明治製菓 の歴史

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創業 1916年
創業者 濱田録之助、相馬半治
創業地 東京都中央区
創業
1916年10月9日、濱田録之助氏らが資本金100万円で東京菓子を東京に設立した。その2か月後の12月、台湾で製糖業を営む明治製糖の相馬半治氏らが、資本金150万円の大正製菓を別に立てている。同じ事業を営む二社が並んだため、1917年3月に大正製菓を東京菓子へ合併し、資本の出どころは明治製糖側、社名と設立日は先に立った東京菓子側が残った。内地で粗糖を買う相手が大日本製糖1社に絞られ、売り先を自ら持つほかなかったことが出発点である。1920年12月に房総煉乳を吸収して乳製品へ広げ、1924年9月に明治製菓へ改称した。ただし菓子は未経験の分野で技術も販路も足りず、採算を確保するのは1925年の川崎工場の完成を待った。
決断
原料を断たれるたびに、同じ発酵設備の中身を替えてきた。1945年1月に主力の川崎工場が空襲で全焼し、親会社の明治製糖は台湾・朝鮮の外地資産をすべて失って、砂糖という原料の後ろ盾が消えた。菓子と乳製品のために持っていた発酵と培養の設備は、そのまま抗生物質へ移せる。1946年11月、焼け残った川崎工場の一部でペニシリンの製造を始め、来日した米テキサス大学のフォスター博士から技術の公開と種菌の分与を受けて量産へ進んだ。1958年には梅沢浜夫博士が発見したカナマイシンを菌の培養から原末まで一貫して工業化し、原末を輸入して製剤化するだけの当時の製薬業から外れる。菌の培養から原末・製剤までを自社で持ったことが、以後の利益を薬品の側へ寄せた。
現況
明治製菓という上場会社は残らず、法人は医薬だけを担っている。1980年3月期に食料部門が経常損益で30億円の欠損を出し、薬品部門の61億円の黒字がこれを埋めた。同年9月末に函館工場と上山分工場を廃止して食品事業の構造改善と薬品への資源集中を決め、売上では菓子、利益では薬品という関係を固定させる。1982年4月の経営10年ビジョンは1991年度の売上高6,100億円を掲げたが、1992年3月期の連結売上高は3,421億円とその56%にとどまり、以後も3,200億円台から4,100億円台にとどまる。最終期となる2010年3月期の連結売上高は4,110億円である。2011年4月の再編で菓子と食品は明治乳業の法人へ移って株式会社明治となり、明治製菓の法人は医薬に絞ってMeiji Seika ファルマへ商号を変えた。
競合
同じ菓子大手のうち、薬を併せ持ったのはこの会社だけであった。森永製菓は1949年4月に乳業を分離して菓子専業へ絞り、江崎グリコも食品の内側で競った。明治製菓はそこへ薬品を並べ、1982年3月期の部門別売上は菓子946億円・食品172億円・薬品756億円、経常利益の構成比は薬品60対食料40であった。国内の菓子市場が成熟しても事業を続けられたのはこの構成による。一方で薬価基準の引き下げは繰り返され、抗生物質に偏った製品構成はそのたびに響いた。2009年3月期の連結売上高4,141億円は明治乳業の7,114億円の6割にとどまるが、明治乳業との経営統合での株式移転比率は明治製菓1株に0.1株、明治乳業1株に0.117株である。規模の差ほどには交換比率が開かなかったのは、乳業専業の相手が持たない医薬を携えていたからである。
明治製菓:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1981年3月期2010年3月期

創業ストーリー 砂糖の売り先を自ら作る ── 台湾製糖業から生まれた東京菓子 (1906年〜)

砂糖の売り先を自ら作る ── 台湾製糖業から生まれた東京菓子

台湾で砂糖を作った会社が、菓子に出た理由

明治製菓の資本は、台湾の砂糖から出ている。台湾総督府は新渡戸稲造氏を殖産局長に迎え、ジャワの糖業を視察させたうえで、1901年9月に『糖業改良意見書』をまとめさせた[1]。翌1902年6月に公布された台湾糖業奨励規則は[2]、奨励金と補助金を経営規模・生産能力・設備機械の種別で区切って交付する制度で、在来の手工業的な製糖場を保護の対象からはずしていた。近代的な機械製糖に資本を集める政策であり、内地の資本家が相次いで台湾へ渡った。1906年12月、総督府糖務局の技師で東京高等工業学校教授を兼ねていた相馬半治氏が、小川朝吉氏・浅田正文氏・渋沢栄一氏らと資本金500万円で明治製糖を創立した[3][4]のも、この政策の内側での出来事である。

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製糖-新渡戸局長と台湾糖」
    • [1]後藤新平が新渡戸稲造を殖産局長に迎えて糖業振興策を検討させ、新渡戸は明治34年(1901年)9月に「糖業改良意見書」をまとめた。1901年9月は意見書の提出時点であって殖産局長就任の時点ではない
    • [2]1902年6月に台湾糖業奨励規則が公布され、小規模な在来製糖場は保護対象からはずされた
    • [3]相馬半治は台湾総督府糖務局技師で東京高等工業学校教授を兼ねていた
    • [4]明治製糖の設立は1906年12月・資本金500万円である

