「落下傘型」多角化で祖業依存を断つ経営刷新

農機と鋳鉄管の名門は、なぜ未経験のコンピューターへ飛び込んだか

更新:

時期 1990年5月
意思決定者 三野重和 社長
論点 祖業の成熟と多角化の型
概要
1990年、久保田鉄工(同年4月にクボタへ商号変更)が、既存事業の周辺ではなく未経験の分野へ飛び込む「落下傘型」の多角化を掲げ、コンピューター事業を第3の柱に育てようとした経営判断。三野重和社長の主導で、社名・シンボルマークの一新と社内の意識改革をあわせて進めた。
背景
農業機械と水道用鋳鉄管という祖業の2本柱は安定していた一方で、いずれも成熟して大きな伸びが望みにくくなっていた。「危険なことに手を出さない」という消極的な体質が社内に染み付き、第3の柱づくりは1980年代を通じての課題であった。
内容
1986年の米アーデント社への出資を皮切りに、3次元グラフィックスワークステーションを軸にコンピューター事業へ進出。既存事業を1年で14社に分社化し、新製品比率を課す人事評価制度で守勢の各事業部に事業展開を迫った。市場規模の大きいコンピューターを売上高1000億円単位の中核事業に育てる算段であった。
含意
コンピューター事業は提携先の合併・解散に翻弄され、スターデント社の清算で約170億円の損失を計上するなど迷走した。一方で環境事業は継続して育てられた。既存事業で上げた収益の範囲に投資をとどめ、遺産を食い潰さない手堅さと、未知への賭けが同居する判断であった。
筆者の見解

名門の賭けが残したもの

この判断の核にあるのは、安定した2本柱に恵まれた名門が、その安定ゆえに縮こまることへの危機感であった。「危険なことに手を出さない」体質を壊すために、社名まで変え、経験のない市場へ資本を投じる——落下傘型という言葉には、既存事業の周辺に安住しない意志がこめられていたとみることができる。ただ、コンピューターという最も技術変化の激しい分野を選んだことで、その意志は最も手痛い授業料を払う結果にもなった。

もっとも、落下傘型を語る三野氏の言葉には、賭けと同時に手堅さへのこだわりが同居していた。投資を既存事業の収益の範囲にとどめ、遺産を食い潰さないという歯止めは、名門を守る側の論理でもある。コンピューターは畳まれ、環境や水の処理技術は残った——どの落下傘が地に足を着けるかは、飛び降りてみるまで分からない。多角化を続けなければ限界が来るという危機感と、体力の範囲でしか賭けないという抑制のあいだで、クボタの変身は揺れていたとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

安定した2本柱と、忍び寄る成熟

クボタの祖業は、1890年に久保田権四郎が始めた町の鋳物業であった。水道用鋳鉄管の国産化に成功し、そこからトラクターなどの農業機械へと事業を広げ、農機と鋳鉄管が会社を支える2本柱として定着していた。1989年度の売上高は過去最高となり、農機を主力とする内燃機器事業本部が3000億円弱で約4割、鋳鉄管などのパイプ事業と合わせると全売上高の約7割を占め、両部門とも安定した収益を見込める名実ともの2本柱であった[1]

ただし、その2本柱はいずれも成熟へ向かっていた。国内の農機市場は減反政策のもとで先行きが暗く、パイプ事業も上水道の普及がほぼ終わって頭打ちに近づいていた。三野重和社長は、農機やパイプ事業の成功が大きすぎたために2大事業へ依存する体質が定着したことを、後に反省せざるを得ないと振り返っている。第3の柱づくりは、1980年代を通じて解けないままの課題であった[2]

「落下傘型」という多角化の思想

三野社長が掲げたのは「落下傘型」という多角化の考え方であった。既存事業の技術や市場を掘り下げる「地下水脈型」に対し、自社に経験のない市場や技術へあえて飛び込むのが落下傘降下であり、クボタの変身はその型で進められた。三野社長は神戸大学で「企業変革論」を講義したこともある経営者で、創業者の久保田権四郎が明治から大正にかけて鋳鉄管や自動車へ挑んだ歴史そのものを、この型の先例として引いていた[3]

この落下傘型には失敗の記憶も刻まれていた。1919年の自動車進出は、欧米勢の安い量産品にコストで勝てず大失敗に終わっている。ただ、行き詰まった自動車事業を戸畑鋳物へ売却し、代わりに農耕用エンジン事業を譲り受けたことで、後の「農機のクボタ」の基礎が生まれた。三野社長は、落下傘型の事業展開はリスクも大きいが、任された事業を何が何でもモノにする「偏執狂」的な人材と、赤字が続いても踏みとどまる体力があってこそ成り立つとみていた[4]

