アズビル輸入商から計器メーカーへの業態転換と、大森への山武商会計器製作所の開設
割高な輸入計器を売り続けるか、自ら組み立てるか——為替下落と借入金に追われた商会が採った道
- 概要
- 1932年11月、株式会社に改組したばかりの山武商会は、八重洲ビル3階の本社の一室に材料を運び込んで米ブラウン社の計器の組立を始めた。翌1933年4月20日、買収を予定していた大森製作所の敷地に計器工場が完成し、これを株式会社山武商会計器製作所と呼称した。工作機械の輸入商がメーカーへ変わった時点である。
- 背景
- 第1次大戦以降に打った手が資金を食いつぶし、1923年から1925年にかけて借入金の利息は経費全体のおよそ2割を占めていた。為替の下落で輸入機械は割高となり、1932年7月には安田銀行の援助を受けて資本金30万円の株式会社へ改組したばかりであった。
- 内容
- ブラウン社の計器を未完成品で輸入し、主要部分は同社から仕入れ、一部を外注と内地材料でまかなって国内で組み立てる方式を採った。最初の組立は八重洲ビルの事務室で行われ、東洋バブコック向けほか計6,133円分であった。
- 含意
- 1936年には日本石油の要望に応じて調節弁を国産化し、秋田製油所へ第1号を納入した。1939年4月には大田区西六郷に計器の専門工場を建ててブラウン計器の本格国産化へ進み、財務も1939年に旧債務の返済を終えている。
商社が工場を持つとき
この転換を、輸入商が製造業へ育っていった話として読むと肝心なところが抜け落ちる。1932年の山武商会は、売掛金と在庫で18万円、営業権を12万円と見積もってようやく資本金30万円をひねり出した会社で、負債は棚上げしたまま安田銀行の管理下にあった。組立に踏み切るにも念証に従って銀行の了承が要り、最初の作業場は八重洲ビル3階の事務室、初回の納入は計6,133円分である。作る力を持たない商社が、扱ってきた商品の割高さを自分で埋めにいった判断であったとみることができる。
もっとも、この時点で自前になったのは組立の工程だけであった。主要な部分はブラウン社から輸入し、一部を外注と内地材料でまかなう構えで、設計と技術は借りたままである。同じ時期に手をつけた整流器も硬度計も、船舶用速度計も浸炭剤も柱にはならず、残ったのは需要と評判が先にあったブラウン計器だけであった。選び抜いたというより、残ったものに賭けた形に近い。借りた技術をどう自分のものにするかという課題は、1939年の蒲田工場を経て、戦後にブラウン社を吸収した相手との交渉へ持ち越されたといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
借入金に追われた輸入商
山武商会は1906年12月、山口武彦が東京市京橋区五郎兵衛町の洋服店の1階を借り、「欧米機械工具直輸入」の看板を掲げて始めた商社であった。開店当初は本人のほかに社員1名と補助員1名という小世帯である。ところが第1次大戦以降に打った手はいずれも資金を食いつぶし、売上が伸びない、多量の不良在庫を抱える、借入金が増えて金利が利益を圧迫するという三つの問題が重なった[1][2]。
1932年7月1日、山武商会は株式会社に改組した。出資に充てる現金がなく、売掛金と売れ残った在庫で18万円、営業権という無形財産を12万円と評価して資本金30万円としている。負債はいったん棚上げし、新会社が引き継いで順次返済する方法を採った。安田銀行の特別の援助で現金をまったく動かさずに再出発できた代わりに、同行の管理色は強まり、設立に際して念証を差し入れている[3][4]。
決断
売ってきた商品を自分で作る
輸入品の国産化そのものは以前から検討されていた。米ファンスチール社の整流器はおそらく外注によって国産化し販売しており、ブラウン商品やショワーの硬度計の組立ても小規模ながら手がけていた。サルログ社の船舶用速度計は潜水艦用として海軍部内の関心が高まり契約交渉まで進んだが双方合意に至らず、ドイツのホートン社の特許による浸炭剤の計画も実現しなかった。いずれも1932年前後数年の試みで、残ったのがブラウン商品であった[5]。
ブラウン社から輸入した計器は優秀で業界の注目を集め、需要も伸びていた。ただし為替レートと関税の関係で割高という印象はぬぐえない。そこで未完成品を輸入して国内で組み立てる方法が検討された。株式会社改組からまもなく、念証に従って安田銀行の了承を得たうえで組立に着手する。主要な部分はブラウン社から輸入し、一部は外注、一部は内地材料でまかなうという構えであった[6]。
事務室の一室から大森の工場へ
1932年11月、材料は入荷して準備がまったく整ったところで、持ち込むべき工場がないことに気づく。やむを得ず八重洲ビル3階の本社の一室に材料を運び入れ、そこで組立を行なった。最初に組み上がったのは東洋バブコック向けパイロメータ1,683円、住友伸銅鋼管向けパイロメータ1,500円、大阪府工業試験所向けコントローラ2,950円の計6,133円分である。事務室を組立工場にしたままでは、その後に起こり得る需要へ応じられなかった[7]。
そこで、そのころ買収を予定していた大森製作所の敷地内に計器の組立工場を建てることにした。1933年4月20日に計器工場が完成し、これを株式会社山武商会計器製作所と呼称している。社史はこの時点をもって、工作機械輸入商から工作機械および計器の製造販売を行なうメーカーへ変身したと記している。有価証券報告書の沿革が1932年7月の株式会社改組と工業計器の組立開始を同じ行に置くのは、八重洲ビルでの組立着手を指している[8][9]。
結果
計器メーカーとしての足場
1933年には大森機械製作所を吸収合併して大森工場とし、工作機械類の製造にも着手した。計器の側では、日本石油から計器だけでなく調節弁の国産化を強く要望され、その要請に応じて国産化に成功、1936年に第1号を日本石油秋田製油所へ納入している。輸入品を置き換える段階から、国内の顧客の求めに応じて品目を増やす段階へ移っていた[10][11]。
財務も並行して立て直った。1937年2月の初の増資で資本金は60万円となり、増資分30万円は安田銀行の旧債務の一部を振り替えて同行子会社の丸ノ内興業が新株を引き受け筆頭株主となっている。1938年8月には倍額増資で120万円とし、この時に初めて現金による払込みがなされた。1939年には旧山武商会時代の負債を含む旧債務の返済を完了する。同年4月には大田区西六郷に計器の専門工場を建て、ブラウン計器の本格国産化へ進んだ。このブラウン社は戦時中にミネアポリス・ハネウエル・レギュレーター社へ吸収され、戦後の技術提携の相手となる[12][13]。
- 山武ハネウエル七十五年史(山武ハネウエル, 1982)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- アズビル 有価証券報告書【沿革】