1932年の山武商会は、売掛金と在庫で18万円、営業権を12万円と見積もってようやく資本金30万円をひねり出した会社で、負債は棚上げしたまま安田銀行の管理下にあった。組立に踏み切るにも念証に従って銀行の了承が要り、最初の作業場は八重洲ビル3階の事務室、初回の納入は計6,133円分である。作る力を持たない商社が、扱ってきた商品の割高さを自分で埋めにいった判断であったと思われる。
もっとも、この時点で自前になったのは組立の工程だけであった。主要な部分はブラウン社から輸入し、一部を外注と内地材料でまかなう体制で、設計と技術は借りたままである。同じ時期に手をつけた整流器も硬度計も、船舶用速度計も浸炭剤も収益源にはならず、残ったのは需要と評判が先にあったブラウン計器だけであった。選び抜いたというより、残ったものに経営資源を集中した形に近い。借りた技術をどう自分のものにするかという課題は、戦後にブラウン社を吸収した相手との交渉へ持ち越された。