迫撃砲弾199万発を米軍から受注
砲弾特需で業容拡大
1950年に勃発した朝鮮戦争を受けて、1951年に米軍は日本企業に対する砲弾の発注を決定。1952年5月頃にダイキンは「81ミリ迫撃砲弾・62万発」を合計22億円で受注する意向を表明した。 しかし、ダイキンは砲弾製造のための設備投資の資金として3億円が必要であったが、大阪銀行から5000万円の融資を確保したが、ダイキンは経営難(無配転落)に陥っていたため他の銀行からの資金調達は困難を極めた。このため、ダイキンは米軍調達本部に対して砲弾受注の半減(31万発)を依頼し、ダイキンとコマツの2社による折半受注に変更した。
住友金属工業との資本提携で調達
ダイキンは借入調達を諦めて、住友金属工業との資本提携を決定。終戦の財閥解体により提携関係は途絶えていたが、改めて提携を復活することを決断した。3倍増資により約9000万円の資金調達を実施するとともに、提携後に住友銀行から2億円の借入を実施。合計3億円を確保し、砲弾製造のための設備投資の資金を捻出した。この資本提携によってダイキン創業家(山田家)の持分は希薄化し、のちに同族経営の路線と決別することにつながった。 1952年から1956年にかけて、ダイキンは砲弾の追加受注にも成功。1956年7月までに累計約199万発を受注し、累計受注額は約68億円に及んだ。このため、1950年代前半のダイキンは砲弾受注によって業容を拡大した。
冷凍機・フロンに注力へ
1956年頃を境にして砲弾受注が一巡。それまで砲弾特需によって支えられたダイキンの売上は低迷に至った。そこでダイキンは「冷凍機・フロン」の生産に注力することで、砲弾から民需への業態転換を志向した。 すなわち、ダイキンとしては砲弾によって得た収益で、成長市場であった「冷凍機・フロン」に注力し事業転換を試みた。この転換により、ダイキンは空調メーカーとして認知されるに至った。