砂糖は作れば売れる商品ではなかった。1899年の関税定率法は粗糖に国定税率を残す一方、精製糖には低い協定税率を認めており[5]、台湾で粗糖を作る側と内地で精製する側の利害は最初から食い違っていた。しかも明治40年代前半、内地で原料糖を買う相手は事実上[6]、大日本製糖1社しかない。日糖は輸入原料糖戻税法によって安い外国糖を確保でき、1908年には自ら台湾斗六庁内に粗糖工場まで持った。売り先が1社に絞られた粗糖会社は、個別に売り込めば買い叩かれる。1909年秋、台湾・明治・東洋・塩水港の4社は共同して日糖と原料糖売買契約を結び[7]、翌1910年10月には台湾糖業連合会を組織した。[8]売り先を自ら作るという発想は、この買い手1社の交渉を経て出てきた。

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製糖-新渡戸局長と台湾糖」
    • [5]1899年の関税定率法で粗糖には国定税率、精製糖には低い協定税率が残った
    • [6]明治40年代前半、内地における原料糖の買い手は事実上、大日本製糖だけだった
    • [7]1909年秋に台湾・明治・東洋・塩水港の四社が共同して日糖と原料糖売買契約を結んだ
    • [8]1910年10月に粗糖会社が台湾糖業連合会を結成した

出口を自前で持つ試みは、菓子より先に精製糖で始まっている。1911年7月の関税定率法改正で輸入精製糖の協定税率と内地向け戻税制度が廃止されると[9]、同じ年に台湾製糖は神戸精糖を、明治製糖は横浜精糖を買収した。[10]粗糖会社が内地の精製糖業へ進出した最初の例である。そのうえで、砂糖を最も多く使う加工品である菓子まで手を伸ばす。第一次世界大戦で欧州からの菓子輸入が途絶し、国産化の余地が広がっていた時期にあたる。菓子はすでに森永太一郎氏の会社が1910年に法人化して1912年に森永製菓へ改称し、[11]東洋製菓がイギリス製機械でビスケットの量産を始めているなど、先行者のいる分野であった。[12]

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製糖-新渡戸局長と台湾糖」
    • [9]1911年7月の関税定率法改正で輸入精製糖の協定税率と内地向け精製糖の戻税制度が廃止された
    • [10]1911年に台湾製糖が神戸精糖を、明治製糖が横浜精糖を買収した
    • [11]森永太一郎は明治43年(1910年)に個人営業から資本金50万円の株式会社「森永商店」へ改組し、1912年に社名を「森永製菓」と改めた。法人化は1910年、1912年は社名変更である
    • [12]東洋製菓は明治33年(1900年)創立で資本金20万円、イギリス製の新機械を入れイギリス人技師の指導を得てビスケットの大量生産を始めた
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製糖-新渡戸局長と台湾糖」
    • [1]後藤新平が新渡戸稲造を殖産局長に迎えて糖業振興策を検討させ、新渡戸は明治34年(1901年)9月に「糖業改良意見書」をまとめた。1901年9月は意見書の提出時点であって殖産局長就任の時点ではない
    • [2]1902年6月に台湾糖業奨励規則が公布され、小規模な在来製糖場は保護対象からはずされた
    • [3]相馬半治は台湾総督府糖務局技師で東京高等工業学校教授を兼ねていた
    • [4]明治製糖の設立は1906年12月・資本金500万円である
    • [5]1899年の関税定率法で粗糖には国定税率、精製糖には低い協定税率が残った
    • [6]明治40年代前半、内地における原料糖の買い手は事実上、大日本製糖だけだった
    • [7]1909年秋に台湾・明治・東洋・塩水港の四社が共同して日糖と原料糖売買契約を結んだ
    • [8]1910年10月に粗糖会社が台湾糖業連合会を結成した
    • [9]1911年7月の関税定率法改正で輸入精製糖の協定税率と内地向け精製糖の戻税制度が廃止された
    • [10]1911年に台湾製糖が神戸精糖を、明治製糖が横浜精糖を買収した
    • [11]森永太一郎は明治43年(1910年)に個人営業から資本金50万円の株式会社「森永商店」へ改組し、1912年に社名を「森永製菓」と改めた。法人化は1910年、1912年は社名変更である
    • [12]東洋製菓は明治33年(1900年)創立で資本金20万円、イギリス製の新機械を入れイギリス人技師の指導を得てビスケットの大量生産を始めた

