古河電工ドイツ・シーメンスとの資本・技術提携による富士電機製造の設立
電線までしか持たない会社が重電機へ伸びるとき、自社の事業部と外資との合弁のどちらを選ぶか
- 概要
- 1923年8月、古河電気工業はドイツのシーメンスと結んだ資本・技術提携契約に基づき、資本金1,000万円で富士電機製造株式会社を設立した。20万株のうち古河が7万株、シーメンスが6万株を引き受け、残りは公募とした。社名は古河の「ふ」とシーメンスの「じ」から採り、初代社長には社外の名取和作 氏を迎えた。
- 背景
- 1920年4月に古河鉱業から日光電気精銅所を譲り受けて発足した古河電気工業は、電気銅から電線までを一貫して手がける体制を整えたものの、電力・通信インフラの本体である重電機と通信機の技術を持たなかった。第一次大戦後の反動不況と古河商事の大連事件で、古河財閥自体が業務を縮小していた。
- 内容
- 交渉は1919年春から1年3カ月ベルリンに滞在した稲垣平太郎 氏が始めた。シーメンスが日本で最初に発電機を売った相手が古河であった縁を頼り、仮調印まで進んだところで大連事件とドイツ政府の海外投資禁止に阻まれる。その後、交渉主体を古河合名から古河電気工業へ移し、1921年6月の契約と1922年6月の最終覚書を経て設立に至った。
- 含意
- 富士電機製造は1935年6月に通信機部門を富士通信機製造(現・富士通)として分離し、古河電工は1939年3月に日本軽金属、1950年4月に日本ゼオンと、外資と組んだ別会社を建てる型を繰り返した。生まれた会社が伸びる一方、古河電工本体は1955年3月期でも販売額の62.3%を電線電纜が占めていた。
作らずに、建てた
重電機を自社の一事業部として起こす道は選ばれなかった。古河電工が採ったのは、資本金1,000万円の別会社を建て、20万株のうち7万株を自社が、6万株をシーメンスが持ち、残りを公募に委ねる形であった。技術も特許も外から丸ごと入れ、経営は社外の名取和作 氏に託している。第一次大戦後の不況で古河合名も古河電工も自力で資金を出しきれなかった事情が、結果として外部の資本と人材に開いた会社を作らせたとみられる。
ただ、この作り方は古河電工自身に果実を残さなかった。富士電機製造は1935年に通信機部門を富士通信機製造として手放し、それが後の富士通となる。1939年の日本軽金属も1950年の日本ゼオンも同じ手順で生まれ、いずれも本体とは別の会社として育った。1955年3月期の古河電工の販売額68億9,000万円のうち、なお62.3%は電線電纜であった。新事業を外へ出す型は、本体を電線の会社のまま置いていったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
電線までしか持たない会社
1920年4月、古河電気工業は古河鉱業から日光電気精銅所の土地建物と機械設備一切を価格500万円の現物出資として受け、資本金2,000万円で発足した。粗銅の電気分解から非鉄金属の圧延加工、裸線、各種被覆線、電纜の製造までを一貫して行える体制が整い、電池その他の付属品も手がける総合経営の姿になった。ただし、その一貫はあくまで銅の加工までであった[1]。
電線が運ぶ先にある発電機や電動機、電話の交換装置は、当時の日本ではなお外国製に及ばなかった。古河電工の側でも、日本の電機器具の製造が諸外国に比べて劣ることを認めたうえで、その向上と電気通信事業の発展を見込んで手を打つ必要があると考えていた。そこへ第一次大戦後の反動不況が重なる。古河商事が大連で大豆かす相場に投機して大損害を出し、古河合名も古河商事も業務を縮小していた[2][3]。
ベルリンに飛んだ駐在員
提携を持ち込んだのは、当時三十歳前後の稲垣平太郎 氏であった。1919年春から1年3カ月、稲垣 氏は古河本社に無断でベルリンへ渡り、チアーガルテン近くに事務所を構え、コルンドルフというドイツ人技師を高給で雇って交渉にあたった。狙いをシーメンスに定めたのは、シーメンスが日本で最初に発電機を売った相手が古河であった縁による。その発電機を納めたヘルマン・ケスラー 氏を通じて話は進んだ[4]。
