ダイキン の歴史

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創業 1924年
創業者 山田晃
創業地 大阪市
創業
1924年、大阪砲兵工廠の元工場長であった山田晃氏が40歳で官を辞し、大阪の難波新川に従業員15名未満の合資会社大阪金属工業所を設立した。飛行機用ラジエーターチューブの製造から始めたものの事業は伸びず、工廠時代の元上司の推挙で陸軍指定工場となって砲弾の量産受注を得る。1933年には技術顧問の太田十男氏が米海軍潜水艦への新冷媒採用の記事に着目してフロン研究を進言し、約2年後の1935年末に国内初のフロン生産へこぎつけた。1934年2月には住友金属の出資を受けて資本金100万円の大阪金属工業株式会社を設立し、この日を創業日と定めている。砲弾の金属加工と冷媒の化学を一社で持つ構成は、戦前のうちに出来上がった。
決断
多角化をやめた年から、買収の対象が事業ではなく販路に変わった。1952年、終戦で軍需を失って無配に転じた会社は米軍から81ミリ迫撃砲弾を受注し、その資金を砲弾の増産ではなく冷凍機と空調へ投じた。1994年6月に社長へ就任した井上礼之氏は3期連続赤字の商品から撤退し、ロボットと医療を縮小して空調への集中投資へ切り替え、売上4,000億円弱の会社を空調一本にした。以後の買収は販売網へ向かう。1998年からドイツ・フランス・イタリアなど欧州主要国の現地販売会社を次々に取得し、2006年にはマレーシアのOYL社を約2,460億円で、2012年には北米住宅用で首位のGoodman社を約2,960億円で取得した。気候も商習慣も国ごとに違う空調では製品を持ち込むより売る会社を取得するほうが早く、この判断が30年で売上を4,000億円弱から5兆円へ広げた。
現況
売上5兆円を達成した会社が、利益率と資本効率を株主から問われている。2026年3月期の連結売上高5兆150億円のうち空調・冷凍機が4兆6,211億円で92%を占め、化学は2,815億円の6%にとどまる。全社の営業利益は4,150億円、利益率は8.3%であった。2025年度を最終年度としたFUSION25は営業利益率で目標を2.7ポイント、ROEで2.9ポイント下回って終わり、2024年5月には井上礼之氏が退任し竹中直文氏が社長に就任している。2026年4月に米エリオットが株式の約3%を取得して1兆円規模の自社株買いを求めると、翌月のFUSION30で2028年度に営業利益率10%・ROE12%の必達目標を掲げ、約10年ぶりとなる3,500億円の自社株買いを決めて翌日実行した。買収と設備投資を先に置いた資本配分が、規模の大きさをそのまま資本効率の問いに変えた。
競合
競争は空調機の性能より、どの冷媒が標準になるかで起きた。2011年、ダイキンは微燃性冷媒R32の特許を無償開放し。地球温暖化係数が従来のR410Aの約3分の1であるR32は規制の強まる各国で採用が広がり、自社製品をその規格の側に置いた。販路の作り方は国ごとに違う。1995年に上海のミシンメーカーとの合弁で中国へ入ったときは、現地空調メーカーとの合弁を先行する米キャリア社に取られており、400社以上がひしめく家庭用を避けて業務用の高価格帯へ集中した。設計施工から保守まで一貫して請ける体制が官公庁とオフィスで評価され、欧州でも現地販売会社を取得して同じ業務用から入った。北米の住宅用だけはダクト式が主流で販路を持てず、2012年の買収まで届いていない。冷媒で規格を先に取っても、それを載せる販売網は国ごとに買収するほかなかった。

創業ストーリー 軍需企業から空調メーカーへの戦略的転身 (1924年〜)

砲兵工廠出身者が築いた軍需ベンチャーの出発点

1924年に大阪砲兵工廠の元工場長であった山田晃が40歳で官を辞して独立[1]し、従業員15名未満の合資会社大阪金属工業所を大阪の難波新川に設立した[2]のがダイキン工業の源流となった[3]。工廠時代の蓄積を活かして事業を開始した創業期は飛行機用ラジエーターチューブの製造から始まった[4]が、事業は思うように拡大せず苦しい船出が続くこととなった。工廠時代の元上司の推挙によって陸軍指定工場の地位を獲得することで砲弾の量産受注が得られるようになり[5]、戦前期の軍需拡大の波に乗って急成長を遂げていく軍需ベンチャーとしての企業性格を持つに至った。兵器部品の優秀さは工廠にも認められて満州兵工廠との取引[6]へと広がり、当時の同社は満州貿易の開拓者と評されるまでになった。砲弾と飛行機部品の製造という初期の事業基盤は、当時の日本経済における軍需依存の構造をそのまま体現する形で発展した。

