ダイワボウホールディングス の歴史

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創業 1941年
母体 錦華紡績+日出紡織+出雲製織+和歌山紡織4社合併
創業地 大阪市
創業
1941年5月、大日本紡績聯合会の紡績ブロック結成案に応じて錦華紡績・日出紡織・出雲製織・和歌山紡織の4社が合併して大和紡績が発足し、大阪市東区瓦町に本社を置いた。発足時から紡織16工場を持つ全国第4位の規模で、出雲製織と和歌山紡織は陸海軍指定業者として軍需綿布を担い、十大紡績の一角を占めている。1949年5月に東京・大阪両証券取引所へ上場し、戦後も綿紡を主力とした。ただし1973年の石油危機と韓国・台湾・中国の追い上げで採算が崩れ、1984年の時点では9期連続の無配に沈んでいる。2009年7月に持株会社へ移行し、商号をダイワボウホールディングスへ改めた。
決断
繊維で覚えた在庫と地方の売り方を、パソコンの卸売へ移した。1982年4月、繊維不況で設備の3割廃棄が見込まれるなか、パソコン流通の子会社ダイワボウ情報システムを設立して情報分野へ参入した。大量在庫による即納と、佐賀・金沢・出雲という祖業の工場所在地に支店を置く地方ドミナントで、都心直販の大塚商会と棲み分けた。1997年12月にはDISを東証2部へ単独で上場させ、成長事業の資金調達と知名度を子会社の側に持たせている。DISは2000年代に親会社を売上高で追い抜き、2009年の持株会社化で親子上場のねじれが解けた。工場の立地という繊維時代の資産が、そのままIT機器を届ける支店網に変わった。
現況
現在の売上高の99%はIT機器の卸売で、祖業の繊維は連結に残っていない。2026年3月期の連結売上高は1兆3,508億円、営業利益441億円、当期純利益320億円といずれも過去最高となった。内訳はITインフラ流通事業が売上高1兆3,364億円・営業利益430億円、産業機械事業が144億円・11億円で、利益でも97%をDISが稼ぐ。繊維は2024年3月に大和紡績株式の85%をアスパラントグループへ譲渡して連結から外れ、減損損失167億円により2024年3月期の当期純利益は43億円まで減少した。2027年4月には持株会社の商号をMUSUBITE、子会社をDISへ改める。1941年の合併以来86年使った繊維の名を外すところまで、事業の入れ替えが進んだ。
競合
競争の焦点は商品ではなく、在庫をどれだけ持って翌日に届けられるかにある。DISが扱うPCやサーバーはメーカーの製品そのもので、価格も仕様も他の卸売と変わらない。差がつくのは全国の物流拠点に積んだ在庫の量と、販売店へ届ける速さである。都心の法人へ直接売る大塚商会に対し、DISは地方の販売店を通す経路を選び、祖業の工場所在地に置いた支店をそのまま拠点に使った。2020年のGIGAスクール構想では自治体向け学習端末の大量需要を受け、連結売上高は1兆円を超えている。もっとも需要の波を作るのは文教予算とWindowsの更新周期であり、卸売の側から需要を起こせない制約は変わらない。
ダイワボウホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

設立ストーリー 戦時統合の十大紡績から繊維不況による9期連続無配まで (1941年〜)

紡績4社合併で誕生した戦時統合企業

1941年5月、当時の大日本紡績聯合会が提唱した紡績ブロック結成案の決定に従い、業界に先駆けて錦華紡績、日出紡織、出雲製織、和歌山紡織の4社が合併し[1]、大和紡績株式会社が設立された。前身4社はいずれも独自の特色と伝統の技術を擁し、業界に確固たる地歩を占めていた。最古参の和歌山紡織は1893年、日出紡織は1912年の設立で重布部門の経営に特色を持ち、錦華紡績は1917年設立で『金鳥票綿糸』の生産をもって広く知られ、出雲製織は1920年の設立だった[2]。なかでも出雲製織と和歌山紡織は陸海軍指定業者として軍需綿布の生産に注力[3]しており、戦時下で4社が大同団結する合併は画期的なものだった。設立当初の設備は紡織16工場(精紡機114万5252錘、織機3581[4]台)、人絹・スフ3工場(日産115屯強)、加工2工場で、これは全国第4位の規模にあたり、資本金は8666万8450円だった。

