DIC米ライヒホールド・ケミカルズとの合弁による日本ライヒホールド化学工業の設立と、合成樹脂への参入

印刷インキ専業のまま伸びるか、外資と組んで合成樹脂へ出るか——増資金の三分の二をどこへ置くかの選択

時期 1952年2月
意思決定者(推定) 川村勝巳(専務、日本ライヒホールド化学工業社長)・川村喜十郎 社長
論点 印刷インキ専業からの多角化と外資提携
概要
1952年2月、大日本インキ製造が米国の合成樹脂メーカー Reichhold Chemicals, Inc. と55対45の出資で日本ライヒホールド化学工業(JRC)を設立し、印刷インキ専業から合成樹脂の製造販売へ参入した経営判断。1950年5月の上場直後に川村勝巳専務が単身で渡米して交渉をまとめ、1962年10月のJRC吸収合併と商号変更まで続いた。
背景
大日本インキ製造は印刷インキの生産量で全国比約14%を占め、業界首位に立っていた。一方、日本の印刷インキは天然油脂を原料としていたのに対し、米国では合成樹脂が使われており、捺染用インキも米国からの輸入に頼るほかない状態にあった。
内容
新会社の資本金は6万ドル(邦貨換算2,160万円)、出資比率は大日本インキ55%・ライヒホールド45%。工場は大阪工場の一部に置き、塗料・印刷インキ・合板・紙類・繊維製品に用いる合成樹脂と特殊顔料の製造を目的とした。1950年8月に決めた3,000万円の増資のうち2,000万円を、この新会社関係に充てる計画であった。
含意
合成樹脂は塗料用・繊維加工用・接着用へ広がり、1962年10月のJRC吸収合併と大日本インキ化学工業への商号変更で本体に取り込まれた。1968年には資本金60億円・従業員5,800人、国内最大で世界第三位の印刷インキメーカーとなった。
筆者の見解

比率に表れた決断

資本金3,000万円の会社が、増資で得る3,000万円のうち2,000万円を、認可もまだ下りていない合弁会社へ振り向けると決めた。印刷インキで全国比14%を握る首位企業が、増資金の三分の二を、まだ一円も売上のない事業に置いた計算になる。原料が天然油脂のままでは米国に追いつけない——渡米前から川村勝巳専務が抱いていたこの見立てに、会社は本業の増産ではなく資金の大半を張った。首位の足場が固かったからこそ、インキの増設を後回しにできた。

合弁そのものは10年で解けた。日本ライヒホールド化学工業は資本金5億円まで育ち、なお50億円以上の投資を求める規模になったところで、米国側が資本負担に耐えられなくなる。降りたのは踏み切った側ではなく、技術を持ち込んだ相手のほうだった。1962年の吸収合併は、合弁が伸びた帰結であると同時に、外資と組む枠組みが事業の伸びに追いつかなくなった結末でもある。社名から「製造」が落ち「化学工業」が入ったのは、その決着の記録である。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

印刷インキ首位という足場

1950年5月に東京証券取引所へ上場した時点の大日本インキ製造は、資本金3,000万円、従業員500人の会社であった。1950年3月期の総売上高は2億5,098万円で、うち印刷インキが1億9,855万円を占めた。印刷インキの生産量は全国比で約14%にあたり、業界第一位である。販売先は大日本印刷ほか全国の印刷会社と、専売公社・印刷庁・鉄道局などの官需先で、いずれも需要先と直結していた[1]

足場は固い一方、原料では米国に後れを取っていた。日本では印刷インキを天然油脂からつくるのに対し、米国では合成樹脂を使っていた。捺染の分野でも差は同じで、戦時中の合成樹脂の進歩と有機顔料の改良によって、米国では印刷技術を織布に応用することが一般に普及していた。日本の捺染界が研究を急いでも、使用するインキは米国からの輸入に頼るほかなかった[2][3]

提携先を探していた相手

合成樹脂に切り替えねばならないと川村勝巳専務が考えていた矢先に、ライヒホールド・ケミカルズ副社長のオコンナー氏が来日し、樹脂技術の提携先を探しているという情報が入った。上場が完了した直後の1950年5月25日、川村専務は羽田から渡米した。ビザは被占領下の日本が発行したもので、旅券番号はまだ三桁の九百番台であった。渡航旅費にも制限があり、秘書も連れない単身の出張である[4]

相手は小さな会社ではなかった。ライヒホールドはデトロイトに本拠を置き、シアトルほか7都市に工場と21の国内支店を構え、9カ国に共同出資会社、39カ国に販売の代表者を置いて合成樹脂・顔料・化学薬品を製造販売していた。資本金3,000万円の印刷インキ会社が、世界に販路を張る化学メーカーと組む交渉である。川村専務はデトロイトの本社と工場のほか、地方都市のインキ工場まで見て回った[5][6]