  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「ダイキン」(経済春秋社, 1968年)
    • [1]創業者は山田晃(当時40歳、大阪砲兵工廠の元工場長)
    • [2]創業地は大阪市難波新川、従業員15名以下の零細規模で出発
  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
    • [3]1924年10月 合資会社大阪金属工業所を創立(ダイキンの源流)
    • [4]創業期は飛行機用ラジエーターチューブ(航空機用部品)の製造から開始
  • ダイキン工業80年史(ダイキン工業)
    • [5]元上司の推挙で陸軍指定工場の地位を獲得し砲弾を量産(1933年陸軍指定工場)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [6]兵器部品の優秀さが工廠に認められて満州兵工廠との取引に広がり、満州貿易の開拓者と評された

1933年には技術顧問として招いていた退役海軍少将の太田十男が、米海軍の潜水艦に新冷媒フレオンガスが採用されたという新聞記事に鋭敏に着目し、ダイキンにフロンの研究を進めることを経営会議で強く進言した[7]ことが、その後の企業の性格を根本から変える決定的な転機となった。冷凍機への足がかりはすでにあり、フロンに先立って今日のダイキン冷凍機の母体となるメチールクロライド冷凍機をミフジレーターの商標で世に出していた[8]。砲弾の金属加工業者が全く未知の化学プラント分野に踏み込むという技術的に困難な跳躍であり、社内の化学技術者はごく少数にとどまり設備も限られていたが、山田晃は太田の進言を採用してフロン研究を本格化させ[9]、1935年に国内初のフロン生産に成功するという歴史的な成果を挙げるに至った[10]。フロン事業は将来の空調事業の化学的基盤となり、軍需依存からの脱却に向けた最初の種がこの時点で蒔かれた。

  • ダイキン工業80年史(ダイキン工業)
    • [7]1933年 技術顧問の太田十男(退役海軍少将)が米海軍潜水艦のフレオンガス採用を新聞で知りフロン研究を進言
    • [9]山田晃が太田の進言を採用しフロン研究を本格化
    • [10]1935年(末)に国内初のフロン生産に成功
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [8]フロンに先立ち、ダイキン冷凍機の母体となるメチールクロライド冷凍機をミフジレーターの商標で生産開始

合資会社として基礎を固めた大阪金属工業所には、その動向に早くから注目していた住友金属から出資して援助したいとの申し入れがあり、将来の発展と信用を期して山田晃氏はこれを受け、以後は住友の系列に入って住友金属との関係を深めた[11]。1934年2月11日には資本金100万円をもって新たに大阪金属工業株式会社が設立され[12]、合資会社からの法人化が実現した。同社はこの日を会社の創業日と定め、これがダイキン工業にとって第二[13]の出発点となった。さらに1938年には大阪金属工業が合資会社を吸収合併して資本金150万円とし[14]、戦後の1953年には本社を現在地へ移して資本金2億7000万円の近代企業として再発足した[15]。財閥資本を呼び込みながらも経営の主体を手放さなかった法人化の歩みが、軍需から空調への転身を支える資本基盤となった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [11]住友金属からの出資申し入れを受け、大阪金属工業所は住友の系列に入った
    • [12]1934年2月11日 資本金100万円で大阪金属工業株式会社を設立(合資会社からの法人化)
    • [13]1934年2月11日を会社の創業日と定め、これを第二の出発点とした
    • [14]1938年 大阪金属工業が合資会社を吸収合併し資本金150万円とした
    • [15]1953年 本社を現在地へ移し資本金2億7000万円で近代企業として再発足
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「ダイキン」(経済春秋社, 1968年)
    • [1]創業者は山田晃(当時40歳、大阪砲兵工廠の元工場長)
    • [2]創業地は大阪市難波新川、従業員15名以下の零細規模で出発
  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
    • [3]1924年10月 合資会社大阪金属工業所を創立(ダイキンの源流)
    • [4]創業期は飛行機用ラジエーターチューブ(航空機用部品)の製造から開始
  • ダイキン工業80年史(ダイキン工業)
    • [5]元上司の推挙で陸軍指定工場の地位を獲得し砲弾を量産(1933年陸軍指定工場)
    • [7]1933年 技術顧問の太田十男(退役海軍少将)が米海軍潜水艦のフレオンガス採用を新聞で知りフロン研究を進言
    • [9]山田晃が太田の進言を採用しフロン研究を本格化
    • [10]1935年(末)に国内初のフロン生産に成功
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [6]兵器部品の優秀さが工廠に認められて満州兵工廠との取引に広がり、満州貿易の開拓者と評された
    • [8]フロンに先立ち、ダイキン冷凍機の母体となるメチールクロライド冷凍機をミフジレーターの商標で生産開始
    • [11]住友金属からの出資申し入れを受け、大阪金属工業所は住友の系列に入った
    • [12]1934年2月11日 資本金100万円で大阪金属工業株式会社を設立(合資会社からの法人化)
    • [13]1934年2月11日を会社の創業日と定め、これを第二の出発点とした
    • [14]1938年 大阪金属工業が合資会社を吸収合併し資本金150万円とした
    • [15]1953年 本社を現在地へ移し資本金2億7000万円で近代企業として再発足