  • ダイワボウHD 有価証券報告書【沿革】
    • [1]大日本紡績聯合会の紡績ブロック結成案に従い錦華紡績・日出紡織・出雲製織・和歌山紡織の4社が合併して大和紡績株式会社が設立された
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [2]前身4社の設立年は和歌山紡織1893年(明治26年)・日出紡織1912年(明治45年)・錦華紡績1917年(大正6年)・出雲製織1920年(大正9年)で、日出紡織は重布部門、錦華紡績は「金鳥票綿糸」に特色があった
    • [3]出雲製織と和歌山紡織は陸海軍指定業者として軍需綿布の生産に注力していた
    • [4]設立当初の設備は紡織16工場(精紡機114万5252錘・織機3581台)・人絹スフ3工場(日産115屯強)・加工2工場で全国第4位の規模、資本金は8666万8450円だった

発足直後は戦時体制の強化に伴って紡績業全体が縮小に向かい、大和紡績も発足時から1944年にかけて綿紡8工場・人スフ3工場を閉鎖し、綿紡2工場を重工業へ転換、加工1工場を現物出資した。[5]その一方で満支大陸では重工業・ゴム・繊維の傍系各社を運営し、朝鮮[6]では朝鮮大和紡績を設立、フィリピンでは綿花の栽培と紡績の設営を進めるなど、海外へも意欲的に進出した。だが本社社屋をはじめ各工場が戦災に遭い海外資産も接収され、終戦時にはわずか精紡機18万3580錘、織機2674[7]台を有するのみとなっていた。戦後は制限会社・持株会社の指定など種々の拘束を受けたが、逐次工場の再開・設備の復旧と新増設を進め、綿紡事業を中心に復興に努めた。1949年には舞鶴工場に超ハイドラフト精紡機を設置して業界における同機採用の先鞭をつけ、同年には紡機・自転車製造部門の宍道工場を大和機械工業株式会社(現オーエム製作所)として分離独立させた。[8]

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [5]発足時から1944年(昭和19年)にかけて綿紡8工場・人スフ3工場を閉鎖し綿紡2工場を重工業へ転換し加工1工場を現物出資した
    • [6]戦時下に満支大陸で重工業・ゴム・繊維の傍系各社を運営し朝鮮で朝鮮大和紡績を設立しフィリピンで綿花栽培と紡績設営を進めた
    • [7]戦災と海外資産接収により終戦時には精紡機18万3580錘・織機2674台を有するのみとなった
  • ダイワボウHD 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1949年(昭和24年)に舞鶴工場へ超ハイドラフト精紡機を設置し業界で同機採用の先鞭をつけ、同年に宍道工場を大和機械工業株式会社(現オーエム製作所)として分離独立させた

1949年5月には東京・大阪両証券取引所に株式上場[9]を果たし、戦後復興期の繊維需要拡大を捉える資本基盤を整えた。翌1950年には朝鮮動乱を契機とする活況期を迎えて金沢・福井・舞鶴の各工場を拡張し、あわせて化学繊維部門への進出に備えて大阪に化学繊維研究所を開設した。[10]1951年には舞鶴第二工場が完成し、おりから繊維統制が撤廃されて空前の好況期に入った。[11]1952年にはスフ製造の益田工場第一期復元工事が完成し、従来の紡績一本から化繊兼営へと業容を拡大、同年6月には大阪・御堂筋に大和建物の手による本社新ビルを竣工して『十大紡績』の1社に数えられる地位を固めた。[12]翌1953年には福井工場に同社初の毛設備を併設し、織布部門の織機自動化なども進めて、ここに繊維総合経営体制が整った。[13]以後も新分野への投資が続き、1958年には創立以来初の新設工場である梳毛紡績の稲沢工場が完成、1960年には大洋化成株式会社、大和ポリグラス工業株式会社を設立して経営多角化の布石を打つとともに、休止していた広島工場を東洋工業に譲渡して創立20周年を迎えた。[14][15]この20周年時点の保有設備は綿紡機43万4108錘、スフ紡機6万2720錘[16]、梳毛紡機1万6800錘、合繊紡機2万5480錘、軽布織機3819台、重布織機287台、スフ日産82屯に達していた。1962年にはポリプロピレン繊維へ進出して事業に一層の幅を持たせ、おりからの不況に苦しむ場面もあったが、海外市場の開拓や子会社によるボーリングへの進出など多角経営でこれを乗り切った。[17]1967年には株式の額面を50円(旧100円)に変更し、4月期から2分増配へと進むなど安定した経営を続け、当時は精紡機第一区分47万1462錘・第二区分1万6400錘、軽布織機3655台、重布織機373台、ポリプロピレン日産20屯の10工場を擁し、年間総売上高は383億円に達した。[18]さらに企業体質の強化に向け、業界に先がけて豊田自動織機と提携のうえ空気精紡機の導入を図り、金沢工場で実用化[19]を進めた。

