日本航空電子工業米ハネウェル社との技術援助契約による航空機搭載機器への進出

買った技術を自社製品へ仕立て直せるか——修理受託の会社が選んだ二度目の技術導入

時期 1961年8月
意思決定者(推定) 沼本實 社長
論点 技術導入と事業の柱づくり
概要
1961年8月、日本航空電子工業が米国ハネウェル社と技術援助契約を締結し、F104ジェット戦闘機に搭載するジャイロや自動操縦装置の製造を始めた経営判断。現在の航機事業の基礎にあたる。
背景
会社は1953年の創業以来、米国極東空軍の航空機用電子機器の修理とオーバーホールで技術を覚え、1955年には米国キャノン・エレクトリック社からの技術導入を経てコネクタの自社製造へ移っていた。当時のコネクタ業界は大手でも自主技術で生産できず、外国技術との提携が前提となっていた。
内容
1961年4月に昭島工場を新設移転し5月に本店を渋谷区へ移したうえで、同年8月にハネウェル社と技術援助契約を締結。航空機用自動操縦装置、ジャイロ機器、燃料計、液体酸素量計等の製造を始めた。翌1962年には無接点スイッチとリレー、1963年12月には東海道新幹線向けの電気連結器へ広げた。
含意
導入した技術は10年をかけて自社の中核製品へ育ち、1971年8月の慣性航法装置の製造開始に至った。コネクタ・航機・無接点スイッチという事業の輪郭は、60年以上を経た2026年3月期の報告セグメントとほぼ重なっている。
筆者の見解

導入した技術を、誰の需要に載せるか

1961年の技術援助契約は、独自技術で勝負するという物語からは遠い判断であった。当時のコネクタ業界では大手ですら自主技術で生産できず、外国技術との提携が事業の前提になっていた。そのなかで会社が二度にわたり選んだのは、まず輸入代理や修理受託の位置に身を置き、そこで技術を覚えてから自社製品へ移るという順序である。地味ではあるが、資本も実績も乏しい会社が先端分野に居場所を作る方法としては合理的であったとみることができる。ハネウェル社から入った技術が10年後に慣性航法装置という自社の中核製品へ届いた事実は、その順序が機能したことを示している。

もっとも、導入した技術をどの需要に載せるかは、そのつど選び直されてきた。航空機搭載機器は国の予算に支えられ単価も高いが数量は伸びず、規模を作ったのは民生機器向けのコネクタであった。60年を経た事業構成では、創業の系譜に近い航機が売上の1割に届かず、2027年3月期にはもう一本の柱が独立したセグメントでなくなる。技術の出どころが一つでも、需要の出どころが分かれていれば事業の重みは動き続ける——1961年の選択は、その後の同社が繰り返し向き合ってきた問いを、早い時期に持ち込んだ判断であったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

米軍機の修理から覚えた技術

日本航空電子工業は1953年1月に東京都中央区で設立され、同年8月に商号を現在のものへ改めた。会社が創業と定めるのはこの1953年8月であり、統合報告書の沿革年表は当時の本店を東京都港区の日本電気株式会社内に置いたと記している。翌1954年8月には神奈川県川崎市の日本電気玉川工場内に工場を設け、航空機用電子機器の修理とオーバーホールを始めた。相手は、当時最新鋭の電子機器を最も多く使っていた米国極東空軍である。初代社長の沼本實氏は、トランス1個の修理5ドルという受注から仕事を積み上げ、熾烈な競争のなかで年間契約を得た[1][2][3]

米軍機の修理は、収入であると同時に新技術を習得する手段でもあった。会社は並行して国内外で電子機器の調査研究を進め、航空電子機器のなかで使われるコネクタの重要性と将来性に着目する。まず米国キャノン・エレクトリック社との技術援助契約によってコネクタ類の輸入販売から入り、そこで技術を取得したうえで1955年8月に自社製造へ移った。納入先は当初こそ防衛関係機器が中心であったが、1960年頃には民間企業が主力に入れ替わり、無線通信機、テレビ、ラジオ放送機器、工作機械、電動機へ広がっている。技術は外から導入し、数量は民需で稼ぐ。後年まで反復される型が、創業から7年ほどでかたちを見せていた[4][5][6]

自主技術ではコネクタも作れない業界

1961年、会社は生産と本社の配置を一年のうちに定めた。4月に工場を東京都昭島市へ新設移転し、翌5月には本店を東京都渋谷区へ移している。この二つの所在地は、その後も動いていない。有価証券報告書の表紙が現在も本店を東京都渋谷区道玄坂と記すとおりである。修理受託から出発した会社が、自前の工場と本社を構えて製品を作る体制を整えた段階にあたる。コネクタの自社製造開始から6年、つぎの柱をどこに置くかという問いが、設備の側から先に迫っていた[7][8]