二か月違いで立った二社の合併と、残った社名

1916年10月9日、濱田録之助氏らが資本金100万円で東京菓子を設立[13]した[14]。その2か月後の同年12月、明治製糖の相馬半治氏と有島健助氏が、製菓と製乳を目的とする資本金150万円の大正製菓を別に設立している[15]。同じ事業を営む会社が二つ並んで立った形になり、翌1917年3月、資本金の大きい大正製菓を東京菓子へ合併して資本金250万円とした。[16]存続したのは先に立った東京菓子であり、社名もそちらが残った。明治製菓が設立日として1916年10月9日を掲げるのは、この合併の向きによる。

  • 明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)【沿革】
    • [13]東京菓子は大正5年(1916年)10月9日に資本金100万円で設立された
  • 日本会社史総覧(1995年)「明治製菓」
    • [14]会社銀行八十年史「明治製菓」は「同年十月資本金百万円の東京菓子が創立された」と書くのみで創業者名を挙げていない。人名「濱田録之助」の出所は日本会社史総覧「明治製菓」の項(「濱田録之助により東京菓子㈱が資本金100万円で設立された」)であり、同書の明治乳業の項では「濱口録之助」と表記が割れている
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [15]明治製糖の相馬半治・有島健助が大正5年(1916年)12月に資本金150万円の大正製菓を設立した。東京菓子(同年10月)との差は2か月であり、日本会社史総覧も「その2カ月後、明治製糖社長の相馬半治は同じ目的で大正製菓㈱を設立した」と書く
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製糖-新渡戸局長と台湾糖」
    • [16]1917年3月に大正製菓を東京菓子へ合併し資本金250万円となった

合併後の東京菓子は、東京府大久保町に工場を建てて製菓を始めた。ただし当初の事業は順調ではない。未経験の分野であり、技術も販路も足りず、商標を広めるための宣伝に大きな労力を要した。1920年12月には房総煉乳を吸収合併して乳製品にも入るが[17]、世界的な不況と重なって伸びを欠いた。転機は設備の側から来る。1925年4月に大久保工場が出火して半焼したのを機に[18]、かねて計画していた川崎工場の建設に踏み切った。キャラメル・ドロップ・キャンデー・ビスケットを量産できる近代的な工場が立ち上がって、ようやく菓子部門が採算に乗る。社名を明治製菓に改めたのは、その前年の1924[19]年9月であった。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [17]1920年12月に房総煉乳を吸収合併して乳製品の生産に着手した
    • [19]1924年9月に東京菓子から明治製菓へ社名を変更した
  • 企業の歴史(明治百年)(1968年)「明治製菓」
    • [18]1925年4月の大久保工場の出火半焼を機に川崎工場を開設した

この時期に、のちの明治グループの輪郭が揃う。1920年11月には明治製糖と明治製菓の販売機関として明治商店が設立された[20]。発起人は明糖社長の相馬半治氏と専務の有島健助氏、初代社長[21]には有島氏が就いている。同社は1942年に明治商事へ改称し[22]、砂糖・菓子・乳製品・食品缶詰を扱う系列の販売会社として国内外に事業所を広げた。製糖が原料を作り、製菓が加工し、商事が売る。台湾の砂糖から菓子の店頭まで、三つの会社が垂直に連なった。この連なりが機能したのは、明治製糖が外地を保有していた期間に限られる。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治商事」
    • [20]明治商店は1920年11月17日に明治製糖・明治製菓の販売機関として設立された
    • [21]明治商店は相馬半治と有島健助の発起により設立され、初代社長は有島健助である(『会社銀行八十年史』明治商事の項の表記は「有嶋」)
    • [22]明治商店は1942年6月に明治商事へ社名を変更した
  • 明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)【沿革】
    • [13]東京菓子は大正5年(1916年)10月9日に資本金100万円で設立された
  • 日本会社史総覧(1995年)「明治製菓」
    • [14]会社銀行八十年史「明治製菓」は「同年十月資本金百万円の東京菓子が創立された」と書くのみで創業者名を挙げていない。人名「濱田録之助」の出所は日本会社史総覧「明治製菓」の項(「濱田録之助により東京菓子㈱が資本金100万円で設立された」)であり、同書の明治乳業の項では「濱口録之助」と表記が割れている
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [15]明治製糖の相馬半治・有島健助が大正5年(1916年)12月に資本金150万円の大正製菓を設立した。東京菓子(同年10月)との差は2か月であり、日本会社史総覧も「その2カ月後、明治製糖社長の相馬半治は同じ目的で大正製菓㈱を設立した」と書く
    • [17]1920年12月に房総煉乳を吸収合併して乳製品の生産に着手した
    • [19]1924年9月に東京菓子から明治製菓へ社名を変更した
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製糖-新渡戸局長と台湾糖」
    • [16]1917年3月に大正製菓を東京菓子へ合併し資本金250万円となった
  • 企業の歴史(明治百年)(1968年)「明治製菓」
    • [18]1925年4月の大久保工場の出火半焼を機に川崎工場を開設した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治商事」
    • [20]明治商店は1920年11月17日に明治製糖・明治製菓の販売機関として設立された
    • [21]明治商店は相馬半治と有島健助の発起により設立され、初代社長は有島健助である(『会社銀行八十年史』明治商事の項の表記は「有嶋」)
    • [22]明治商店は1942年6月に明治商事へ社名を変更した