  • ダイワボウHD 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1949年5月に東京・大阪両証券取引所へ株式上場した
    • [12]1952年(昭和27年)にスフ製造の益田工場第一期復元工事が完成して紡績一本から化繊兼営へ業容を拡大し、同年6月に大和建物の手による本社新ビルを大阪・御堂筋に竣工した
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [10]1950年(昭和25年)に朝鮮動乱を契機とする活況期を迎えて金沢・福井・舞鶴各工場を拡張し化学繊維部門進出に備えて大阪に化学繊維研究所を開設した
    • [11]1951年(昭和26年)に舞鶴第二工場が完成し繊維統制が撤廃されて好況期に入った
    • [13]1953年(昭和28年)に福井工場へ同社初の毛設備を併設し織布部門の織機自動化を進めて繊維総合経営体制が整った
    • [14]1958年(昭和33年)に創立以来初の新設工場である梳毛紡績の稲沢工場が完成した
    • [15]1960年(昭和35年)に大洋化成株式会社・大和ポリグラス工業株式会社を設立し休止中の広島工場を東洋工業に譲渡して創立20周年を迎えた
    • [16]創立20周年時点の保有設備は綿紡機43万4108錘・スフ紡機6万2720錘・梳毛紡機1万6800錘・合繊紡機2万5480錘・軽布織機3819台・重布織機287台・スフ日産82屯だった
    • [17]1962年(昭和37年)にポリプロピレン繊維へ進出した
    • [18]1967年(昭和42年)に株式の額面を50円(旧100円)に変更し2分増配へ進み、当時は精紡機第一区分47万1462錘・第二区分1万6400錘・軽布織機3655台・重布織機373台・ポリプロピレン日産20屯の10工場を擁し年間総売上高は383億円だった
    • [19]業界に先がけて豊田自動織機と提携のうえ空気精紡機の導入を図り金沢工場で実用化を推進した
  • ダイワボウHD 有価証券報告書【沿革】
    • [1]大日本紡績聯合会の紡績ブロック結成案に従い錦華紡績・日出紡織・出雲製織・和歌山紡織の4社が合併して大和紡績株式会社が設立された
    • [8]1949年(昭和24年)に舞鶴工場へ超ハイドラフト精紡機を設置し業界で同機採用の先鞭をつけ、同年に宍道工場を大和機械工業株式会社(現オーエム製作所)として分離独立させた
    • [9]1949年5月に東京・大阪両証券取引所へ株式上場した
    • [12]1952年(昭和27年)にスフ製造の益田工場第一期復元工事が完成して紡績一本から化繊兼営へ業容を拡大し、同年6月に大和建物の手による本社新ビルを大阪・御堂筋に竣工した
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [2]前身4社の設立年は和歌山紡織1893年(明治26年)・日出紡織1912年(明治45年)・錦華紡績1917年(大正6年)・出雲製織1920年(大正9年)で、日出紡織は重布部門、錦華紡績は「金鳥票綿糸」に特色があった
    • [3]出雲製織と和歌山紡織は陸海軍指定業者として軍需綿布の生産に注力していた
    • [4]設立当初の設備は紡織16工場(精紡機114万5252錘・織機3581台)・人絹スフ3工場(日産115屯強)・加工2工場で全国第4位の規模、資本金は8666万8450円だった
    • [5]発足時から1944年(昭和19年)にかけて綿紡8工場・人スフ3工場を閉鎖し綿紡2工場を重工業へ転換し加工1工場を現物出資した
    • [6]戦時下に満支大陸で重工業・ゴム・繊維の傍系各社を運営し朝鮮で朝鮮大和紡績を設立しフィリピンで綿花栽培と紡績設営を進めた
    • [7]戦災と海外資産接収により終戦時には精紡機18万3580錘・織機2674台を有するのみとなった
    • [10]1950年(昭和25年)に朝鮮動乱を契機とする活況期を迎えて金沢・福井・舞鶴各工場を拡張し化学繊維部門進出に備えて大阪に化学繊維研究所を開設した
    • [11]1951年(昭和26年)に舞鶴第二工場が完成し繊維統制が撤廃されて好況期に入った
    • [13]1953年(昭和28年)に福井工場へ同社初の毛設備を併設し織布部門の織機自動化を進めて繊維総合経営体制が整った
    • [14]1958年(昭和33年)に創立以来初の新設工場である梳毛紡績の稲沢工場が完成した
    • [15]1960年(昭和35年)に大洋化成株式会社・大和ポリグラス工業株式会社を設立し休止中の広島工場を東洋工業に譲渡して創立20周年を迎えた
    • [16]創立20周年時点の保有設備は綿紡機43万4108錘・スフ紡機6万2720錘・梳毛紡機1万6800錘・合繊紡機2万5480錘・軽布織機3819台・重布織機287台・スフ日産82屯だった
    • [17]1962年(昭和37年)にポリプロピレン繊維へ進出した
    • [18]1967年(昭和42年)に株式の額面を50円(旧100円)に変更し2分増配へ進み、当時は精紡機第一区分47万1462錘・第二区分1万6400錘・軽布織機3655台・重布織機373台・ポリプロピレン日産20屯の10工場を擁し年間総売上高は383億円だった
    • [19]業界に先がけて豊田自動織機と提携のうえ空気精紡機の導入を図り金沢工場で実用化を推進した

