1890年2月、久保田権四郎氏は大阪市南区御蔵跡町で久保田鉄工所を興し[1]、各種鋳物の製造・販売を始めた[2]。個人経営の町工場からの出発で、権四郎氏は創立者であると同時に初代社長[3]を務めている。三年後の1893年7月には水道用鋳鉄管の製造に着手[4]した。創業期に手がけたのは、水道用および瓦斯用の鋳鉄管を主体とする各種鋳物[5]である。もっとも鋳鉄管の鋳造は容易ではなく、量産に足る技法の確立までには着手からさらに七年[6]を要した。
量産の壁を破ったのは鋳造法の工夫で、1900年に丸吹立込鋳造法を考案[7]して実地に移している。翌1901年には船山町工場を建設し[8]、鋳鉄管と諸機械の製造販売を始めた[9]。1908年にはさらに鋳鉄管の廻転式鋳造法を考案して特許を獲得[10]し、鋳造の技法を自前で組み立てて特許で囲う型を固めている。工場と技法の両方を握ったことで、鋳鉄管は久保田鉄工所の柱として据わった[11]。
鋳物事業が伸びると、権四郎氏はその機械加工に目を向け、1914年に船出町工場へ機械工場を新設[12]してスチームエンジンなどの舶用機械の製造を始めた[13]。1916年には工作機械・節炭機・給炭機・制水弁・一般機械へ[14]、1918年には鋳型へと品目を広げている[15]。鋳物を売るだけでなく、鋳物を使う機械までを自社で作る構え[16]で、鋳鉄管という単一の柱に機械という二本目を継ぎ足す作業が大正期を通じて進んだ。
鋳鉄管と鋳物の需要が増すと生産の場そのものを買い足し、1917年には関西鉄工所を買収して尼崎工場とし[17]、船出町工場の鋳鉄管製造部門をここへ移している。あわせて異形管の工場として恩加島工場を、排水管・異形管・一般鋳物の工場として市岡工場を新設[18]した。1922年2月には農工用小型エンジンである発動機の製造に着手[19]し、同じ年に耐熱・耐酸・耐アルカリの鋳物、砲金、軽合金の鋳物も手がけている[20]。のちに農業機械へ育つ発動機は、この年に始まった[21]。なお1919年11月には実用自動車製造を設立して三輪車・四輪車の生産にも手を出しているが、こちらは市場を得られずに退いた。
鋳造技術の蓄積は大正末に二つの特許となって表れ、1923年に自動製芯機[22]、翌1924年に自動成型機の発明特許[23]をそれぞれ獲得している。手作業に頼っていた工程を機械へ置き換えるもので、鋳鉄管の量産はこの二件で一段階を進めた[24]。1924年には度量衡法の改正にあわせ、船出町工場で衡機の製造も始めている[25]。鋳造の技法から、それを支える機械までを自社で握る構えがここで揃った[26]。
設備の買い足しも続き、1927年2月には株式会社隅田川精鉄所を買収して鋳鉄管事業を拡張[27]している。同じ1927年には自動給炭機、ディーゼルエンジン、小形舶用発動機の製造にも着手[28]した。創業から40年に満たない間に、久保田鉄工所は鋳鉄管・鋳物・機械・発動機という四つの製品群[29]を抱える規模へ達している。個人経営の町工場のままでは[30]、この広がりをもはや収めきれなくなっていた。
1930年12月、久保田鉄工所は二つの株式会社に分かれて法人格を得ている[31]。水道瓦斯鋳鉄管および各種鋳物の製造を主とする資本金450万円の株式会社久保田鉄工所[32]と、内燃機・陸舶用機械・製鉄製鋼用機械・制水弁・衡機・工作機械などを製造する資本金250万円の株式会社久保田鉄工所機械部[33]である。鋳物と機械という二つの系統をそのまま二つの会社に分けた形で、同じ1930年には社章も改め、1925年に制定した円と鋳鉄管の意匠[34]から円を歯車へ置き換えた[35]。鋳物の久保田から、鋳物と機械の久保田へ[36]という看板の書き換えである。
二社に分けた体制は七年で畳まれ、1937年3月に株式会社久保田鉄工所機械部を株式会社久保田鉄工所へ合併[37]している。同年9月には大同鉄工所を買収して鋳鋼工場とし[38]、11月には堺工場を新設して農工用発動機の大量生産に着手[39]した。堺工場には欧米各国から新型機械を輸入して据えている[40]。翌1938年8月には隅田川精鉄所を合併して隅田川工場とし[41]、1927年の買収から11年を経て組織のうえでも取り込んだ。
