務、経営企画までを経た2代目が引き継いだ。就任と同時に始めたSPRは、1993年の「大戦略」で全社に一本化した顧客情報を使い、どの顧客に何を提案するかを数字で判断する仕組みである。
- 含意
- 交代の年の2001年12月期は減収で当期純利益も減ったが、営業利益は38.1%増え、借入の返済も進んだ。連結売上高は2005年12月期の4,094億円から2024年12月期の1兆1,077億円へ広がり、社員を増やさずに伸びる会社の形ができた。
継いだのは営業力ではなく、その測り方
この交代を世襲という一語で片づけると、引き継がれたものを見落とす。大塚實氏の経営は長年の経験と勘が生んだ路線で、1975年の製品切り替えも1981年のパソコン参入も、社内の反発を押し切った社長個人の判断で決まっていた。対して大塚裕司氏が入社後に手をかけたのは社内情報システムであり、就任と同時に始めたSPRは、誰に何を提案するかを数字で決める仕組みであった。父が築いた営業力を、担い手が代わっても回る形へ置き直した承継であったとみることができる。
もっとも、その置き直しが交代の年に実を結んだわけではない。2001年12月期は減収で当期純利益も減り、連結売上高が1兆円を超えるのは23年後になる。後継指名が公になった1994年から交代まで7年を要したことにも、渡す側の踏ん切りの重さがうかがえる。そして、仕組みで回る会社を作った大塚裕司社長が2025年に残る課題として挙げたのは、次の経営者の育成であった。承継という問題の手強さは、二代目にもそのまま残ったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
7年越しに公にされていた後継指名
大塚商会の社長交代は、長く予告された交代であった。1994年3月の記者発表会で、大塚實社長は後継社長に当時40歳の長男・大塚裕司常務を充てる考えをすでに公にしている。同じ年に72歳を迎える創業社長の引退が節目になることは業界でも織り込まれ、同社は同じ3月に高齢役員の退任と若手役員の登用を柱とする若返り人事を実施していた[1]。
それでも実際の交代は7年先になった。大塚實氏の経営は、長年の経験と勘から生み出して定着させた路線と受け止められており、1975年のオフコン事業の切り替えも1981年のパソコン参入も、社内の反発を押し切った社長個人の判断で決まっていた。顧客満足の高いサポート体制と、一つところに安住しない商材の入れ替え——その両方が創業者の頭の中にあった[2]。
内側から会社を固めた後継者
大塚裕司氏の準備は、父とは違う方向で進んだ。立教大学を卒業して横浜銀行へ入り、経営者の落ち度で倒産していく会社を目の当たりにして、自分は絶対に会社を潰さないと心に決めたという。リコーを経て1981年に大塚商会へ入社したのちはオフコンを売り、子会社でソフト開発にも関わり、1990年代半ばには社内情報システムの構築で陣頭指揮を執った[3]。
その内部固めは上場に直結した。「自分の目の黒いうちは、絶対に上場しない」と断言していた大塚實社長は方針を変え、同社は2000年7月に東京証券取引所市場第一部へ上場する。当初は反対だった父に環境の変化と上場の必要を気づかせたのは長男であったと、交代直後の取材記事は記している。上場を控えた1999年12月期の単独売上高は3,232億円、経常利益は70億円の見込みで、利益率の低さが残された課題であった[4][5]。
決断
2001年8月1日の交代
2001年8月1日、大塚裕司氏は代表取締役社長に就任し、40年間社長を務めた大塚實氏は会長へ退いた。引き継いだのは単体売上高3,036億円、社員6,251人の東証一部上場企業である。世襲への批判は本人も承知していたが、営業から経理、財務、経営企画までを経たうえ、情報技術にも財務の数字にも強い点で、業界では最適任の2代目と受け止められた[6][7]。
就任までの道は平坦ではなかった。大塚裕司氏は過去に父との考え方の違いから大塚商会を退社し、3カ月半の無職を経て人材派遣会社を通じてソフトベンチャーへ移っている。最後は實氏が折れ、ソフト会社の社長と直談判して呼び戻した。丁寧で腰が低い一方、言い出したらてこでも動かない頑固さを併せ持つ人物と評されていた。社内の幹部からは、われわれが支えるという声も上がっていた[8]。
データで判断する営業への移行
就任と同じ2001年、大塚商会は顧客管理と営業支援を一体化したSPR(セールス・プロセス・リエンジニアリング)を始めた。1993年の「大戦略」で全社に一本化した顧客情報を使い、どの顧客に何をいつ提案するかを数字で判断する仕組みである。大塚裕司社長はこれを科学的な営業ツールと呼び、以後は社員数よりも売上高の伸びが上回ったと説明している[9]。
売り物の中身も入れ替わった。OA機器やコンピュータの販売単価が下がり続けるなかで、同社はソフトとサービスで稼ぐ体制をいち早く整えている。大塚裕司社長が就任時に掲げたのは、25万社に上る顧客企業の満足度を高めることを使命とする考えであった。機器を売り切る商社から契約の継続で稼ぐ会社への移行を、新社長は路線として引き継いだ[10][11]。
結果
人を増やさない成長へ
交代の年の成績は地味であった。2001年12月期の連結売上高は3,281億円と前期比2.0%減、当期純利益も25億円へ15.5%減っている。もっとも営業利益は81億円と38.1%増え、財務活動によるキャッシュフローは104億円の支出で借入の返済が進み、株主資本比率は27.8%であった。減収でも利益と財務が改善する形が、この期にすでに現れていた[12]。
その後の伸びは、人を増やさない成長であった。連結売上高は2005年12月期の4,094億円から2024年12月期の1兆1,077億円へ広がり、単体の社員数は6,251人から7,949人にとどまる。大塚裕司社長は2025年の取材で、売上高が1兆円を超えても社員が1万人を下回ることを会社の特色に挙げ、残る課題として次の経営者の育成を置いた[13][14]。
- 日経ビジネス 1994年3月21日号「大塚商会 パソコン店頭販売が好調 得意の直販と相乗効果」
- 日経ビジネス 1999年12月6日号「大塚商会、2000年夏にも東証1部上場へ! IT産業の「隠れた大物」、強い顧客網生かしソリューションで攻勢」
- 週刊東洋経済 2001年11月17日号「[トップの履歴書]大塚商会社長 大塚裕司 父を超え、理想の会社を作る」
- 日経ビジネス 2001年11月26日号「新社長の履歴書 大塚裕司 大塚商会 「絶対に潰さない」と誓う2代目」
- 週刊東洋経済 2025年6月14日号「トップに直撃 大塚商会 社長 大塚裕司「生産性にこだわりながら顧客に寄り添い続ける」」
- 大塚商会 2001年12月期 決算短信(連結)
- 大塚商会 有価証券報告書(連結)
- 大塚商会「売上高(単体)と社員数の推移」