村田製作所村田昭の部品専業化:原料と生産設備の内製化による垂直統合の構築と、完成品分野への不参入
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- 概要
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碍子屋の息子であった村田昭氏が1944年10月に京都で始めた町工場が、原料の調合から成形・焼成・加工まで自社で握り、生産設備まで社内で開発する体制を組み上げ、完成品分野には出ないと決めた一連の判断。1950年12月の株式会社化を境に、部品専業のまま高い収益を残す型が固まった。
- 背景
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三菱電機伊丹製作所の協力工場として通信機用のチタン酸化物セラミックコンデンサ(チタコン)を焼くところから始まった。1945年の終戦で軍需が消え、1946年ごろにラジオのスーパーヘテロダイン化で民需のチタコン需要が立ち上がると、主力を軍需から民需へ移した。
- 内容
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創業まもないころ、外部から買った原料の不純物で不良品が続出し、4カ月近い生産中止に追い込まれた。この経験から原料を内製へ切り替え、京都大学の教授の協力で社内に検査装置を設けた。生産機械も社内の機械部で開発し、完成品メーカーへの転業は一切考えないと決めた。
- 含意
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セラミックフィルターは世界シェア約80%、セラミックコンデンサーは生産量世界一となり、1984年3月期は売上高1,077億円・経常利益115億円の予想を掲げた。昭氏は 『家電メーカーは部品の価格は知っていてもコストは御存知ない』 と語り、一貫生産が価格交渉の土台になっていた。
値段で競わないと決めた一線
昭氏が創業から通して守ったのは、値段で競わないという一線であった。原料を外から買わない、生産機械も自分で作る、完成品には出ない——三つはいずれも、他社と同じものを安く作る競争から降りるための手であった。不良品の続出という品質の失敗から始めた一貫生産が、結果として価格の交渉力になった順序に、この会社の型がよく出ている。
ただ、この型には払うものもあった。深く狭く掘る方針は、そこに収まらない技術者を引き止められず、去った人材の多くが京セラへ移って競合の製品を生んだ。中央研究所を畳んで開発を生産部門へ配った選択も、10年ほどで種を播く場所の不足となって戻ってきた。1本1円60銭の部品で経常利益率20%を求めた昭氏の要求水準は、社内に緊張を強いる代わりに、値下げを前提とした部品業で利益を残す仕組みを残したとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
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- 証券アナリストジャーナル 1985年 第23巻第4号(村田昭氏講演要旨)
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