重要な意思決定
18902月

久保田鉄工所を創業

背景

19歳の久保田権四郎が大阪で鋳物屋を個人創業

明治23年(1890年)に久保田権四郎氏が大阪市内において「大手鋳物(久保田鉄工所)」を個人創業した。久保田氏は当時19歳前後であり、独立志向の強さから、それまでの奉公先だった鋳物屋から独立して起業に至った。奉公先では「看貫(台はかり)」の鋳物を製造しており、独立後も看貫の製造に従事するとともに、輸出用マッチ向けの製造機械(軸木製造)も手がけるなど、鋳鉄技術を活用した受注生産を展開した。

転機は、久保田氏が当時普及しつつあった水道に着眼したことに始まる。鋳鉄管は鋳物の一種であるが、水道管として要求される耐久性の確保が難しく、国産化は困難とされていた。参考になる外国技術や書物は存在せず、手探りで生産技術を確立する必要があった。同時期に元海軍中将が起業した「日本鋳鉄合資会社」は、資本金百万円を投じたが設立から1年で倒産しており、水道管の国産化は不可能と見られていた。

資金面でも銀行融資に頼れる時代ではなく、知人も顧客もない状態からの出発であった。それでも久保田氏は1893年から鋳鉄管の開発に着手し、大阪砲兵工廠出身の技術者を雇い入れて、外国技術を参照せず独力で生産技術の確立に取り組んだ。

決断

7年の試行錯誤を経て鋳鉄管の量産技術を独力で確立

開発着手から約7年を経て、1897年に「合わせ型斜吹鋳造法」を開発し、鋳鉄管の製造に初めて成功した。さらに1900年には「鋳鉄管丸吹堅込法」を考案し、大量生産への目処を立てた。のちに久保田氏が欧米を視察した際、独自に到達した製法が海外の技術水準に劣っていなかったことを確認しており、外国技術なしに国際水準の製法を確立していたことになる。

量産技術の確立を受けて、1908年(明治41年)に大阪市南区(難波)において敷地面積1.2万平方メートルの大規模工場「船出町工場」を新設した。戦前には「難波の久保田」として知られる拠点となった。明治末期における国内の水道普及率は8.4%と低く、東京市や大阪市をはじめ全国各地の自治体が水道整備を推進していた。

クボタは量産能力を武器に、自治体向けの水道管を全国に納入する販路を開拓した。クボタが開発した鋳型を高速回転させて鋳鉄を流し込む製法は、のちに業界標準として定着し、他の鋳鉄管メーカーに対しても技術供与を行う立場を築いた。

結果

鋳鉄管で国内シェア60%を確保し多角経営の基盤を構築

1912年におけるクボタの鋳鉄管の生産高は4万トンに達し、国内における生産量シェアで約60%(1位)を確保した。水道インフラの拡大局面において国内に先行して量産体制を構築したことで、鋳鉄管市場における支配的な地位を獲得した。

鋳鉄管で築いた技術力と資金力は、クボタの事業多角化の基盤となった。大正時代に入ると水道管需要の一巡や第一次世界大戦による原料(銑鉄)価格の高騰を受けて、1917年には工作機械(旋盤)に参入。船出町工場を「機械専門」に切り替え、鋳鉄管の生産は新設した尼崎工場・恩加島工場に移管する体制転換を実施した。

1922年には小型発動機の生産を開始し、のちの農機事業への足がかりを築いた。久保田権四郎氏は「鉄管一点張りではいけない」として、鋳鉄管を核に製品領域を拡大する多角経営を志向した。鋳物という基礎技術を起点に、水道管から機械、発動機へと事業を広げるクボタの展開は、この創業期に確立された鋳鉄管の独占的地位と技術蓄積を原資としている。