焼け跡の発酵タンク ── 砂糖と外地を失った会社が薬に出る

統制経済が削り取った事業と、失われた原料の後ろ盾

1926年9月、明治製菓は明治ミルクチョコレートを発売し、初めて新聞広告を打った。『チョコレートは明治』という評価はここから積み上がる。1936年6月には果実缶詰の製造を始めて食品事業にも入り[23]、ヨーロッパへの輸出も行った。しかし戦時の統制は、その積み上げを事業単位で剥がしていった。日中戦争の長期化で食糧品工業が制約を受けると、1941年に北海道の乳製品6工場を北海道興農公社へ、[24]1942年から1943年にかけて食品部門の4工場を各府県の合同食品会社へ、いずれも現物出資の形で手放した。さらに1940年から明治乳業に委任経営していた乳業部門の全事業所を、1943年9月に同社へ譲渡している[25]。同じ1942年にはチョコレートの製造そのものが禁じられ、軍への納品で操業[26]をつないだ。

  • 日本会社史総覧(1995年)「明治製菓」
    • [23]1936年6月に果実缶詰の製造を開始して食品事業に進出し、ヨーロッパへの輸出も行った
    • [26]1942年に太平洋戦争でチョコレートの製造が禁止され、軍への納品で操業をつないだ
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [24]1941年に北海道の乳製品6工場を北海道興農公社へ現物出資した
    • [25]1943年9月に乳業部門の全事業所を明治乳業へ譲渡した

1945年1月、主力の川崎工場が空襲で全焼[27]した。終戦時に残ったのは菓子部門4工場・食品部門2工場と、休止中の1[28]工場のみである。打撃は自社の設備にとどまらない。親会社の明治製糖は台湾・朝鮮の外地資産をすべて失い、内地資産も1945年に連合国の管理下へ置かれた。砂糖の供給源そのものが消えた。精糖業の集中度を見ると、1949年末に9社9工場・日産溶糖能力585トンだったものが、1955年末には27社38工場・8,995トンへ広がっている。[29]外地を失った戦前派の大企業が、新規業者と同じ位置に並び直したためである。原料の後ろ盾を持つ菓子会社という第1章の構図は、ここで失われた。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [27]1945年1月に川崎工場が空襲で全焼した
    • [28]終戦時に残った工場は菓子部門4・食品部門2・休止中1のみだった
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [29]精糖業の日産溶糖能力は1949年末の9社9工場585トンから1955年末に27社38工場8,995トンへ拡散した
  • 日本会社史総覧(1995年)「明治製菓」
    • [23]1936年6月に果実缶詰の製造を開始して食品事業に進出し、ヨーロッパへの輸出も行った
    • [26]1942年に太平洋戦争でチョコレートの製造が禁止され、軍への納品で操業をつないだ
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [24]1941年に北海道の乳製品6工場を北海道興農公社へ現物出資した
    • [25]1943年9月に乳業部門の全事業所を明治乳業へ譲渡した
    • [27]1945年1月に川崎工場が空襲で全焼した
    • [28]終戦時に残った工場は菓子部門4・食品部門2・休止中1のみだった
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [29]精糖業の日産溶糖能力は1949年末の9社9工場585トンから1955年末に27社38工場8,995トンへ拡散した

発酵設備の転用という戦後復興の型

焼けた川崎工場の一部で、明治製菓は1946年11月にペニシリンの製造を始めた[30]。戦時中から社内で研究していた素材である。同月に来日した米テキサス大学のフォスター博士から米国技術[31]の全面的な公開と種菌の分与を受け、個別の生産指導を得て、タンク培養による量産へ進んだ。菓子と乳製品で扱ってきた発酵と培養の設備・技術が、そのまま抗生物質へ移せたことが参入の条件であった。この転用は明治製菓だけの発想ではない。味の素は残存設備でDDTの原剤生産に入り、明治製糖と台糖は発酵技術を生かして薬品を作り、大日本製糖はパン用イーストへ向かった[32]。戦前派の大企業が副業で復興の資金を作った時期であり、明治製菓の転用もその一例であった。

  • 明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)【沿革】
    • [30]1946年11月に川崎工場でペニシリンの製造を開始し薬品事業へ進出した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [31]1946年11月に来日した米テキサス大学フォスター博士から技術の公開・種菌の分与・生産指導を受けた
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [32]味の素のDDT、明治製糖・台糖の薬品、大日本製糖のパン用イーストなど、残存設備を利用した副業で復興資本を蓄積する例が同時代に並んだ

