三越「拡・百貨店」路線の採用と、土地取得だけで580億円を投じたゴルフ場開発
本業の建て直しか、店の外への進出か——坂倉芳明社長が選んだ多角化と、10年伏せられた580億円
- 概要
- 1986年に社長に就いた坂倉芳明氏が「拡・百貨店」と称する多角化を掲げ、1988年にゴルフ場開発へ着手した判断。土地取得だけで580億円を投じ、開発向けの融資は子会社を介して行われた。投資は社外にも社内にも伏せられたまま10年続き、1997年10月3日に446億円の特別損失として表面化した。坂倉氏は会長として取締役を退任している。
- 背景
- 三越の収益は東京日本橋の本店に寄っており、全社売上高の40%以上、利益では75%ほどを一店が稼いでいた。三井グループを背景にした法人外商と、ツケでの購入を認めた上得意客「御帳場」という強みは細り始めていた。1980年代後半のバブル期には総合生活産業が流行し、百貨店が本業の周辺へ広げるのは業界に共通の動きであった。
- 内容
- 坂倉氏はホテル・スポーツ・輸入車販売・海外店舗の出店へ広げ、ゴルフ場開発では土地取得だけで580億円を投じた。用地買収への支障を理由に融資を子会社経由とし、開発物件と開発業者は特別損失の発表後も明らかにしなかった。前任社長で着手時に取締役会長だった市原晃相談役も、発表まで開発を知らなかったと述べている。
- 含意
- 1998年2月期の最終赤字は345億円、1999年2月期は364億円の特別損失で260億円の赤字となり、2期の単体赤字は計593億円、上場以来初の無配に落ちた。その間、日本橋本店が利益の七割近くを稼ぐ一極体制は変わらず、パート比率は伊勢丹・高島屋の40%以上に対し15%程度にとどまった。多角化に割いた10年は、本業に手を入れる10年でもあった。
正しい問いに、土地で答えた10年
利益の75%を一店から得ている会社が、本店以外の収益源を欲したこと自体は正しい課題設定であった。総合生活産業が流行し、同業が本業の周辺へ広げていた1980年代後半に、坂倉芳明社長が拡・百貨店を掲げたのも同業と揃った選択にすぎない。誤算は目算の甘さより、答えの形にあったとみられる。ホテルもスポーツもゴルフ場も、土地を取得して施設を建てる事業であり、品ぞろえと接客という百貨店の中身へは還らない投資であった。
もっとも、580億円の損失だけで三越が沈んだとは言い切れない。1999年2月期の364億円の特別損失は子会社の累積損失の引き当てであり、伊勢丹や高島屋の40%以上に対して15%程度というパート比率も、ゴルフ場とは関わりなく積み上がった重さであった。前任の会長が10年知らない投資が通る会社では、誰が何を選んでも検算は働かない。失敗の芯は多角化という選択より、それを止める仕組みが無かったことにあったとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
利益の75%を一店が稼ぐ会社
三越の収益は、東京日本橋の一店に寄っていた。1997年の時点でも本店の年商は3,000億円強で、単店の売上高では日本一を保っていた。全社の売上高では40%以上、利益ではおよそ75%をこの一店が稼ぎ出している。強みの源は、三井グループを背景にした法人外商と、ツケでの購入を認められた上得意客「御帳場」の厚みにあった。売上の構成比率はほとんど動かず、地方店の不振を本店が埋める形が長く続いた[1][2]。
この一極構造には期限があった。法人需要は構造的に減り、御帳場の固定客も、他社がカード戦略で顧客の囲い込みに出るなかで優位を保てなくなる。高島屋が新宿へ出店した後、東京圏の地区別売上シェアは新宿地区が前年比2.6%上がり、日本橋地区は1.4%減となって、東京圏で最も影響を受けた地区になった。本店以外に稼ぐ場所を作る必要は、1980年代後半の三越にとって現実の課題であった[3][4]。
西武を経て戻った社長と、総合生活産業の流行
1986年に社長へ就いた坂倉芳明氏は、前社長の岡田茂氏と対立して三越を追われ、西武百貨店の社長を務めた後に戻ってきた人物であった。掲げた路線は「拡・百貨店」と称する多角化で、ホテル・スポーツ・輸入車販売へ広げ、海外店舗の出店とゴルフ場開発にも進んだ。在任は社長として1995年まで、会長として1997年までの11年に及ぶ。本店依存を是正するという課題に対し、坂倉氏が選んだのは売り場の中身を作り替えることではなく、店の外へ事業を足すことであった[5][6][7]。
この選択は、当時の同業の方向と揃っていた。1980年代後半のバブル期には、セゾングループに代表される「総合生活産業」がもてはやされ、百貨店が本業の周辺へ手を伸ばすのは業界に共通の動きであった。坂倉氏の路線そのものが時代から外れていたわけではない。周辺事業へ資本を割いた10年のあいだ、本業の収益構造には手が入らなかった。1999年の週刊東洋経済は、凋落の根本を「ここ数十年来、本業の収益構造に何一つメスが入っていない」点に見ている[8][9]。
