重要な意思決定
192410月

合資会社大阪金属工業所を設立

背景

大阪砲兵工廠の元工場長が零細金属加工業を創業

1924年10月、大阪砲兵工廠の工場長を歴任した山田晃氏は40歳にして官を辞し、合資会社大阪金属工業所を設立した。官僚的な組織運営に嫌気がさしたことが独立の動機であった。創業地は大阪市内の難波新川に所在する魔法瓶の工場跡地であり、従業員数は15名に満たない零細企業としての船出となった。創業当初は飛行機用ラジエーターチューブの製造を手がけ、金属加工の下請けとして事業を開始した。

翌1925年には満洲向けの瞬発信管30万発の受注に成功し、金属製品の加工能力を対外的に示した。もっとも、創業期のダイキンは航空機部品の製造を志向しており、軍需品の生産はあくまで副次的な位置づけであった。しかし1930年代に入ると日本政府が戦時体制を敷き始め、陸海軍の軍備拡張に伴って軍需品の需要が急速に拡大する局面を迎えた。この市場環境の変化が、山田氏の事業方針を大きく転換させることになる。

決断

工廠出身者の人脈で海軍・陸軍の指定工場認定を獲得

山田氏は大阪砲兵工廠での経験と人脈を活かし、海軍・陸軍の指定工場認定を獲得した。これ事業方針の転換を促したのは、山田氏が大阪砲兵工廠に勤務していた時代の元上司からの依頼であった。軍需品の生産を直接要請されたことで、山田氏は金属加工業から軍需品製造への傾斜を決断した。従業員15名の零細企業にとって軍への納入資格を獲得すること自体が容易ではなかったが、工廠出身者としての信用と人的ネットワークが参入の壁を突破する手段となった。技術力だけでは困難な軍需市場への参入を、官での実績が担保する構図であった。

1931年に圧搾加工品を海軍に納入したことで海軍省の指定工場に認定された。創業から7年足らずの新興企業が指定工場の認定を受けるのは異例のことであった。さらに1933年には陸軍省の指定工場にも認定され、薬莢や信管の納入を開始した。海軍・陸軍の双方から認定を受けたことで、砲弾を中心とした軍需品の安定的な受注基盤が確立された。により、従業員15名の零細企業でも軍需品の安定的な受注基盤を確立することが可能となった。

結果

軍需品比率74%に達し関西有力の軍需ベンチャーとして発展

海軍・陸軍の指定工場として軍需品の製造を本格化した結果、1932年時点で売上に占める軍需品の比率は74.5%に達した。航空機部品の下請け加工から出発した零細企業は、創業から8年余りで実質的な軍需企業へと変貌を遂げた。1930年代後半は日本で陸海軍が軍備拡張を進めた時期にあたり、発注量の増大がダイキンの売上を押し上げる構造的な追い風となった。

こうしてダイキンは、関西における有力な軍需ベンチャー企業としての地位を確立した。この急成長を支えたのは、創業者が大阪砲兵工廠で培った人脈および技術力と、拡大基調にあった軍需市場という時代背景であった。軍需品の量産で得た製造ノウハウと設備投資の経験は、のちの住友財閥との資本提携による株式会社化や、フロン開発を契機とした空調事業への参入を可能にする経営基盤となった。