明治製菓梅沢浜夫博士が発見したカナマイシンの工業化と、菌の培養から原末・製剤までの一貫生産の確立

原末を買って加工するか、菌から育てるか——「製剤会社」で終わらないために先に払った設備資金

時期 1958年
意思決定者(推定) 明治製菓 経営陣
論点 原末の内製と設備投資
概要
1958年、明治製菓は国立予防衛生研究所の梅沢浜夫博士が発見した抗生物質を工業化し、カナマイシンとして発売した。原末を輸入して製剤にする当時の日本の製薬業の作り方をとらず、菌の培養から原末、製剤までを自社で作る一貫生産をこの製品で固めた。
背景
1950年代の日本の製薬会社の多くは、原末を海外から買って錠剤や注射液に加工していた。医薬品を扱う問屋や輸入商社がそのままメーカーになった経緯から、原体を自ら作る歴史を持たなかった。原体の内製には自主技術と多額の設備資金が要り、新陳代謝の激しい医薬品では投資が回収できない危険もともなう。
内容
菌の培養から原末の抽出、製剤までを自社で行うため、動物実験と臨床試験に加えて量産の工程そのものを設計した。1963年10月には川崎・淀川に分散していた原末生産を足柄工場へ集め、1970年には岐阜郊外の新工場へ60億円を投じている。
含意
1970年には抗生物質12品目をいずれも一貫生産し、1973年度までに18品目へ広げる計画を示した。カナマイシンは1975年発売のパニマイシンの母体にもなり、韓国・インドネシア・タイの合弁会社へ原末生産と製剤加工が移された。
筆者の見解

買える物を、あえて作った

原末は買えた。非自由化のもとで入手は容易であり、買えば設備も技術も要らない。明治製菓はその道を選ばず、1958年のカナマイシンで菌の培養から製剤までを自前に置いた。5年後には川崎と淀川の原末を足柄へ集めている。医薬品の新陳代謝が激しく、原末への投資に危険がつきまとうことは当人たちが認めていた。危険を承知したうえでの選択であった。

一貫生産が効いたのは、抗生物質という分野が伸び続けた間に限られる。カナマイシンは自社の発見ではなく、梅沢浜夫博士が見つけた物質を工業化したものであり、1975年のパニマイシンも同じ博士がその化学的構造を変えて生んだ薬であった。原末を握る強さは、外から来る発見に支えられていた。設備は残り、薬は入れ替わる。不況のさなかに北上工場へ50億円を投じたのは、その循環から降りられない側に立ったためである。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

原末を買って加工する製薬業

1950年代の日本の製薬会社の多くは、抗生物質の原末を海外から買い、それを錠剤や注射液、軟膏へ加工して売っていた。明治製菓の中川赳専務は1970年の講演で、この作り方を「これでは製薬会社ではなく、製剤会社である」と呼んでいる。医薬品を扱う問屋や、それを輸入する商社がそのままメーカーになった経緯から、原体を自ら作ってきた歴史を持つ会社は少なかった[1]

原体を作るには自主的な技術と多額の設備資金が要る。しかも医薬品は新陳代謝が激しく、育てた薬が数年で古くなっても設備だけは残る。非自由化のもとで原末は容易に手に入ったから、買って加工するほうが理にかなっていた。国内で最も生産量が多い薬はビタミンで、1969年の売上は1,100億円台にのぼる。治療の本命に抗生物質を置く米国とは、薬の構成そのものが違っていた[2][3]

梅沢浜夫博士の発見と、培養する側の会社

明治製菓の薬品事業は、1946年に川崎工場の一部でペニシリンを作り始めたところから伸びた。菌を培養して物質を取り出す仕事を重ねるうちに、国立予防衛生研究所の梅沢浜夫博士との関わりが生まれる。明治製菓は梅沢博士の研究に協力して放線菌の培養液から制がん抗生物質ザルコマイシンを抽出し、1954年10月にこれを製造販売した。カナマイシンの工業化も、この協力から出ている[4][5][6]