決断
580億円を土地に置いた多角化
ゴルフ場開発は、坂倉氏が社長を務めていた1988年に始まった。土地取得だけで580億円を投じる規模で、拡・百貨店が広げた先のなかでも最も重い投資となる。ホテル、スポーツ、輸入車販売、海外店舗と並べても、ゴルフ場は百貨店の売り場と接する面がほとんどない。本店以外に稼ぐ場所を作るという課題への答えとして選ばれたのは、品ぞろえや接客ではなく、土地を取得して施設を建てる事業であった[10]。
土地を取得して建てるという解き方は、周辺事業だけに向いたわけではない。1996年11月、三越は大阪駅前の国鉄跡地の入札に敗れる。提示価格は落札したヨドバシカメラに及ばず、二番札のパルコも下回った。翌1997年10月1日には福岡三越を開店させ、投資負担は総額600億円、単年度黒字化は7年後という計算であった。関西に拠点を得られないまま九州へ600億円を向けた順序に、拠点配置の優先順位が定まっていなかったことがうかがえる[11][12]。
上から回る伺い書
580億円の投資が10年にわたって表に出なかった理由は、資金の通し方にあった。三越は「用地買収に支障を来すから」としてゴルフ場への融資を子会社を介して行い、外部に漏れない形をとった。用地の買い占めを避けるための実務上の配慮は、そのまま損失を決算の表から遠ざける仕掛けにもなっていた。開発物件と開発業者について、三越は特別損失の発表後も一切コメントしていない。株主には、損失が発表された範囲で収まるのかを判断する手がかりが渡らなかった[13][14]。
伏せられていた相手は社外にとどまらない。労働組合が特別損失を知らされたのは1997年9月末で、含み損は社内にも伝えられていなかった。坂倉氏の前任社長で、着手時には取締役会長だった市原晃相談役も、発表まで開発を知らなかったと述べている。三越では役員の任期が明確でなく定年制もないため長期の政権が生まれやすく、会長と社長の判が先に押された伺い書が回る例が多かったという。決裁が最初に来る順序のもとでは、投資の妥当性を下から検算する機会は残らない[15][16]。
結果
446億円の特別損失と会長の退任
1997年10月3日、三越はゴルフ場開発に伴う446億円の特別損失を計上し、1998年2月期に320億円の最終赤字へ転落すると発表した。責任を追及する声を受けて、坂倉芳明会長は取締役を退任し相談役に引いた。三越は前期まで7期連続の連結赤字で累積損失36億円を抱えていたが、子会社の整理が進み、この期は連結黒字化の見通しであった。特損で累損は拡大し、連結の株主資本比率は一ケタ台へ落ちる見込みとなる。連結・持分法適用の64社のうち24社は経常赤字にあった[17][18]。
発表の反響は社内にも及んだ。労働組合は1998年1月を期限として経営刷新のビジョンを作るよう経営側に求める。これに対して三越が発足させた「経営改革推進委員会」は、役員で構成された。変える側と変えられる側が同じ顔ぶれになったところに、10年の秘密を許した仕組みが手つかずで残っていた。経営陣は特損の計上後も「大阪出店は全社的な悲願。出店の意思は今でも変わらない」(井上和雄専務)と述べ、拠点を新設する路線を崩さなかった[19][20]。
2期で593億円の赤字と、上場初の無配
損失の後始末は1期では終わらなかった。1998年2月期の最終赤字は345億円、続く1999年2月期には子会社の累積損失の引き当てなどで364億円の特別損失を計上し、260億円の最終赤字となる。この2期の単体赤字は計593億円に達し、三越は上場以来初めての無配へ落ちた。連結決算は8期連続の最終赤字、連結の株主資本比率は3%を割り、株価は金融危機のさなかに200円台まで下がっている。1999年2月には600名の人員削減を含むリストラを発表した[21][22][23]。
1999年の週刊東洋経済は、特別損失の原因を坂倉前会長の多角化路線の失敗に見たうえで、凋落の根本は別にあると書いた。本業では、日本橋本店が利益の七割近くを稼ぐ一極体制が数十年変わらず、従業員のパート比率は伊勢丹や高島屋の40%以上に対して15%程度にとどまっていた。合理化の先送りと多角化の損失が、同じ時期に決算へ現れた。ゴルフ場に置いた580億円が失わせたのは資金だけでなく、本業に手を入れるための10年でもあった[24][25]。
- 週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 446億円の特損でも危機感ゼロ?」
- 週刊東洋経済 1999年3月27日号「三越 老舗「のれん」の虚像 “三井発祥”企業の凋落」
- 週刊東洋経済 2005年7月16日号「4店閉鎖、1000人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」
- 週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の10年」