薬品の系列は10年足らずで厚みを持った。1947年10月から研究試作していたストレプトマイシンを1950年7月に製造販売し、翌1951年には米メルク[33]社と技術援助契約を結んで品質と収率を高めた。1953年10月には自社の種菌と製法によるクロルテトラサイクリンの工業化に成功し、1954年2月から販売している[34]。同年10月には制がん剤ザルコマイシンを発売した。梅沢浜夫氏の研究に協力し、放線菌の培養液から抽出した抗生物質である。[35]当初は低温でなければ保存できない液剤で、粉末化して改めて売り出した。がんは手術でなければ治らないとされていた時期にあたり、化学療法の側から手を伸ばした製品であった。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [33]1950年7月にストレプトマイシンを製造販売し、1951年に米メルク社と技術援助契約を結んだ
    • [34]1953年10月にクロルテトラサイクリンの工業化に成功し1954年2月に販売を開始した
  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号
    • [35]制がん剤ザルコマイシンは梅沢浜夫の研究に協力して放線菌の培養液から抽出したもので、1954年に粉末化して発売した

一方、本業の菓子は統制の解除とともに競争へ戻った。1949年11月に水あめの統制が解け、1950年1月にキャラメルの自由販売が認められ、1952年には砂糖と小麦粉の統制が撤廃される。国民が甘味に飢えていたことを支えに新規参入が相次ぎ、キャラメルメーカーだけで1951年には218社を数えた。[36]明治製菓は川崎工場を復旧し、1950年に買収した上ノ山・京都の両工場、1952年の合併による東京・名古屋工場、1955年4月新設の大阪工場を加えて生産を戻す。[37]キャラメル・ビスケット・チョコレートはいずれも戦前の最盛期を上回り、1955年3月期の売上高は52億円に達した。[38]

  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [36]統制解除後にキャラメルメーカーは1951年に218社まで増えた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [37]1955年4月新設の大阪工場は英国製の連続ビスケット製造装置2基を備えた月産1,200トンの工場である
    • [38]1955年3月期の売上高は52億円である
  • 明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)【沿革】
    • [30]1946年11月に川崎工場でペニシリンの製造を開始し薬品事業へ進出した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [31]1946年11月に来日した米テキサス大学フォスター博士から技術の公開・種菌の分与・生産指導を受けた
    • [33]1950年7月にストレプトマイシンを製造販売し、1951年に米メルク社と技術援助契約を結んだ
    • [34]1953年10月にクロルテトラサイクリンの工業化に成功し1954年2月に販売を開始した
    • [37]1955年4月新設の大阪工場は英国製の連続ビスケット製造装置2基を備えた月産1,200トンの工場である
    • [38]1955年3月期の売上高は52億円である
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [32]味の素のDDT、明治製糖・台糖の薬品、大日本製糖のパン用イーストなど、残存設備を利用した副業で復興資本を蓄積する例が同時代に並んだ
    • [36]統制解除後にキャラメルメーカーは1951年に218社まで増えた
  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号
    • [35]制がん剤ザルコマイシンは梅沢浜夫の研究に協力して放線菌の培養液から抽出したもので、1954年に粉末化して発売した

東洋一の原末工場と、菓子が薬を養う構造

製剤会社で終わらないという設備の選択

1958年、明治製菓はカナマイシンを発売[39]した。国立予防衛生研究所の梅沢浜夫氏が発見した抗生物質を工業化したもので[40]、原末から製剤までを自社で作る一貫生産の体制をこの製品で固めた。当時の日本の製薬会社の多くは、原末[41](バルク)を輸入して錠剤や注射液に加工していた。医薬品を扱う問屋や輸入商社がメーカーになった経緯から、原体を自ら作る歴史を持たなかったためである。原末の内製には多額の設備資金と高い技術が要り、新陳代謝の激しい医薬品では投資が回収できない危険も伴う。それでも一貫生産を選んだのは、資本自由化を控えて価格競争力を確保するためであった。

  • 日本会社史総覧(1995年)「明治製菓」
    • [39]日本会社史総覧は「同社が国産化に成功した国産の抗生物質カナマイシンを1958年から発売した」と年のみを記す。明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)【沿革】に製品発売の記載はなく、「1958年1月」の月まで特定した出所は資産内に見当たらない
  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号
    • [40]カナマイシンは国立予防衛生研究所の梅沢浜夫が発見した抗生物質である
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号
    • [41]当時の日本の製薬会社の多くは原末を購入して製剤化するのみで、原体を自社生産する歴史を持たなかった

設備はこの選択に沿って積み上がった。1963年10月、貿易自由化への備えとして川崎・淀川に分散していた原末工場を足柄工場へ集中させる[42]。同工場の設備は数年で当初の4〜5倍に拡張され、1969年には世界初の300トン超大型発酵槽を設置した。1970年時点の培養タンク総容量は2,500トン[43]、そこから得られる抗生物質は350トンで国内首位、世界でも5指に入る規模である。それでも足りず、約60億円を投じて岐阜郊外に5万坪を購入し、1971[44]年に岐阜工場を建てた。1976年には岩手県北上市に約50億円で北上工場を加える。1980年時点の培養タンク総容量は4,500トン[45]、抗生物質の年間生産能力は2,000トンを超えた。

