リンナイ独シュバンク社との技術提携による赤外線ガスバーナー事業への参入

年商の2割にあたる特許料を払って外国の燃焼方式を買うか、自前で追いつくのを待つか

時期 1957年12月
意思決定者(推定) 林兼吉 社長
論点 中核技術の外部導入と内製化
概要
1957年12月、株式会社林内製作所(現リンナイ)がドイツのシュバンク社と技術提携し、赤外線ガスバーナーの製造販売を開始した経営判断。この応用によりガスストーブや各種焼物器を開発し、シュバンク式ガス赤外線ストーブを国内で初めて商品化した。
背景
前身の林内商会は1920年の創設以来ガステーブルコンロやガスレンジをガス会社へ納めてきたが、燃焼そのものの先端技術は欧米の専業メーカーに偏っていた。戦後の都市ガス普及で需要が立ち上がる一方、器具を組み立てて売る商いでは中身での差がつきにくかった。
内容
支払った特許料は2億円で、当時の年間売上高は10億円に満たなかった。買ったのは赤外線燃焼方式そのもので、ストーブへの組み込みや加工は自社技術で埋めている。1959年には中核部材のセラミックプレート量産化に国内で初めて成功した。
含意
1960年にはシュバンク式ガスバーナーで日本ガス協会の太田賞を受け、1963年のグリル搭載コンロ、1971年の業界初ガス高速レンジへと技術系譜が続いた。2022年の水素100%燃焼まで、リンナイの製品史は燃焼制御という一点で連なっている。
筆者の見解

2億円を払った人と、その先を引き受けた人

2億円という特許料の額に、この決断の性格が出ている。年商が10億円に届かない会社が、まだ売れる保証のない燃焼方式の使用権にその2割を払った。踏み切ったのは林兼吉社長であり、後年その額をきつかったと振り返ったのは、当時まだ技術側にいた内藤明人氏であった。買う範囲は狭く切られている。燃やし方の原理だけを買い、ストーブへの組み込みも加工も自社に残した。払える限界と、払う必要のない範囲の見極めが、同じ場面で下されていたとみられる。

もっとも、外国から技術を買うこと自体は、1950年代の日本の製造業に広く見られた選択であった。リンナイの場合に後まで残ったのは、契約の中身よりも、そこからの九年で技術を担う側が経営を担う側になったことである。燃焼技術の開発を受け持ってきた内藤家から内藤明人氏が1966年に社長へ就き、翌年には技術センターを置いて開発と商品化を二段構えにした。買った方式を製品に仕立てる部分は自前で埋めるという1957年の前提が、人と組織の形で据え直されている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

戦前から続くガス器具屋が持たなかったもの

リンナイの前身である林内商会は1920年に名古屋で創設され、1923年にはガステーブルコンロやガスレンジを全国のガス会社へ納入し、輸出も始めていた。戦時下には軍の監督工場として航空機部品を手がけ、1940年に林内航空機製作所へ改称している。戦後は1947年に本社の工場を再建してガス器具へ戻り、1950年9月、名古屋市中川区福住町において資本金100万円の株式会社林内製作所として法人の形を整えた。商いの歴史は長かったものの、事業の中身はガスを燃やす器具を組み立てて売るところにとどまっていた[1][2]

戦後復興期の日本では、都市ガスの整備と歩調を合わせてコンロや湯沸器の需要が立ち上がりつつあった。林内製作所は1954年8月に東京営業所、1956年に大阪営業所を開き、名古屋の一工場から全国の販路へ手を伸ばしている。ただし販路が広がるほど、ガス会社のブランドを通して売られる棚で何を売り物にするかが問われた。器具の中身で差がつかなければ、残るのは価格の勝負であった[3]

燃焼技術が欧米に偏っていた時代

当時のガス器具は、燃焼にかかわる技術の源流が欧米に集中していた。後年リンナイの社長が日経ビジネス誌上で述べたところでは、第二次世界大戦前の米欧にはガス給湯器の強大な専業メーカーが数多く並び、戦後はその多くが合併・吸収によって大グループの傘下へ入っている。ドイツのユンカースはボッシュの一翼となり、米キャロリックはミサイルも手がける米レーションに吸収された。燃焼技術の蓄積が大陸の側に厚く、戦後日本のガス器具メーカーはその条件から出発していた[4]