生産の場は戦時へ向けてなお広がり、1940年10月には武庫川工場を新設して産業機械事業を拡張[42]し、その翌年10月から遠心力鋳鉄管の鋳造を始めている[43]。1943年3月には神崎工場を設け[44]、同じ月に特殊鋳鋼品および高硅素鋳鉄鋳物の鋳造にも入った[45]。1945年7月には布施工場[46]を加えている。このうち兵庫県尼崎市の神崎工場は、60年余りのちに石綿被害の舞台[47]として同社の経営を揺らす場所となった。
敗戦の翌年、1946年3月に製材機と鉱山用諸機械の製造を始め[48]、1947年には耕うん機を手がけた[49]。のちに売上の4割を占める農業機械部門[50]は、この耕うん機から始まっている。1922年に始めた農工用発動機を動力源として[51]、農家が使う機械そのものを作る側へ回った。1949年5月には東京証券取引所と大阪証券取引所へ上場[52]し、1950年8月には製品別の事業部制を採用[53]して、製品ごとに損益を締める仕組みを入れた。
戦後の製品群は鋳鉄管の周辺でも厚みを増し、1950年7月に金型遠心力鋳鉄管[54]、1951年にクローム鋳鉄管とセメントライニング管、土木建設各種プラント[55]、1952年に鋳鋼管とポンプの製造へ入っている[56]。1952年12月には武庫川機械工場でポンプの製造を始めた[57]。上水道の管を作る会社から、水を送る装置までを扱う会社へ、製品の範囲が広がっている[58]。
1953年6月、社名を久保田鉄工株式会社へ改めている[59]。翌1954年には石綿パイプとビニルパイプの製造を始め[60]、同年4月にはビニルパイプ工場を新設して合成樹脂管の本格的な製造に入った[61]。石綿を含む水道用パイプは当時の配管材として広く使われた製品で、この1954年から、のちに旧神崎工場周辺の被害として問われる石綿の取り扱いが始まっている[62]。
1950年代の後半には製品の幅がさらに住宅と鋼管へ伸び、1956年4月にモビルクレーンと運搬用諸機械[63]、1957年11月には久保田建材工業株式会社を設立して住宅建材事業へ進出[64]している。1959年12月にはスパイラル鋼管の製造を始め[65]、同じ月に大浜工場を新設した[66]。鋳鉄管・農業機械・一般機械・鋳物という四部門[67]の骨格は、この時期にほぼ出来上がっている。次の十年で主役に躍り出るのは、四部門のうち農業機械[68]であった。
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|---|---|---|---|---|
| 1890〜1929年鋳物屋が興した鋳鉄管の国産化と、機械への拡張 | 久保田鉄工所を創業 | ★ | ||
| 水道用鋳鉄管の製造を開始 | ★★ | |||
| 工作機械に参入・鋳鉄管生産を尼崎と恩加島に移管 | ★ | |||
| 実用自動車製造を設立・自動車に参入 | ★★ | |||
| 発動機(農工用小型エンジン)の製造を開始 | ★★ | |||
| 隅田川精鉄所を買収 | ★ | |||
| 1930〜1959年二社に分けた法人化と、戦後に芽を出した耕うん機 | 久保田鉄工所を設立 | ★ | ||
| 農工用発動機の大量生産を開始 | ★ | |||
| 耕うん機の製造開始・農機に参入 | ★★ | |||
| 東京証券取引所に株式上場 | ★ | |||
| 小田原大造 | 小田原大造氏が社長就任 | ★ | ||
| 小田原大造 | 社名を久保田鉄工に変更 | ★ | ||
| 小田原大造 | 合成樹脂管の製造を開始 | ★ | ||
| 小田原大造 | 住宅建材事業に参入 | ★ | ||
| 小田原大造 | 創業者・久保田権四郎氏が逝去 | ★ | ||
| 1960〜1989年農業機械を主力へ組み替え、北米へ持ち出した20年 | 小田原大造 | 純国産トラクタT15形の発売と、耕うん機から完成機体系への農業機械の組み替え 1960年、久保田鉄工が15馬力の純国産トラクタT15形を発売し、耕うん機と農用発動機の延長にあった農業機械事業を、乗用トラクタ・バインダー・田植機という完成機の体系へ組み替えた経営判断。1961年の農業基本法と構造改善事業が押し上げた機械化需要を受け、1969年の宇都宮工場までに量産の体制を整えた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 小田原大造 | 環境事業に参入 | ★ | ||