もっとも、当時の電子部品業界で自主技術に頼れる会社は多くなかった。証券アナリストジャーナル1973年2月号に載ったコネクタ業界の分析は、外国技術・外資系企業との関係を一覧に整理したうえで、米国の1位から7位までの会社が全部出ていること、日本側も日本電気、古河電工、住友電工などが並ぶことを挙げている。そのうえで、こうした大メーカーでも自主技術ではコネクタを生産できないとし、日本電気が子会社の日本航空電子工業を設立して技術導入していると書いた。技術は買うものであり、買った先でどれだけ自社の製品へ仕立て直せるかが分かれ目になる。会社が身を置いていたのは、そういう競争であった[9]

決断

ハネウェル社との技術援助契約

1961年8月、会社は米国ハネウェル社と技術援助契約を締結した。これにより、次期主力戦闘機として導入が決まっていたF104ジェット戦闘機に搭載するジャイロや自動操縦装置などの製造を始め、現在の航機事業の基礎を固めている。有価証券報告書の沿革は、この年の製造開始品目を航空機用自動操縦装置、ジャイロ機器、燃料計、液体酸素量計等と記す。修理を請け負ってきた米軍機の装備そのものを、こんどは昭島の工場で作る側へ回った。創業期に手を動かして覚えた技術が、米国メーカーからの正式な技術導入と結びついた段階にあたる[10][11]

提携相手の選定と交渉は、経営者本人が担っている。統合報告書は、沼本氏が自らトップ交渉に臨んで海外大手企業との技術提携を実現し、社長と会長として20年以上にわたり経営を担ったと記す。キャノン・エレクトリック社からコネクタ、ハネウェル社から航空機搭載機器。技術援助契約という同じ手法を6年の間に二度使い、会社は性格の異なる二つの製品群を手に入れた。輸入代理や修理受託という中間の段階を挟みながら自社製品へ変えていく順序は、資本も実績も乏しい会社が先端分野へ入るための現実的な道筋であった[12]

防衛で覚え、民需で数を出す

導入した技術は、防衛と航空の外側へも向けられた。1962年、会社は無接点スイッチおよびリレーの製造を始める。機械的な接点を持たずに信号を切り替えるこの製品群が、後年のインターフェース・ソリューション事業へつながった。翌1963年12月には、翌年の東海道新幹線開業に向けて新たな電気連結器の生産に入っている。航空機のために磨いた接続技術を高速鉄道の車両へ持ち込んだ判断であり、防衛と航空の外側にある大型の国内需要を初めて取りに行った例にあたる[13][14]

こうして1962年までに、会社は性格の違う3本の柱を握った。コネクタは点数が出る部品で、民生機器の普及と数量が連動する。航機は数量こそ出ないものの、防衛・宇宙という国の予算に支えられ、単価と技術の要求水準が高い。無接点スイッチは人と機械の接触面を扱い、のちの車載機器へ延びる。会社自身も、この1962年をもって主力3事業の基盤が確立した年と位置づけている。技術の系譜としては修理受託から続く1本でありながら、需要の出どころは民生・国策・操作系へ分かれた[15]

結果

10年後に届いた慣性航法装置

1971年8月、会社は慣性航法装置の製造を始めた。外部からの電波に頼らず、加速度とジャイロの検出だけで自機の位置を割り出すこの装置は、軍用機と旅客機の双方が積む中核の航法機器にあたる。ハネウェル提携から10年、ジャイロと自動操縦装置で積み上げた技術が、機体を安定させる制御から航法そのものへ届いた。2026年3月期の有価証券報告書も航機事業の内容を、飛行制御装置、慣性航法装置、電波高度計などの防衛・宇宙用電子機器と説明しており、この製品はいまも同事業の主軸に並んでいる[16][17]

事業の広がりは、数字と資本市場での評価にも現れた。1973年4月、会社は東京証券取引所市場第二部へ上場する。同じ1973年度に売上高は130億円へ達し、初めて100億円を超えた。創業から20年での上場であり、沼本会長が経営理念「開拓、創造、実践」を掲げた創立20周年と重なっている。1980年9月には市場第一部へ指定替えとなった。修理受託で始まった会社は、導入した技術を製品に変える20年をかけて、上場企業としての体裁を整えた[18][19]

60年を経た事業構成

2026年3月期のセグメント別売上高は、コネクタ事業1992億円、航機事業204億円、インターフェース・ソリューション事業76億円である。連結売上高2278億円のうちコネクタが約87%を占め、ハネウェル提携から育った航機は1割に届かない。従業員数でも偏りは同じで、コネクタ事業11124名に対し航機事業は422名にとどまる。技術導入で手に入れた航空機搭載機器は、規模の面では主役の座を早くに譲り、そこで培ったジャイロと接続の技術が量産部品の側へ流れ込んだ[20][21]

その3本の柱にも、いま組み替えが入る。2026年度からの中期経営計画は、インターフェース・ソリューション事業をコネクタ事業へ統合し、2027年3月期から報告セグメントを変更する方針を掲げた。1962年の無接点スイッチとリレーにさかのぼる3本目の柱が、独立した事業として数えられなくなる。1961年に定めた事業の輪郭を60年以上ほぼ変えずに運んできた会社が、そこへ手を入れる段階に入ったとみることができる[22][23]

出典・参考

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