アズビル米ハネウエルとの50対50の資本提携と、工業計器・空調制御機器・マイクロスイッチの包括技術導入
技術を採るために経営権を渡すか、対等にこだわるか——51%を求めた相手との交渉
- 概要
- 講和条約が発効した1952年、山武計器の山口社長は渡米し、ミネアポリス・ハネウエル・レギュレーター社と工業計器の技術提携交渉に入った。ハネウエル側は山武株式の51%取得を求めたが、山口社長は対等でなければ共同経営にならないとして50対50を主張し、これが通った。資本提携は1953年1月に成立した。
- 背景
- 山武商会は戦前から米ブラウン・インストルメント社の計器を国産化していたが、戦争で契約は途切れ、ブラウン社はハネウエルに吸収されていた。戦後は工作機械の製造を断念し、1949年8月に企業再建整備法の第二会社として山武計器を設立して計器専業で再出発した直後であった。
- 内容
- 山武はハネウエル型製品を製造販売し、あわせて空調用制御機器・マイクロスイッチ・バルブの販売権も得た。授権株のうち24万株を発行してハネウエルに渡し、売上高の12%(のち日本政府の認可条件で10%)を技術援助料として支払い、取締役2名をハネウエルが選出する契約であった。
- 含意
- 工業計器の単品メーカーだった山武は、空調制御機器とマイクロスイッチという未経験の二分野を同時に抱え込んだ。1961年3月末には工業計器が売上の56.0%まで下がり、総合オートメーション機器メーカーへの姿が数字に表れた。50%の出資は1990年3月まで維持された。
対等という条件の値段
この提携を戦後の技術導入の一例として読むと、芯を外すことになる。山口社長は51%の提案に対し、累積投票でものを決するような経営では好ましい提携関係にならないと述べて50対50を通した。技術を採るために経営権を渡す道もあったところで、対等の資本構成を条件として先に置いたことになる。しかも同時に、経験が皆無だと相手が渋る空調制御機器とマイクロスイッチまで包括契約に押し込んでいる。すぐには作れなくとも輸入して売るだけなら何とかなるという発想は、輸入商から出発した会社の順序をよく表しているとみられる。
もっとも、対等は形の上のものでもあった。ハネウエルは50対50に同意しながら、山口社長の死後は同社が実施権を握る旨の私契約を別に求めており、支配の担保を裏で取ろうとしていた。この私契約は相互理解が進むにつれて有名無実となり破棄されたが、出発点の対等が最初から安定していたわけではないことを示している。50%の資本関係は1990年3月に24.15%へ下がるまで続き、その間に山武は輸入品の代売から空調制御機器の国産化へ進み、工業計器が売上の半分強にまで下がる製品構成を手に入れた。対等にこだわった意味は、提携が終わったあとに独立して立てるかどうかで測るほかない、といえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
途切れた技術の導入路
山武商会は1932年の株式会社改組とほぼ同時に、米ブラウン・インストルメント社の計器の組立に着手していた。1933年には大森の敷地に計器製作所を構え、1939年4月には大田区西六郷に計器の専門工場を建てて国産化を本格化させている。ところが戦後、主力の大森工場が工作機械工業の賠償指定工場とされたため工作機械の製造を断念し、1949年8月、企業再建整備法による第二会社として山武計器を設立して再出発した[1][2]。
再出発した山武計器の規模は小さい。1949年9月期の売上高は0.07億円、三年後の1952年9月期でも3.43億円にとどまっていた。頼みの技術源であるブラウン社は戦時中にミネアポリス・ハネウエル・レギュレーター社に吸収され、戦前の契約関係は宙に浮いたままであった。占領下では対外契約を自由に結べず、山口社長は講和条約の発効を待つほかなかった[3][4]。
決断
計器だけの契約にしない
1952年4月28日に講和条約が発効すると、山口社長は直ちに動いた。同年5月に渡米し、6月には小林英一常務取締役が合流して、ミネアポリスの本社で交渉が始まった。現地で二人が目にしたのは予想と違う会社の姿であった。ハネウエルの主力は制御機器の製造にあり、空調および燃焼制御機器やマイクロスイッチが大きな比重を占め、その米国市場での伸びは当時の日本から想像もつかなかった[5][6]。
山口社長は工業計器だけの部分契約を退け、全製品を網羅する包括契約を求めた。壁は二つあった。山武には空調制御機器とマイクロスイッチの経験が皆無で、ハネウエル側も簡単には任せられない。加えて三菱商事系の日本オートマチック・コントロールズ社が同分野の国内販売を希望し、仮の代理権をすでに取り付けていた。山口社長は、すぐには作れなくとも輸入して売るだけなら何とかなると考え、フルブライト留学生まで人選の対象にして受入れ体制づくりに動いた[7][8]。
51%の提案を退ける
提携の大筋が固まると、ハネウエル側は制御機器の全部門を渡す条件として山武の株式保有を申し出た。当初の提案は51%である。ノウハウを渡す以上コントロール・パワーを持たなければならないというのが相手の考えであった。これに対し山口社長は、累積投票でものを決するような経営では好ましい提携関係にならない、共同で経営を考え喜びも悲しみも分かち合える関係は対等でなければならないと述べ、50対50を強く主張した[9][10]。
結局、ハネウエルが50%を保有することで双方が合意した。契約は、山武がハネウエル型製品を製造販売し、空調用制御機器・マイクロスイッチ・バルブの販売も行なうという内容で、授権株のうち24万株を発行してハネウエルへ引き渡し、ハネウエル型製品の売上高の12%を技術援助料として支払う。この率は日本政府の認可条件でのちに10%へ改められた。有効期間は1952年4月1日から6年間、取締役2名をハネウエルが選出する。有価証券報告書の沿革は、資本提携の成立を1953年1月としている[11][12]。
結果
工業計器一本からの脱却
提携により山武は制御機器とマイクロスイッチを製造販売品目に加えた。売上高は1952年9月期の3.43億円から1955年9月期には6.00億円へ伸び、1956年7月には商号を山武ハネウエル計器へ改めている。ただし空調制御の納入品は調節弁などを除きほとんどが輸入品で、当時は外貨が乏しく輸入許可も受けにくかった。国産化が急がれ、1959年6月に蒲田工場でモジュトロールモータの生産が始まり、これが空調制御機器で最初の国産品となった[13][14]。
提携から八年後の姿は資料に残る。1961年3月末時点でミネアポリス・ハネウエル・レギュレーター社は700万株・50.0%を持つ筆頭株主で、従業員は1,679人。1960年10月から1961年3月までの半期売上高23億4,896万円の内訳は、工業計器56.0%に対し、調節弁14.5%、制御機器および同用調節弁14.4%、マイクロスイッチ5.4%であった。計器一本の会社ではなくなっている。50%の出資はその後も長く続き、1990年3月に24.15%へ下がるまで維持された[15][16]。
- 山武ハネウエル七十五年史(山武ハネウエル, 1982)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 株式会社年鑑 昭和37年版(1962年)「山武ハネウエル計器」
- アズビル 有価証券報告書【沿革】