ダイワボウホールディングス繊維不況の打開策としてダイワボウ情報システムを設立し情報分野へ進出
設備の3割廃棄が見込まれるなかで、紡績会社は何を次の柱に選んだか
- 概要
- 1982年4月8日、大和紡績は資本金2,000万円でダイワボウ情報システム株式会社(DIS)を大阪市東区に設立し、情報産業へ進出した。日本電気のパソコン「PC-9800」シリーズの販売特約店として、パソコン・オフコン・通信機器・FAシステムの4部門で発足した。
- 背景
- 1973年のオイルショック後、紡績業は今後10年で設備の30%を廃棄せざるを得ないと見込まれた。当時の大和紡績の売上は1,000億円で、3割の設備廃棄は300億円の売上減に相当した。同社の経常損益は1975年4月期から4期連続の赤字であった。
- 内容
- 新鋭機の24時間操業を管理するため工場技術者がミニコンで自作したモニタリングシステムから、コンピュータの分かる技術者が15名育っていた。この人材を根拠に日本電気へ販売店化を働きかけ、1年がかりで了解を得た。
- 含意
- 在庫を持って即納するという繊維会社の営業手法をパソコン流通に持ち込み、支店は佐賀・出雲・金沢など大和紡績の工場があった土地に置いた。1989年度上期には日本電気からの仕入れ額が100億円を超え、特約店中で首位に立った。
飛び地に見えて、本業の作法の移植だった
紡績会社がパソコン流通を始めた話は、外から見れば脈絡のない多角化に映る。だが中身をたどると、繊維の現場が持っていたものがそのまま移されている。売れる分の在庫を先に抱えて即納するという商売の作法は繊維の営業から、システムを扱える技術者は新鋭機を24時間回すために自作したモニタリングから、そして最初の支店の立地は佐賀・出雲・金沢という工場のあった土地から来ていた。捨てる予定の設備が生んだ副産物を、別の市場で売り物にした事業とみることができる。
判断の質を分けたのは、規模の置き方でもあった。初年度4億円・赤字2,000万円で資本金を使い切った会社に対し、山村社長は毎年10億円ずつ伸ばして100億円へ、そのために毎年3店という、売上と店数と人員を一本の式で結んだ目標を置いている。社員が「あの社長、アホやないか」と噂したというその計画は、1987年度に122億円で達成された。大和紡績が10年で3割を廃棄すると見込んだ設備の代わりに残ったのは、コンピュータの分かる技術者15人と、在庫を抱えて売る習慣であった。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
設備の3割を捨てる前提
1973年のオイルショックのあと、紡績産業は今後10年間で設備の30%を廃棄せざるを得ないと見込まれた。当時の大和紡績の売上は1,000億円で、設備の3割廃棄は単純に置き換えれば300億円の売上減に相当した。社内には、新規事業を興さなければ大変なことになるという空気が生まれた。減る前提の本業をどう補うかが、繊維以外へ手を伸ばす直接の理由であった[1]。
見込みは数字にも表れていた。大和紡績の単独経常損益は1975年4月期に61億円の赤字へ落ち、1976年4月期63億円の赤字、1977年4月期31億円の赤字、1978年4月期47億円の赤字と4期続けて赤字が並んだ。1979年4月期にいったん35億円の黒字へ戻したものの、1981年4月期に再び35億円の赤字となり、DIS設立の1982年4月期も売上1,015億円に対して経常損益は35億円の赤字であった。売上の水準は1,000億円前後で動かないまま、利益だけが出ない状態が続いた[2]。
工場の24時間操業が育てた技術者
進出先の候補として当時挙がっていたのは、ファインケミカル、バイオテクノロジー、エレクトロニクスの3つであった。新規事業を担った山村滋氏は、自身が機械屋であって化学の分野は扱えないという理由でエレクトロニクスを選んでいる。もっとも、紡績会社がエレクトロニクスを手がけると言っても取り合う相手はなく、販売店化を依頼した日本電気も最初の半年は応じなかった[3]。
