この事件が突いたのは、会社の弱い部分ではなく、むしろ強い部分であった。1961年の技術導入から20年をかけて育てたジャイロと慣性航法装置は、単価も技術の要求水準も高く、会社の看板といえる製品群である。同時にそれは、輸出管理という重い制約と一体でなければ扱えない製品でもあった。技術を持つことと、その技術が国境を越える経路を管理し続けることは別の仕事にあたる。摘発の対象が民生部品ではなくこの製品群であった点に、事業構造そのものが抱えていた危うさがうかがえる。
責任の引き受け方にも、この会社に特有の事情が重なった。大株主の日本電気は関与を否定しつつ道義的責任を認めたが、そこから7年後の防衛庁調達をめぐる事件では、日本電気から来た社長が起訴される事態に至っている。自主独立を語りながら人事と営業では強く結ばれているという関係のあいまいさが、責任の所在を見えにくくしていたとみることもできる。株主代表訴訟が取締役個人の賠償責任として結末をつけたことは、その曖昧さに外から線を引いた出来事であったとみられる。