シーメンス側の答えは早かった。敗戦国のドイツ企業には単独で海外へ出る力がなく、日本に工場を作って一緒にやる話は歓迎された。1919年のうちに日本から技術者が来て研究を始め、仮調印の一歩手前まで進む。ところが古河商事の損害でドイツ政府の海外投資禁止が重なり、年内の調印はできなくなった。日本から来ていた技術者二人は、将来を期していったん帰国した[5]。
決断
交渉の相手を古河合名から古河電工へ移す
1920年にシーメンスの代表三人が来日したものの、古河合名も古河商事も自らの縮小に追われていた。この件に熱心であった古河合名の吉村萬治郎 氏は、古河電気工業専務の中川末吉 氏に頼み、同社で交渉を進めて新会社の設立まで持っていくよう求めた。中川 氏が引き受けたことで、以後はシーメンスの交渉相手が古河電工になる。財閥本体が退き、電線会社が矢面に立つ形であった[6]。
1921年6月、古河電気工業とシーメンスは、シーメンスが持つ技術と特許の一切の供与を受ける契約を結んだ。翌1922年6月には最終覚書を交換している。重電機を自社の一事業部として起こすのではなく、外資と資本を持ち合う別会社を建て、そこへ技術と特許を丸ごと入れる。古河電工が選んだのはこの形であった[7][8]。
株を集められる人を社長に迎える
1923年8月、資本金1,000万円で富士電機製造株式会社が設立された。20万株のうち古河が7万株、シーメンスが6万株を引き受け、残りは公募に回した。社名は古河の「ふ」とシーメンスの「じ」を取り、富士が日本の霊峰であることから富士電機とした。商標もFとSを組み合わせている。名づけの由来がそのまま、二社が半分ずつ持ち寄った会社であることを示していた[9][10]。
公募に回した株は容易に埋まらなかった。第一次大戦後の不況で引受手が少なく、古河合名も古河電気工業もそれ以上は負担できない。そこで古河虎之助 氏は三井の池田成彬 氏を通じて名取和作 氏に出馬を請い、経営を一任した。株を集められることが社長の条件であった。会社が実際に動き出したのは9月1日、関東大震災の当日である。富士電機はいまも1923年9月を創立の時期として記している[11][12][13]。
結果
別会社が別会社を生む
富士電機製造は1925年にシーメンスから電話交換装置の輸入と販売を引き継ぎ、1928年に装荷線輪、1930年に局線中継台と電話機の国産化へ進んだ。1933年4月には川崎工場内に電話工場を建て、自動交換装置の製造を始める。需要の伸びに合わせ、1935年6月20日、この部門を分離して資本金300万円の富士通信機製造が設立された。後の富士通である[14]。
外資と組んで別会社を建てる形は、その後も繰り返された。1939年3月にはアルミニウム電線の原料を確保するため、政府の支持も受けて東京電灯と提携し日本軽金属を設立する。1950年4月には、1917年10月の横浜護謨製造に続いて米グッドリッチと組み、日本ゼオンを創立した。1956年の原子力グループ結成にあたって旧古河系として名を連ねたのは、富士電機製造・富士通信機製造・古河電気工業・古河鉱業・旭電化工業・日本軽金属・横浜護謨製造の七社であった[15][16]。
生んだ会社と、残った本体
生まれた会社の道のりは平坦ではなかった。富士電機製造は建築材料も機械設備も一切をドイツから輸入して川崎工場を建て、1925年4月に第一期工事を終えたものの、その上期から毎期の損失を重ねた。芝浦・日立・三菱・明電舎が競う市場で、名の知られない新会社の売り込みは難しい。50円額面の株は一時10円台まで落ち、1930年と1931年には二度の人員整理と減給に踏み切った[17][18]。
三十年余りを経た1955年3月期、古河電工の販売額は68億9,000万円で、うち電線電纜が62.3%、非鉄金属製品が33.2%を占めた。生んだ側は電線の会社のままであった。同じころ富士電機製造は資本金15億円、六工場に従業員7,000人を抱え、1954年度の売上高は102億円に達している。子会社として出発した会社が、規模で親を超えていた[19][20]。