  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号
    • [42]1963年に川崎・淀川の原末工場を足柄工場へ集中させた
    • [43]1970年時点で培養タンク総容量2,500トン・抗生物質350トンで国内首位・世界5指に入る規模だった
    • [44]岐阜工場は約60億円を投じて5万坪の土地を購入し1971年に完成した
  • 証券アナリストジャーナル 1980年11月号
    • [45]1980年時点の培養タンク総容量は4,500トン、抗生物質の年間生産能力は2,000トン以上である
  • 日本会社史総覧(1995年)「明治製菓」
    • [39]日本会社史総覧は「同社が国産化に成功した国産の抗生物質カナマイシンを1958年から発売した」と年のみを記す。明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)【沿革】に製品発売の記載はなく、「1958年1月」の月まで特定した出所は資産内に見当たらない
  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号
    • [40]カナマイシンは国立予防衛生研究所の梅沢浜夫が発見した抗生物質である
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号
    • [41]当時の日本の製薬会社の多くは原末を購入して製剤化するのみで、原体を自社生産する歴史を持たなかった
    • [42]1963年に川崎・淀川の原末工場を足柄工場へ集中させた
    • [43]1970年時点で培養タンク総容量2,500トン・抗生物質350トンで国内首位・世界5指に入る規模だった
    • [44]岐阜工場は約60億円を投じて5万坪の土地を購入し1971年に完成した
  • 証券アナリストジャーナル 1980年11月号
    • [45]1980年時点の培養タンク総容量は4,500トン、抗生物質の年間生産能力は2,000トン以上である

1960年代後半に開いた菓子と薬品の差

二つの事業の伸びは、1960年代の後半にはっきり分かれた。1964年から1968年までの5年間で、売上の平均成長率は菓子4.3%に対し薬品9.9[46]%、経常利益の成長率は菓子2.1%に対し薬品12.4%である。全国の生産高で見ても、1966年度は菓子4,700億円・薬品5,084億円と拮抗していたものが、1969年度には菓子5,650億円・薬品8,440億円へ開いた。[47]薬品が年率20%前後で伸びる横で、菓子は5%前後にとどまる。会社の総売上高は1967年度458億円、1969年度607[48]億円と伸びたが、その中で薬品の比率は1967年度24.4%から1969年度32.3%へ上がっている。

  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号
    • [46]1964〜68年度の平均成長率は売上で菓子4.3%・薬品9.9%、経常利益で菓子2.1%・薬品12.4%である
    • [47]全国生産高は1966年度に菓子4,700億円・薬品5,084億円、1969年度に菓子5,650億円・薬品8,440億円である
    • [48]総売上高は1967年度458億円・薬品24.4%、1969年度607億円・薬品32.3%である

それでも菓子を縮小する判断には進まなかった。チョコレートではデラックス(1957年)、マーブル(1961年)、ハイミルク(1962年)、チョコバー(1967年)と主力商品を継ぎ足し[49]、1968年にはスナック菓子のカールで先行各社を追い、1971年にキャンデーのチェルシー、1975年にきのこの山を出している。[50][51]缶入りオレンジジュース(1954年)は国内で最初の発売[52]であった。研究開発費は薬品売上の約7%を充て、1970年前後の3年間で中央研究所を約3倍に増設している[53]。菓子の安定した収益が薬品の研究開発を支えるという配分であり、逆ではない。この構造は、他の製菓会社にない強みとして社外からも評価された。1967年度の総売上高458億5,600万円に対して税引利益16[54]億1,600万円を計上し、年1割8分の配当を続けている。菓子・食品・薬品の三本柱という表現は、この時期の実態に即していた。

  • 日本会社史総覧(1995年)「明治製菓」
    • [49]チョコレートはデラックス(1957年)・マーブル(1961年)・ハイミルク(1962年)・チョコバー(1967年)と新商品を継いだ
    • [50]1968年にカール、1971年にチェルシー、1975年にきのこの山を発売した
    • [52]缶入りオレンジジュース(1954年)は国内で最初の発売である
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-量から質へ」
    • [51]日本産業史は「昭和三十九年に発売された『かっぱえびせん』は空前の大ヒット商品となり、その後、『カール』『キャラメルコーン』等、続々スナック菓子が発売された…スナック菓子時代の幕開けとなった」として、カールをかっぱえびせんの後続に位置づけている。カールが業界の先陣を切ったとするのは日本会社史総覧のみの説明
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号
    • [53]医薬品売上の約7%を研究費に充て、中央研究所を3年で約3倍に増設した
  • 企業の歴史(明治百年)(1968年)「明治製菓」
    • [54]1967年度の総売上高は458億5,600万円、税引利益16億1,600万円で1割8分の配当を行った