提携相手となるシュバンク社も、その系譜に連なる企業であった。同社はギュンター・シュバンクが1933年にアルザス地方のフェガースハイムで創業し、1939年にガス赤外線放射器の特許を得て、1951年に量産へ移っている。最初の海外子会社を置くのは1970年であり、1957年の時点では本国での量産開始から6年、対外展開に踏み出す手前にいた。極東の中小メーカーが取りに行った先は、欧州でも新しい部類の燃焼方式を持つ会社であった[5]

決断

年商の2割にあたる特許料

1957年12月、林内製作所はドイツのシュバンク社と技術提携し、赤外線ガスバーナーの製造販売を始めた。この応用によってガスストーブや各種焼物器を開発しており、商品化されたシュバンク式ガス赤外線ストーブは、同社の技術年表に国内初として記録されている。創業時から内藤家が燃焼技術の開発を、林家が生産と経営を担う役割分担が定着しており、外から技術を入れる判断は前者の領分に属していた[6][7]

この提携で林内製作所が払った特許料は2億円であった。1979年の日経ビジネスによれば、当時の年間売上高は10億円にも満たない。年商の2割にあたる額を、まだ売れる保証のない燃焼方式の使用権に投じた計算になる。同誌で内藤明人社長は「パテント料はたしかにきつかったが、技術的に画期的なもので、どうしても欲しかった」と語っている。なお同記事は提携の年を昭和29年と記しており、公式沿革および有価証券報告書が示す1957年12月とは開きがある[8]

買ったのは燃やし方の原理だけであった

対価を払って手に入れた範囲は、意識して限られていた。日経ビジネスの取材に対し、シュバンク社が持っていた技術は赤外線燃焼方式であって、それをストーブに組み込む技術や加工技術は自社のものである、と説明している。買ったのは燃やし方の原理で、製品に仕立てる部分は自前で埋める前提に立っていた。多額の特許料を払いながら、完成品の輸入販売や組み立ての受託ではなく製造販売の権利を取りに行ったところに、この提携の性格が表れている[9]

その前提は2年後に形になった。1959年、林内製作所は赤外線バーナーの中核部材であるセラミックプレートの量産化に国内で初めて成功し、発明協会から会長特賞を、名古屋通商産業局から局長賞を受けている。シュバンク社は今日でもセラミック製バーナータイルの主要メーカーとされる企業で、その心臓部を自社の生産技術で作れるようにした意味は小さくない。提携は使用権の借用から、自前の製造基盤を伴うものへ移った[10][11]

結果

受賞と、生産・開発体制の整備

1960年、林内製作所はシュバンク式ガスバーナーにより日本ガス協会から太田賞を受け、あわせて発明協会賞も受けている。業界団体の評価を得た同じ年の12月、愛知県尾張旭市に旭工場を新設した。1964年10月には丹羽郡大口町に大口工場を、1967年9月には同じ大口町に技術センターを置き、創業から17年で本社と3つの拠点が中京圏に揃っている。導入した燃焼方式を製品へ仕立てるための生産と開発の体制が、この10年で組み上がった[12][13]

製品の側でも技術は広がった。1963年にはガステーブルコンロへのグリル搭載を業界に先駆けて実現している。1966年に内藤明人氏が社長へ就任すると、翌1967年に技術センターを新設して研究開発体制を一本化し、長期の視野で流体熱技術を研究する開発設計部門と、その成果を商品へ反映させる技術部門の二段構えを敷いた。1979年の時点で両部門の人員は200人を超え、社員全体の1割以上を占めている[14][15]

燃焼制御という一点に残ったもの

赤外線燃焼から始まった技術の系譜は、その後の主力製品へ続いた。エレクトロニクス化の波に合わせて1971年に業界初のガス高速レンジ(商品名コンベック)を開発し、1977年秋にはマイコンを内蔵したガスレンジを出している。1978年3月期の売上高は414億円、従業員は2,200人。世界50カ国にガス器具を輸出し、米国やブラジルなど10カ国に現地法人を構える体制へ育っていた。年商10億円に満たない会社が2億円を払った20年後の姿にあたる[16]

提携から65年を経た2022年5月、リンナイは家庭用給湯器において世界で初めて水素100%燃焼の技術開発に成功したと発表している。都市ガスから水素への燃料転換が視野に入るなかで、燃やす対象が変わっても燃やし方の制御で応える構えは変わっていない。1957年に借りた燃焼方式は、セラミックプレートの内製、電子制御部品の内製、そして水素燃焼へと続く道筋の最初に置かれている[17]

出典・参考

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