1975年経常赤字転落と9期連続無配

1971年8月のニクソンショックと1973年10月の第一次石油危機は、日本繊維業界全体を直撃した。原油価格の高騰で合成繊維の原料コストが急上昇し、ドル円の急変動で輸出採算が悪化した。加えて1970年代を通じて韓国・台湾・中国の繊維産業が技術力・コスト競争力ともに向上し、日本繊維業界は構造的な国際競争力低下に直面した。大和紡績も例外ではなく、1975年3月期に29億円の経常赤字に転落し、翌1976年3月期には無配に転じた。創業から30年余、十大紡績の一角を担ってきた同社の業績が1975年から1976年にかけて悪化した時点であり、合成繊維への参入で多角化を試みた1960年代の投資判断も、原油価格の構造変化のなかで十分な収益貢献に結びつかなかった。

1970年代後半から1980年代前半にかけて、繊維業界各社は生産拠点の閉鎖と人員削減を伴う構造改革を相次いで実行した。大和紡績も例外ではなく、1982年4月に稲沢工場を閉鎖し、跡地を日本メナード化粧品に売却した。1986年3月には主力紡織工場の1つだった佐賀工場を閉鎖した。佐賀は1941年合併4社の1社(錦華紡績)の本拠地であり、創業以来の主力工場の閉鎖は祖業の生産拠点を順次たたんでいく方針への転換を意味した。1988年2月にはレーヨン事業の分離縮小も実施し[20]、合成繊維の一角を担ってきた事業も縮小対象となった。これらの構造改革を経ても、1984年時点で9期連続の無配という業績低迷が続き、過剰設備を抱えた繊維事業の継続が困難な状況に陥った。

  • ダイワボウHD 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1988年2月にレーヨン事業を分離縮小した

繊維事業の構造的な低迷を打開するため、大和紡績は1982年に情報分野への進出を決断し、子会社のダイワボウ情報システム株式会社(DIS)を設立[21]した。当時の日本では日本電気のPC-9800シリーズを中心にパソコン市場が立ち上がり、OA機器の企業向け販売市場が急拡大する局面にあった。DISの特色は支店網の地理的配置にあり、佐賀・金沢・出雲など大和紡績の主力工場が存在する地方都市に支店を設置し、地方の卸売市場での足場を最初から確保した。競合の大塚商会が都心部への直販を主体としていたのに対し、DISは地方の卸売というポジションで棲み分けを実現した。1983年にはNECとの販売特約店契約を締結し、PC-9800の地方流通網を握る企業として急成長した。

