重要な意思決定
193512月

フロンの開発に成功

背景

退役海軍少将の着眼が砲弾屋を空調領域へ導く

1933年、ダイキンの技術顧問を務めていた太田十男氏は退役海軍少将であり、米海軍の潜水艦にフレオンガスが採用されたという新聞記事に着目した。フレオンガスは空調設備に不可欠な冷媒であり、太田氏はダイキンに対してフロンの研究開発を提案した。当時のダイキンは砲弾を中心とした軍需品の製造が主力であり、化学品の研究開発とは無縁の金属加工業者であった。しかし海軍人脈を通じた情報収集が、異分野への参入の契機を生んだ。

ダイキンは海軍関係者からの要請を受ける形でフロン式冷凍機の研究を開始し、約2年の研究期間を経て1935年末に国内初となるフロンの生産に成功した。砲弾製造の技術基盤を持つ金属加工業者が化学プラントの領域に踏み込むという跳躍は、海軍との関係性がなければ実現し得なかったものである。フロン生産の技術確立により、ダイキンは空調機器に必要な冷媒を自社で調達できる体制を手にした。

決断

空調機器と冷媒の一貫生産体制を構築

フロン生産に続いて、ダイキンは空調機器そのものの製造にも乗り出した。1936年には南海電鉄向けに電車用冷房装置「ミフジレータ」を納入し、鉄道車両の冷房という民需分野で実績を築いた。1938年には海軍の潜水艦向けに空調設備を供給し、軍需と民需の双方で空調機器の納入先を開拓した。空調機器と冷媒の両方を一社で生産する体制は世界的にも稀有であり、金属加工業と化学プラントの製造能力を兼ね備えた独自の企業として位置づけられた。

戦時中のフロン生産は主に潜水艦向けの供給が中心であったが、量産体制の構築には苦戦を強いられた。1941年に淀川製作所で本格的なフロン生産を開始したものの、安定供給に至るまでには時間を要した。1943年にようやく年産30万トンの体制を確立し、量産段階への移行を果たした。戦前における空調事業は軍需の一環としての性格が強かったが、この時期に確立した冷媒と空調機器の一貫生産構造が、戦後にダイキンの事業基盤を形成する原型となった。