中川氏は後年、抗生物質が医薬品のなかで最大の分野になると10年も前から見通し、その対策を講じてきたと語っている。見通しは外れなかった。抗生物質は1970年に花形商品であったビタミン剤を抜いて薬効分類の首位に立ち、1974年の生産高は3,314億円と10年で6.3倍になった。全医薬品の19.5%を占め、耐性菌との戦いが続くかぎり新しい薬を出し続けねばならない分野であった[7][8]

決断

1958年1月、カナマイシンの発売

1958年、明治製菓はカナマイシンを発売した[9]。梅沢浜夫博士が発見した抗生物質を工業化したもので、原末を輸入して製剤にする道はとらなかった。菌を培養し、原末をつくり、錠剤や注射液に仕上げるまでを自社で持つ。1950年7月に製造販売を始めたストレプトマイシンに続く、自社の菌から育てた三つめの抗生物質であった。同業の多くが避けてきた作り方を、明治製菓はこの製品で選んだ[10][11]

工業化は発見の延長ではない。菌の培養から原末の抽出、そして製剤までを自社で行うには、動物実験と臨床試験に加えて量産の工程そのものを設計する必要がある。中川氏は一貫体制について、確かに多額の資金と高度の技術が必要になるが、それを乗り切ることで初めてコストが下がると説明した。原末を輸入すれば当座の負担は軽く済む。ただし価格の決定権は供給する側に残る。設備を先に持つ側へ回るという判断であった[12]

原末を1カ所に集める

カナマイシンの発売から5年後、この作り方は全社の設備方針になった。1963年10月、明治製菓は川崎と淀川に分かれていた原末の生産を足柄工場へ集める。足柄は原末専門の工場として新設され、世界最大の300トン培養タンクを備えた。設備はその後も増え、1970年には設立当初の4〜5倍に達し、前年には世界初の300トンを超える大型発酵槽が入っている[13][14]

足柄をフル生産させても5年から10年先の需要には足りない。そう見た明治製菓は1970年、岐阜郊外に5万坪を買い、60億円を投じて第2の原末工場の建設に入った。第1期は培養1,000トンの発酵槽で抗生物質150トンを作る計画で、足柄と合わせれば培養3,500トン、原末500トンとなり、国内の抗生物質生産の7〜8割を1社で占める規模になる。医薬品関係の設備投資は1973年度までに130億円前後を見込んでいた[15][16]

結果

12品目を同じ作り方でそろえる

1970年、明治製菓はペニシリンとカナマイシンをはじめとする抗生物質12品目を、いずれも一貫生産していた。1973年度までに新しい抗生物質6品目を加え、18品目すべてを同じ作り方でそろえる計画も示している。日本の有力メーカーが抗生物質の一貫生産に一様に注目したのは1970年代に入ってからで、明治製菓はその十数年前から設備を積んでいた[17][18]

発売から10年で、カナマイシンは会社の看板の一つになった。1968年の『企業の歴史』は、明治製菓の薬品部門の主軸商品としてカナマイシンと合成ペニシリンを挙げ、菓子・食品・薬品の三本柱を他の製菓会社にない強みと記している。1967年度の総売上高は458億5,600万円、税引利益は16億1,600万円で、1割8分の配当を行っていた[19][20]

カナマイシンから出た薬と、海外へ移した作り方

カナマイシンは次の薬の母体にもなった。1975年1月に発売したパニマイシンは、梅沢博士が従来にない手法でカナマイシンの化学的構造を変え、耐性菌に、とりわけ既存の抗生物質が効かない緑膿菌に効くようにした薬である。発売から1年たたずに月商5億円へ育ち、生産が追いつかない。明治製菓は不況のさなかに約50億円を投じ、岩手県北上市に新工場を建てた[21][22]

作り方そのものも国外へ出た。1980年の時点で、韓国の東明産業がカナマイシンとビスタマイシンの原末を作って現地の製剤メーカーへ供給し、P.T.インドネシア明治は明治製菓が送るストレプトマイシン、カナマイシン、合成ペニシリンの原末を製剤に加工していた。同年に設立したタイ明治は、カナマイシンを原末から製剤まで一貫生産する工場として建設が進んだ[23]

出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」(中川赳・明治製菓専務取締役)
  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」(中川赳・明治製菓社長)
  • 証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」(安田春太郎・明治製菓専務取締役)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「明治製菓」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
  • 明治製菓 有価証券報告書【沿革】

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