朝鮮戦争砲弾特需を原資とする空調事業への転換

終戦によって軍需が失われたダイキンは[16]主要製品を失って深刻な経営危機に直面し、戦後復興期の民需転換に苦しむなかで無配転落という厳しい状況を経験した。1950年に勃発した朝鮮戦争をきっかけに米軍から81ミリ迫撃砲弾の受注機会が突如として到来した[17]が、社内では戦争特需に再び依存することへの慎重論が根強く存在していた。山田社長は『万難を排して受注せよ』との強い号令を下して特需受注に積極的に踏み込む経営判断を断行し、無配転落の経営危機から短期間で脱却した。朝鮮戦争特需で得られた貴重な資金を砲弾生産に再投資するのではなく、冷凍機・空調機・フロンという平時の民需分野へと戦略的に集中投下する経営判断が、戦後ダイキンの方向を決定づけた。

  • ダイキン工業80年史(ダイキン工業)
    • [16]終戦で軍需を喪失し無配転落(戦後の経営危機)
    • [17]1950年に朝鮮戦争勃発、米軍から迫撃砲弾の特需受注が到来

1960年代から1970年代にかけてのダイキンは業務用空調機とルームエアコンの両方を手がける総合空調メーカーとしての体制を整え[18]、砲弾メーカーから空調メーカーへの企業性格の根本的な転換を完遂した。金岡工場を中心とする国内生産拠点の整備と国内販売網の段階的な構築を進めつつ[19]、フロン事業から業務用空調・家庭用空調への事業の重心シフトを戦略化し、やがて空調専業メーカーとしての独自の地位を国内市場のなかで築いた。軍需ベンチャーとしての創業から朝鮮特需を経て空調メーカーへと転身していく戦略的な転換の連鎖こそが、後のグローバル空調メーカーへと飛躍していくための歴史的な土台を形成した。

  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
    • [18]1960〜70年代に業務用空調とルームエアコンを手がける総合空調メーカー体制を整えた
    • [19]金岡工場を中心に国内生産拠点を整備(1963年 堺製作所金岡工場新設)

1960年代に入るとクーラーは電機各社が冷蔵庫の次に普及すると見込んだ商品となり[20]、大阪金属工業はその市場で3割近い占有率を握る首位級の地位を占めていた[21]。堺工場の増築に19億円を投じてクーラーの総合工場を建てる計画を進めながら、1962年の夏に向けた設備投資はいったん繰り延べて同年秋の完成を待つ判断を取り[22]、需要の立ち上がりを見極めつつ生産能力を広げた。フロン式冷凍機を国内で最初に製品化した専門メーカーとしての実績は販売面でも働き、工事まで担える代理店を全国350社の規模で組織するに至り[23]、1961年11月期には売上高105億円のうち冷暖房部門が63億円と6割を占めるまでに事業構成が入れ替わった[24]。ビルの冷房が広がるにつれて冷えすぎによる体調不良への注意が新聞で呼びかけられるようになり[25]、空調は一般の生活に入り込む商品へと変わりつつあった。

