アスキー映画・地域開発を含む拡大路線の採用と、創業メンバー2名の退任

本業に絞るか、公開資金で広げるか——採決を分けた1票

時期 1991年7月
意思決定者(推定) 西和彦 社長
論点 公開資金の使い道と経営体制
概要
1991年7月1日の臨時役員会で、アスキーは映画などマルチメディアへ積極的に投資する拡大路線と、本業の出版・ソフトに投資を絞る堅実路線のどちらを取るかを採決した。西和彦社長の拡大路線案が通り、対案を出した郡司明郎氏と塚本慶一郎氏は退任した。
背景
1989年の株式店頭公開で得た資金は、映画や地域開発を含む多角化に向かっていた。西社長は公開時に、西暦2000年までの東証一部上場と売上高1,120億円という長期目標を掲げていた。
内容
役員には2つの経営計画案が配られた。採決の直前、西社長は態度を決めていない役員を個別に呼び出し、給料と昇進を材料に説得して回った。結果は棄権が出て西社長の案が通り、2人の辞表は7月3日に受理された。
含意
拡大路線は1992年の転換社債の発行停止と銀行団の協調融資に行き着き、以後アスキーは実質的に銀行の管理下に入った。去った塚本氏はインプレスを興し、同社は2000年に東証一部へ上場した。
筆者の見解

一票差が分けたもの

棄権が出なければ結論は逆になっていた。郡司氏と塚本氏は過半数を読んでおり、票読み自体は外れていない。分けたのは案の中身ではなく、採決の15分前に個別の説得へ動けるかどうかであった。会社の進路を決める場が、事業の見立てを競う場ではなく票の取り合いになったとき、より熱心に動いた側が勝つ。1992年の資金繰り悪化から逆算すれば堅実路線に理があったことになるが、その評価は結果を知っている側の後知恵にすぎない。

ただし、拡大路線が誤りだったと言い切るのも難しい。西社長が公開時に掲げた目標は、売上高1,120億円のうち400億から500億円を新規事業で埋める前提であり、周辺へ広げること自体は公開の時点で投資家に説明済みの方針であった。誤算があったとすれば、広げる先に映画や地域開発を選び、本業との距離が遠い領域へバブル期の資金を投じた点にある。堅実路線を唱えた塚本氏がのちにインターネット出版で上場を果たした事実は、両者の違いが慎重さの度合いではなく、どの隣にどう広げるかの見立ての差だったことを示している。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

株式公開と、そこで掲げた目標

1987年、創業からの10年を技術者として過ごした西和彦氏が社長に就いた。1989年には株式を店頭公開し、同年10月9日、西社長は日本証券アナリスト協会の企業分析部会で長期目標を語っている。西暦2000年までに東京証券取引所第一部へ上場し、その時点で売上高1,120億円、従業員900人の規模にするという内容であった[1]

当時の売上高予想は275億円であり、11年で4倍にする計画にあたる。西社長は、事業が順調に伸びれば2000年より前に実現できるかもしれないとも述べ、そのうち400億円から500億円は新規事業で得たいと語った。目標の3分の1以上を、まだ手をつけていない事業で埋める前提が、この時点で公にされていた[2]

公開資金の向かった先

公開で得た資金は、映画や地域開発を含む多角化に向かった。西氏は後年、社長になって最初の5年は公開で手に入った資金でいろいろとやり過ぎたと認めている。目標が新規事業を前提にしていた以上、資金が周辺へ流れたこと自体は計画どおりであり、問題は広げる先の選び方にあった[3]

一方で本業の側にも投資は続いていた。1987年には川崎市に2,000坪の用地を12億円で取得して研究開発の拠点を建て、出版とソフトウェアと半導体の3事業を事業部制の独立採算で運営していた。4番目の事業としてデジタルオーディオビデオへ進み、日本と米国と欧州に研究所を置く構想も公開の場で示している[4]

決断

1991年7月1日の臨時役員会

方針の違いは1991年7月1日の臨時役員会で決着がついた。役員には2つの経営計画案が配られている。西氏の案は映画などマルチメディアへ積極的に投資する拡大路線、郡司明郎氏と塚本慶一郎氏の案は本業の出版とソフトに投資を絞る堅実路線であった。創業以来14年をともにした3人が、会社の向かう先で正面から割れた[5][6]

表向きは政策論争として伝えられてきたが、実際には採決の前から役員への働きかけが行われていた。三人を除く役員は応援演説を求められ、どちらに付くかの選択を迫られている。駆け引きに長けていない郡司氏と塚本氏に対し、西氏は会議を中断してまで時間を稼いだ[7]

棄権による決着

採決の15分前、西氏は態度を決めていない役員を個別に呼び出していた。給料を倍にする、残れば昇進させる——半分は脅し、半分は誘いを混ぜて説得して回っている。郡司氏と塚本氏は悪くても過半数は取れると票を読んでいたが、結果は棄権が出て西氏の案が通った[8]

敗れた2人に残された道は退社しかなかった。辞表は7月3日に受理され、その日の夜に記者発表が行われている。塚本氏は当時をふり返り、一番反対していたのは映画と地域開発だったと語った。争点は投資先の選び方にあり、両案の違いは事業の広げ方の速度にとどまらず、会社の性格そのものに及んでいた[9]

結果

拡大の帰結と、去った2人のその後

拡大路線の帰結は早く現れた。多額の海外投資とグループ会社の失敗で資金繰りが悪化し、1992年に転換社債の発行が止まる。銀行団の協調融資を受けて以後、アスキーは実質的に銀行の管理下で再建を進めた。この協調融資にともなう転換社債は164億円にのぼり、有利子負債はその後も増え続けた[10]

去った2人はそれぞれの場所で立った。塚本氏はインプレスを興し、同社は2000年に東京証券取引所第一部へ上場している。郡司氏は南青山に個人事務所を構え、アスキー株を売った資金でインターネット関連の会社へ投資する側に回った。堅実路線を唱えた側が、社外で本業に近い事業を伸ばした形になる[11][12]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
  • 週刊東洋経済 2000年10月21日号「復活 あのアスキー西和彦副会長が経営の第一線に復帰!?」
  • 証券アナリストジャーナル 1989年11月号「アスキー」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1989年10月9日講演要旨)
  • 近代中小企業 1991年10月号(中小企業経営研究会)

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