交渉の材料は、繊維の現場から出ていた。設備廃棄の代わりに欧州から導入した新鋭機は、必要人員を半減して生産量を倍増できる一方で償却費が重く、24時間365日の操業が課題となった。深夜の生産量が予定の半分にしか届かず、米国の文献からマイコンによるモニタリングを知ったものの見積もりが高額で、ミニコンを購入して工場技術者が自らシステムエンジニアとなり、2年半かけて自作した。この過程でコンピュータの分かる技術者が15名育ち、システム自体も後に韓国・台湾・インドネシアへ輸出された[4]。
決断
日本電気の販売店になるまで
1982年4月8日、大和紡績は資本金2,000万円でダイワボウ情報システム株式会社を大阪市東区に設立した。日本電気に対しては、大和紡績がホストコンピュータにIBMの汎用機を使っていること、ミニコンの技術者が育っていること、パソコンの使用言語ベーシックを理解できる社員が150人ほどいること、インターフェースのハードウエアを作る力もあり、マイコンから汎用機までこなせる会社であることを説明し、1年がかりで販売店化の了解を得た[5][6]。
事業の範囲を決めたのは日本電気の側であった。大和紡績がやるのであればパソコンだけを扱うのはもったいないとして、オフコン、通信機器と電話交換機、そして大和紡績が開発したFAシステムを加えた4部門での取り組みを勧められ、DISはその形で発足した。工場のために自作した設備管理システムが、そのまま商材の一つとして数えられている。販売特約店契約の締結は1983年6月、最初の支店である佐賀支店の開設は同年8月であった[7][8]。
在庫を持つ卸売という設計
滑り出しは苦しかった。初年度は4億円の売上を上げたものの約2,000万円の赤字を計上し、資本金をほぼ使い切っている。1983年5月、言い出しっぺが責任をとる形で山村氏が2代目社長に就任した。社長を入れて9人の会社で毎月150万円の赤字という状態から、山村社長は社員に対し、1980年代のうちに100億円企業になること、勤務することに誇りを持てる会社になることを掲げ、毎年10億円ずつ売上を伸ばし、そのために毎年3店ずつ支店を開くという道筋を示した[9][10]。
商売の型は繊維から持ち込まれた。在庫販売による即納を原則とし、これは売上目標の1カ月分ほどの在庫を持たなければ商品が売れない繊維会社の営業のやり方に倣ったものであった。当時の他社は受注してからメーカーへ発注するため3〜7日を要したのに対し、DISは常時0.6〜0.8カ月分の手持ち在庫を置き、夕方6時までの注文なら翌日10時までに配達した。支店を置いた土地も、佐賀市、出雲市、金沢市など大和紡績の工場があった場所であった。市場が小さい分の苦労はあり、佐賀支店では卸売を主体にして利益が出るまで9カ月を要している[11][12]。
結果
日本電気の仕入れ額で首位へ
出店は計画どおりに積み上がった。1983年から毎年3店、1987年からは毎年5店ずつ支店と営業所を開き、1989年末時点の事業所数は28カ所に達した。売上高は1987年度に122億円となり、10年計画は5年で通過した。1989年3月期の売上高は223億7,100万円、経常利益は6億4,580万円で、利益率は2.88%であった。そして1989年度上期には日本電気からの仕入れ額が100億円を超え、大塚商会を上回って特約店中の首位に立った。創業から8年目のことであった[13][14]。
親会社の側も、この伸びを予期していなかった。大和紡績の有延悟社長は1990年の時点で、こんなに大きくなるとは思いもしなかった、今では37社ある子会社のなかで売上高第1位であると述べている。設立から10年を経た1991年度の売上は440億円で、うち400億円がパソコンであり、パソコンの売上は日本一となった。社員は514名、月商50億円に対して0.8カ月分にあたる40億円の在庫を回していた。1991年11月、DISは日本証券業協会へ店頭銘柄として登録している[15][16][17]。
- 日経ビジネス 1990年1月1日号「ダイワボウ情報システム 即納体制でパソコン販売急成長」
- 日経ビジネス 1997年11月24日号「有訓無訓 山村滋[ダイワボウ情報システム会長]経営者と社員が共有できる目標を」
- 証券アナリストジャーナル 1992年(別冊付録「企業」)山村滋 ダイワボウ情報システム社長 講演録
- ダイワボウ情報システム 公式沿革(https://www.pc-daiwabo.co.jp/corporate/history.html)
- 大和紡績 会社年鑑(単独業績)