  • ダイワボウHD 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1982年に子会社ダイワボウ情報システム株式会社(DIS)を設立した
  • ダイワボウHD 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1988年2月にレーヨン事業を分離縮小した
    • [21]1982年に子会社ダイワボウ情報システム株式会社(DIS)を設立した

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ダイワボウホールディングスの沿革1941〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1941〜1988年戦時統合の十大紡績から繊維不況による9期連続無配まで紡績ブロック結成案に応じ4社合併で大和紡績を設立

1941年5月、大日本紡績聯合会が提唱した紡績ブロック結成案の決定に従い、錦華紡績・日出紡織・出雲製織・和歌山紡織の4社が合併し、大和紡績株式会社が設立された。本社事務所は大阪市東区瓦町に置かれた。

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★★★
本社事務所を移転
大和工業に商号変更
大和紡績に商号を復旧
東京・大阪両証券取引所に株式上場
大和機械工業を設立★★
本社を移転
GKBIと合弁でP.T.Primatexco Indonesiaを設立
ダイワシザイ(ダイワボウプログレス)を設立
繊維不況の打開策としてダイワボウ情報システムを設立し情報分野へ進出

1982年4月8日、大和紡績は資本金2,000万円でダイワボウ情報システム株式会社(DIS)を大阪市東区に設立し、情報産業へ進出した。日本電気のパソコン『PC-9800』シリーズの販売特約店として、パソコン・オフコン・通信機器・FAシステムの4部門で発足した。

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★★★
情報産業に参入★★
ダイワボウレーヨンを設立しレーヨン事業を分離独立
本社事務所を大阪市西区土佐堀の肥後橋シミズビルに移転
1982〜2008年ダイワボウ情報システムの急成長と親子上場のねじれ菅野肇本社事務所を御堂筋ダイワビルに集約し本店を統合
菅野肇合成繊維・不織布の製造子会社ダイワボウポリテックを設立
菅野肇縫製会社蘇州大和針織服装有限公司を設立
菅野肇ダイワボウ情報システムの東証2部上場と親子上場のねじれ

1997年12月、ダイワボウ情報システム(DIS)は東京証券取引所第二部と大阪証券取引所第二部へ上場した。親会社の大和紡績は1949年5月から東京・大阪両取引所に上場しており、繊維の親会社と情報流通の子会社が同時に上場する構造ができた。

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★★★
菅野肇P.T.Daiwabo Industrial Fabrics Indonesiaを設立
菅野肇子会社3社を統廃合しダイワボウアドバンスを設立しブランド製品事業を統合
菅野肇会社分割により全事業部門を4子会社に承継し純粋持株会社体制へ移行★★
菅野肇関連会社のダイワボウ情報システムを公開買付により子会社化★★
2009〜2025年ダイワボウ情報システム主力化と祖業繊維事業の売却菅野肇ダイワボウHDに商号変更
菅野肇繊維事業を統括する中間持株会社大和紡績を設立
阪口政明インドネシア国中部ジャワ州プマラン県にP.T.Daiwabo Garment Indonesiaを設立
阪口政明関連会社のオーエム製作所を公開買付により子会社化★★
阪口政明子会社オーエム製作所と株式交換を行い完全子会社化
阪口政明インドネシア国西ジャワ州カラワン県にP.T.Daiwabo Nonwoven Indonesiaを設立
西村幸浩大和紡績が5子会社を吸収合併し繊維事業の中核事業会社に
西村幸浩ディーアイエスサービス&サポートとディーアイエスソリューションが合併
西村幸浩子会社ダイワボウ情報システムがアルファテック・ソリューションズの全株式を取得
西村幸浩繊維事業(大和紡績)の株式の85.0%をアスパラントグループSPC11号へ譲渡★★
出典・参考
  • ダイワボウHD 有価証券報告書【沿革】
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)

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