| 小田原大造 | 産業機械・鋳鋼製品の量産体制を確立 | ★ | ||
| 米田健三 | 住宅建材事業に本格参入 | ★ | ||
| 米田健三 | 田植機・バインダーの量産体制を確立 | ★ | ||
| 広慶太郎 | 欧米向けトラクタの量産を開始 | ★★ | ||
| 広慶太郎 | クボタトラクターCorp.の設立と、水田向け小型トラクタによる北米・欧州市場への進出 1972年9月、久保田鉄工が米国にクボタトラクターCorp.を設立し、日本の水田向けに作った25〜30馬力の小型・中型トラクタを北米へ持ち出した経営判断。廣慶太郎社長の主導で、1974年3月にはフランスにも販売会社を設けて西欧に広げ、輸出を軸とする国際戦略へ移った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 広慶太郎 | ヨーロッパクボタトラクタ販売を設立 | ★ | ||
| 広慶太郎 | 農業用トラクタの専門量産工場として筑波工場を新設 | ★ | ||
| 広慶太郎 | ニューヨーク証券取引所に上場。(2013年7月に同取引所上場廃止。) | ★ | ||
| 広慶太郎 | 外壁材専門工場として鹿島工場を新設 | ★ | ||
| 三野重和 | エンジン専門工場として堺製造所に堺臨海工場を新設 | ★ | ||
| 1990〜2026年未知へ飛び込む多角化と石綿の公表、そして海外農機への傾斜 | 三野重和 | 「落下傘型」多角化で祖業依存を断つ経営刷新 1990年、久保田鉄工(同年4月にクボタへ商号変更)が、既存事業の周辺ではなく未経験の分野へ飛び込む『落下傘型』の多角化を掲げ、コンピューター事業を第3の柱に育てようとした経営判断。三野重和社長の主導で、社名・シンボルマークの一新と社内の意識改革をあわせて進めた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 三井康平 | 子会社を解散 | ★ | ||
| 三井康平 | 約30年来の水道管カルテルが発覚 | ★★ | ||
| 三井康平 | 希望退職者を募集 | ★ | ||
| 幡掛大輔 | 非注力事業を分離縮小 | ★ | ||
| 幡掛大輔 | シーアイ化成との合成樹脂管事業統合によりクボタシーアイを設立 | ★ | ||
| 幡掛大輔 | 旧神崎工場の石綿疾病の公表と、周辺住民への見舞金・救済金の支払い 2005年6月29日、クボタが旧神崎工場(兵庫県尼崎市)で78人の社員が石綿を原因に死亡し15人が療養中であると発表し、あわせて工場の周辺住民に石綿との関連が疑われる患者がいることを明らかにして、中皮腫を発症した住民3人へ1人200万円の見舞金を支払うと言明した経営判断。幡掛大輔社長の下で、因果関係が確定しない段階の支払いに踏み込んだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 幡掛大輔 | 立ち入り調査が相次ぐ | ★ | ||
| 幡掛大輔 | サイアムクボタトラクター Co.,Ltd.を設立 | ★ | ||
| 益本康男 | ノルウェーKverneland ASAを買収 | ★★ | ||
| 益本康男 | クボタファームマシナリーヨーロッパ S.A.S.を設立 | ★ | ||
| 木股昌俊 | GPを買収 | ★ | ||
| 木股昌俊 | 基幹システムの刷新開始 | ★ | ||
| 北尾裕一 | インド農機大手エスコーツへの最大約1,406億円の出資と子会社化 2021年11月18日、クボタがインドのトラクタメーカー Escorts Limited への出資比率引き上げに合意し、第三者割当増資の引き受けと株式公開買付けで合計最大約1,406億円を投じて所有割合を最大53.50%へ高めた経営判断。北尾裕一社長の下で決めたクボタ最大の買収で、子会社化は2022年4月に完了した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 北尾裕一 | グローバル技術研究所を新設 | ★ |
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事実根拠:出所(クボタ)