1972年4月、総販売代理店であった明治商事を合併[55]した。製造と販売を一つの会社に収めて、製販一体の体制を作る狙いである。ただし合併は人員も引き受けた。従業員は合併当初の7,400名から、1975[56]年には6,800名へ減っている。付加価値が下がり、労働分配率が業界平均を上回る状態が生じたためで、中川赳社長は少数精鋭による効率経営を課題に挙げた。1974年度の売上高は1,340億円と前年比124[57]%に伸びたが、その内訳は食料70に対し薬品30である。売上の主役は依然として菓子と食品であり、利益の主役が薬品へ移りつつあるという二重の状態が続いた。

  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号
    • [55]1972年4月に総販売代理店の明治商事を合併し製販一体の体制とした
    • [56]従業員は明治商事との合併当初7,400名から1975年に6,800名へ減少した
    • [57]1974年度の総売上高は1,340億円で前年比124%、食料と薬品の売上構成比は70対30である
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号
    • [46]1964〜68年度の平均成長率は売上で菓子4.3%・薬品9.9%、経常利益で菓子2.1%・薬品12.4%である
    • [47]全国生産高は1966年度に菓子4,700億円・薬品5,084億円、1969年度に菓子5,650億円・薬品8,440億円である
    • [48]総売上高は1967年度458億円・薬品24.4%、1969年度607億円・薬品32.3%である
    • [53]医薬品売上の約7%を研究費に充て、中央研究所を3年で約3倍に増設した
  • 日本会社史総覧(1995年)「明治製菓」
    • [49]チョコレートはデラックス(1957年)・マーブル(1961年)・ハイミルク(1962年)・チョコバー(1967年)と新商品を継いだ
    • [50]1968年にカール、1971年にチェルシー、1975年にきのこの山を発売した
    • [52]缶入りオレンジジュース(1954年)は国内で最初の発売である
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-量から質へ」
    • [51]日本産業史は「昭和三十九年に発売された『かっぱえびせん』は空前の大ヒット商品となり、その後、『カール』『キャラメルコーン』等、続々スナック菓子が発売された…スナック菓子時代の幕開けとなった」として、カールをかっぱえびせんの後続に位置づけている。カールが業界の先陣を切ったとするのは日本会社史総覧のみの説明
  • 企業の歴史(明治百年)(1968年)「明治製菓」
    • [54]1967年度の総売上高は458億5,600万円、税引利益16億1,600万円で1割8分の配当を行った
  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号
    • [55]1972年4月に総販売代理店の明治商事を合併し製販一体の体制とした
    • [56]従業員は明治商事との合併当初7,400名から1975年に6,800名へ減少した
    • [57]1974年度の総売上高は1,340億円で前年比124%、食料と薬品の売上構成比は70対30である

原料を一切持たない加工業という弱点

菓子の側には構造的な弱点があった。1975年当時、原料の自給率はココア豆とコーヒー豆がゼロ、砂糖20%、でん粉30%で[58]、価格は産出国の政策に左右される。台湾の砂糖を後ろ盾に生まれた会社が、原料をまったく持たない加工業になっていたことになる。中川赳社長はこれに対し、品質と規格を厳しく指定して買うのではなく、どんな原料でも使いこなせる技術を持つことが生き残りの条件だと述べた。加えてマレーシアにココアの試験栽培農場を設け、シンガポールの合弁会社を原材料の集散[59]と情報の拠点にも使っている。1973年の石油危機以降、菓子の需要数量は1973年に前年比2.5%減、1974[60]年に4%減と2年続けて落ち込んだ。

  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号
    • [58]1975年時点の原料自給率はココア豆・コーヒー豆がゼロ%、砂糖20%、でん粉30%である
    • [59]マレーシアにココア豆の試験栽培農場を持ち、シンガポールの合弁会社を原材料の集散・情報活動にも使った
    • [60]菓子の需要数量は1973年に前年比2.5%減、1974年に4%減と2年連続で落ち込んだ

需要の側でも菓子の位置は動いていた。1964年のかっぱえびせんに始まるスナック菓子の流行は[61]、キャラメルやチョコレートといった従来品の相対的な地盤を下げた。1970年前後には食生活そのものが変わり、インスタント食品・レトルト・冷凍食品が広がって、1971年は外食産業元年と呼ばれる[62]。食品への支出は菓子以外の分野へ分散した。明治製菓は1969年に明治製菓リテリアルを設立してボウリング場やガソリンスタンドの経営にも入ったが[63]、これは本業の伸びを補う多角化であって、本流にはならなかった。同じ時期、森永製菓や不二家はドライブレストラン、ロッテはレジャーランドへ向かっている。