決断

増資3,000万円のうち2,000万円を新会社へ

交渉は順調に進み、契約原案の交換まで至った。滞米中に朝鮮戦争が勃発し、川村専務は約1カ月後に帰国している。1950年8月の臨時株主総会は、資本金を3,000万円から6,000万円へ倍増させることを決めた。増資3,000万円のうち2,000万円は新会社関係に充てる予定で、大日本インキがこの新会社に必要とする資金は5,000万円ほどと見込まれた。当時の資本金を上回る額である[7][8]

新会社の資本金は6万ドル(邦貨換算2,160万円)、出資比率は大日本インキ55%・ライヒホールド45%と定め、工場は大阪工場の一部に置くことにした。外資委員会には認可申請書を提出し、正式決定を待つ段階にあった。製造の目的は、塗料・印刷インキ・合板・紙類・繊維製品に用いる合成樹脂および特殊顔料である。並んだ五つの用途のうち印刷インキは一つにすぎず、残る四つは既存の販路の外にあった[9]

1952年2月の設立と、その後の3年

1952年2月、日本ライヒホールド化学工業が設立された。資本金2,160万円、大日本インキ55%・ライヒホールド45%という条件は、1950年の申請どおりである。外資との合弁会社としては、旭化成とダウ・ケミカルによる旭ダウに次ぐ二番目にあたった。社長には川村勝巳専務が就いた。父の川村喜十郎社長が大日本インキ本体を率いるなかで、新事業の側は息子が受け持った[10][11]

翌1953年、日本ライヒホールド化学工業は大阪工場の設備を完成させ、塗料用・紙工用・繊維用・合板用の合成樹脂を生産した。合成樹脂の用途は印刷インキの原料にとどまらず、塗料用・繊維加工用・接着剤へと企業化が進んだ。大日本インキ本体の生産販売量も上がり、1955年3月期には11億円の売上を記録している。1950年3月期の2億5,098万円から、5年で4倍を超えた[12][13]

結果

合弁の解消と、社名の書き換え

合弁を解く引き金を引いたのは、事業が伸びたことであった。日本ライヒホールド化学工業の資本金は1960年当時すでに5億円へ増え、その後の工場投資には50億円以上が必要と見込まれた。米国側は増資を重ねる資本負担を重荷と感じ、日本への投資を逐次換金する方針を固めて、保有株を東証一部上場の大日本インキ株へ乗り換えることにした。JRCは1960年11月に株式を店頭公開し、翌1961年11月に東証第二部へ上場している[14][15]

1962年10月1日、大日本インキ製造は日本ライヒホールド化学工業を吸収合併し、新資本金26億円で再出発した。商号は大日本インキ化学工業へ改めている。JRCの名を残すため、樹脂の販売会社として100%子会社の日本ライヒホールド株式会社を新たに設けた。専務にはライヒ系の木村直彦氏が加わっている。好成績を収めた外資合弁が円満に吸収合併された例は少なく、のちの資本自由化のころに珍しい話題となった[16]

印刷インキ会社が化学会社になるまで

合併から6年後の1968年、大日本インキ化学工業の資本金は60億円、従業員は5,800人に達した。事業はインキ、化成品、合成樹脂の三部門を中心に、プラスチック、建材、農薬、石油化学、有機薬品へ広がった。国内で最大、世界では第三位の印刷インキメーカーであり、化学工業界のベスト・テンに数えられている。社章のDICは、Dainippon Ink and Chemicals, incorporated の頭文字から取られている[17][18]

広げる範囲について、川村勝巳社長は枠をはっきり示していた。後年の講演では、「化学工業だけに限定し、その中でも互いに有機的関連を持つ事業の多角化をはかっていこうというのが私のねらい」と述べ、縁のない仕事にまで分散するとかえって弱体化すると説明している。資金と装置を要するベーシックケミカルは財閥系の会社にまかせ、そこから来る原料を製品化する側に自社を置く考えであった。1952年の合弁は、その枠の内側で打った最初の一手である[19]

出典・参考
  • 『証券』1950年 第1巻10号「新規上場会社紹介 大日本インキ製造株式会社」
  • 川村勝巳「私の履歴書」(日本経済新聞社『私の履歴書 経済人20』1986年 所収)
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「塗料」
  • 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「大日本インキ化学工業」
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻11号 川村勝巳「大日本インキ化学工業 特異な技術を生かし高付加価値産業を指向する」(1974年10月25日 日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
  • DIC 有価証券報告書【沿革】

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