  • 読売新聞(1962年4月21日)
    • [20]電機メーカーが冷蔵庫の次にブームを呼ぶと狙いをつけていた商品がクーラーだった
    • [21]クーラーの市場占有率の30%近くを大阪金属工業が占め、三菱電機・日立・東芝・松下は10〜20%だった
    • [22]堺工場の増築費に19億円を投じてクーラーの総合工場を作る計画を持ちつつ、設備投資計画を繰り延べて1962年夏は見送り同年秋の完成予定とした
  • ダイヤモンド 1967年4月10日号
    • [23]フロン式冷凍機を製品化したわが国最初の会社として、工事のできる代理店網を全国350社規模で確立
    • [24]1961年11月期の売上高105億円のうち冷暖房が63億円で60%を占めた
  • 読売新聞(1961年7月19日)
    • [25]ビル冷房の普及にともない冷えすぎによる体調不良(冷房病)への注意が新聞で呼びかけられた
  • ダイキン工業80年史(ダイキン工業)
    • [16]終戦で軍需を喪失し無配転落(戦後の経営危機)
    • [17]1950年に朝鮮戦争勃発、米軍から迫撃砲弾の特需受注が到来
  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
    • [18]1960〜70年代に業務用空調とルームエアコンを手がける総合空調メーカー体制を整えた
    • [19]金岡工場を中心に国内生産拠点を整備(1963年 堺製作所金岡工場新設)
  • 読売新聞(1962年4月21日)
    • [20]電機メーカーが冷蔵庫の次にブームを呼ぶと狙いをつけていた商品がクーラーだった
    • [21]クーラーの市場占有率の30%近くを大阪金属工業が占め、三菱電機・日立・東芝・松下は10〜20%だった
    • [22]堺工場の増築費に19億円を投じてクーラーの総合工場を作る計画を持ちつつ、設備投資計画を繰り延べて1962年夏は見送り同年秋の完成予定とした
  • ダイヤモンド 1967年4月10日号
    • [23]フロン式冷凍機を製品化したわが国最初の会社として、工事のできる代理店網を全国350社規模で確立
    • [24]1961年11月期の売上高105億円のうち冷暖房が63億円で60%を占めた
  • 読売新聞(1961年7月19日)
    • [25]ビル冷房の普及にともない冷えすぎによる体調不良(冷房病)への注意が新聞で呼びかけられた

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ダイキンの沿革1924〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1924〜1970年軍需企業から空調メーカーへの戦略的転身大阪金属工業所を設立
山田晃大阪金属工業を設立。住友と資本提携
山田晃フロンの開発に成功★★
山田晃堺製作所を新設
山田晃淀川製作所を新設
山田晃敗戦により生産縮小・1.6万名を解雇★★
山田晃大阪証券取引所に上場
山田晃三フッ化樹脂を開発し発売
山田晃東京証券取引所に上場
山田晃ルームエアコン事業に参入
山田晃社名を「ダイキン工業」に変更
1971〜2005年国内事業の確立とアジア・欧州への段階的海外展開山田稔ベルギーに欧州拠点ダイキンヨーロッパを設立
山田稔空調事業の販社を設立
山田稔経常赤字23億円に転落。700名を人員整理★★
山田稔電子技術センターを新設
山田稔長期経営計画「ビジョン60」を開始
山田稔ココム違反により家宅捜索へ★★
山田稔新冷媒(代替フロン)HFC32プラントを完成
井上礼之製造販売に本格投資・買収で販売網を形成★★
井上礼之パナソニックと業務提携契約を締結
北井啓之トレーンと包括的グローバル戦略提携に合意★★
2006〜2023年グローバル空調メーカーへの飛躍とM&A岡野幸義OYL社を買収★★
岡野幸義中国格力とインバータエアコンで業務提携を締結
岡野幸義ロテックスを買収し子会社化
岡野幸義15年ぶりの減収減益へ
十河政則十河政則氏が代表取締役社長兼COOに就任
十河政則新冷媒R32を採用したルームエアコンを発売
十河政則欧州AHTクーリングシステムズを買収
十河政則戦略売価施策を実行
竹中直文創業100周年を迎える
竹中直文エリオットの1兆円自社株買い要求と「FUSION30」の資本政策転換

2026年4月、米アクティビストのエリオット・インベストメント・マネジメントがダイキン工業株の約3%を10億ドル超で取得し、今後数年で1兆円規模の自社株買いと利益率の改善、非中核事業の見直しを要求した。ダイキンは5月に戦略経営計画FUSION30の公表とあわせ、約10年ぶりとなる3,500億円の自社株買いで応じたが、要求額との隔たりは残り、本稿の時点で決着していない。

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★★★
出典・参考
  • ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
  • ダイキン工業80年史(ダイキン工業)
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「ダイキン」(経済春秋社, 1968年)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • ダイヤモンド 1967年4月10日号
  • 読売新聞(1961年7月19日)
  • 読売新聞(1962年4月21日)

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