決断

コンピューターへの集中投資

落下傘型の代表が、コンピューター事業であった。クボタは1986年10月に米アーデント社へ出資し、画像処理に強い3次元グラフィックスワークステーションの製造・販売権を得てこの分野へ進出した。翌1987年には子会社クボタコンピュータを設立し、米エクサバイト、ミップス、アカシックなどへ矢継ぎ早に資本参加している。市場規模の大きいコンピューターを、農機・パイプに次ぐ売上高1000億円単位の中核事業へ育てるという算段であった[5]

進出の背景には、コンピューターが世の中の基盤になるという読みがあった。三野社長は、機械産業だけでなく社会全体がコンピューターなしでは動かなくなっており、その核になる技術と製品を押さえることは絶対に必要だと語っている。技術の進歩が激しいハードで生き抜くのは容易でないと承知しながらも、ソフトを含めればまだやれるとみて、賭けを続けることをためらわなかった[6]

分社化と意識改革で守勢を破る

三野社長は1982年の就任時から「クボタ革新運動」に取り組んでいた。既存事業の伸びが鈍り、円高も加わって大企業病の兆候が出るなかで、既存事業を分社化して経営効率を高める一方、成長力ある新規事業への進出を狙った。分社化は1986年夏からほぼ1年で14社に達し、新たに進出した事業の代表がコンピューター事業であった[7]

守勢に傾いた社内を動かすため、クボタは1987年度から新しい人事評価制度を取り入れた。市場にない製品を新製品A、既存製品を改良した製品を新製品Bとし、売上高に占める新製品比率を目標に設定して、下回ると部門長の査定が下がる仕組みである。あわせて1990年4月には久保田鉄工からクボタへ社名を変更し、鋳物と歯車を組み合わせた旧マークを一新した。「アピールが下手では人材も採れない」という危機感が、社名変更のばねになっていた[8]

結果

コンピューターの迷走と損失

賭けたコンピューター事業は、当初の目算どおりには進まなかった。出資先のアーデント社は、ほぼ同じ機能の製品を扱う米ステラ社と1989年に合併したが、両社が米国の東と西に離れて技術者同士が協力せず、合併効果は得られなかった。筆頭株主だったクボタは1991年にスターデント社を清算し、約170億円の損失を計上している。国内子会社クボタコンピュータの1989年度売上高は70億円でなお赤字体質であった[9]

つまずきの一因は、市場そのものの読み違いにあった。3次元グラフィックスワークステーションの市場は、当初予測されていたほど成長せず、事業開発を担った安川八十次副社長も「アーデント社への出資を決めた最初の調査が楽観的すぎた」ことを否定しなかった。技術の進歩が数年で製品を陳腐化させるハードの世界で、素人集団のまま挑んだ難しさが表れていた[10]

環境事業への継続と、手堅い賭け

一方で、落下傘型のもう一つの柱である環境事業は継続して育てられた。三野社長は、下水にたまる汚泥の処理や都市のゴミ焼却など、技術革新の進む環境事業を有望とみて、その売上高を将来1000億円まで伸ばすと期待していた。1990年度の環境事業の売上高は約500億円で、地方公共団体から受注した下水・ゴミ・し尿の処理システムが中心であった。コンピューターで迷走する一方、環境ではニーズの高度化に技術で応える道を選んでいた[11]

賭けの元手には、既存事業で稼いだ体力があてられた。三野社長は新規事業への取り組みを「企業体力と相談しながらやっている」と語り、これまでの投資は既存事業で上げた収益の範囲にとどめ、遺産を食い潰していないと強調した。落下傘型は失敗も大きい一方で、赤字が続く事業を抱えても経営に影響を出さずに新事業を育てられる体力を前提にした、手堅い賭けでもあった。1994年、三野会長は未知の分野への落下傘降下こそ持続的発展の条件だと総括している[12]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1990年5月7日号「「落下傘型」ニュー事業で経営刷新」
  • 日経ビジネス 1992年2月3日号「農機には貿易摩擦はない 環境事業で1000億円めざす」
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号「未知の分野にも「落下傘降下」多角化してこそ持続的発展が可能に」
  • クボタ 会社年鑑(連結業績・1992年3月期)