  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-量から質へ」
    • [61]昭和39年(1964年)に発売されたかっぱえびせんが空前の大ヒットとなり、その後カール・キャラメルコーン等が続いてスナック菓子時代の幕開けとなった
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「運輸-大量輸送時代の到来」
    • [62]【訂正反映済み】外食産業元年は昭和46年(1971年)である。日本マクドナルドの設立(昭和46年5月)と銀座三越の1号店開業(同年7月)、ミスタードーナツ・ダンキンドーナツの1号店開業を指して「まさにこの年昭和四十六年は"外食産業元年"といえる」と記されている
    • [63]1969年に明治製菓リテリアルを設立しボウリング場・ガソリンスタンド・洗車場を経営した
  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号
    • [58]1975年時点の原料自給率はココア豆・コーヒー豆がゼロ%、砂糖20%、でん粉30%である
    • [59]マレーシアにココア豆の試験栽培農場を持ち、シンガポールの合弁会社を原材料の集散・情報活動にも使った
    • [60]菓子の需要数量は1973年に前年比2.5%減、1974年に4%減と2年連続で落ち込んだ
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-量から質へ」
    • [61]昭和39年(1964年)に発売されたかっぱえびせんが空前の大ヒットとなり、その後カール・キャラメルコーン等が続いてスナック菓子時代の幕開けとなった
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「運輸-大量輸送時代の到来」
    • [62]【訂正反映済み】外食産業元年は昭和46年(1971年)である。日本マクドナルドの設立(昭和46年5月)と銀座三越の1号店開業(同年7月)、ミスタードーナツ・ダンキンドーナツの1号店開業を指して「まさにこの年昭和四十六年は"外食産業元年"といえる」と記されている
    • [63]1969年に明治製菓リテリアルを設立しボウリング場・ガソリンスタンド・洗車場を経営した

菓子部門の赤字と薬品への資源集中、そして統合による幕引き

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明治製菓の沿革1906〜2009年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1906〜1925年砂糖の売り先を自ら作る ── 台湾製糖業から生まれた東京菓子明治製糖を台湾に創立
東京菓子を設立(明治製菓の前身)
房総煉乳を吸収合併し乳製品の生産に着手★★
明治製菓に商号変更
川崎工場を新設
1926〜1957年焼け跡の発酵タンク ── 砂糖と外地を失った会社が薬に出る明治ミルクチョコレートを発売★★
乳業部門の全事業所を明治乳業へ譲渡★★
川崎工場が空襲で全焼・海外資産を喪失★★
戦災を受けた川崎工場でのペニシリン製造の開始と、抗生物質の原末一貫生産体制の構築

空襲で主力の川崎工場を焼失し、砂糖も小麦粉も統制下に置かれた1946年、明治製菓は戦時中から研究していたペニシリンの製造を川崎工場で始めた。菓子素材の培養に使ってきた発酵技術を抗生物質へ向け、原末から製剤まで一貫して作る体制へ進んだ。

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★★★
東京証券取引所に株式を上場
ストレプトマイシンの製造を開始★★
制がん剤ザルコマイシンを発売★★
1958〜1979年東洋一の原末工場と、菓子が薬を養う構造梅沢浜夫博士が発見したカナマイシンの工業化と、菌の培養から原末・製剤までの一貫生産の確立

1958年、明治製菓は国立予防衛生研究所の梅沢浜夫博士が発見した抗生物質を工業化し、カナマイシンとして発売した。原末を輸入して製剤にする当時の日本の製薬業の作り方をとらず、菌の培養から原末、製剤までを自社で作る一貫生産をこの製品で固めた。

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★★★
中央研究所を新設
足柄工場(薬品原末)を開設
スナック菓子「カール」を発売
岐阜工場を新設
総販売代理店の明治商事を合併
食料合弁会社を設立
薬品合弁会社を設立
きのこの山を発売
1980〜2009年菓子部門の赤字と薬品への資源集中、そして統合による幕引き不採算菓子工場の閉鎖と食品事業の構造改善、薬品部門への経営資源の集中

1980年3月期に菓子を中心とする食料部門が30億円の経常欠損を出し、薬品部門の61億円の黒字がこれを埋めた。明治製菓は減収減益・減配に至ったこの決算を受け、菓子部門を退職者不補充と工場閉鎖で縮め、研究開発費の8割を薬品へ振り向けた。

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★★★
函館工場と上山分工場を閉鎖
抗生物質ホスミシンを発売
「経営10年ビジョン」を策定
果汁グミを発売
川崎工場跡地にオフィスビル「ソリッドスクエア」が竣工
高カカオチョコレート「チョコレート効果」を発売
健康食品「アミノコラーゲン」を発売
東京証券取引所での株式を上場廃止
明治製菓と明治乳業の経営統合、持株会社・明治ホールディングスの設立

2008年9月、明治製菓と明治乳業が経営統合を発表し、翌2009年4月に共同株式移転で持株会社・明治ホールディングスを設立、2011年4月には菓子・乳業という会社区分を解いて食品『明治』と医薬『Meiji Seika ファルマ』へ再編した経営判断。

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★★★
明治HDの完全子会社に
出典・参考
  • 明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)【沿革】
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治商事」
  • 企業の歴史(明治百年)(1968年)「明治製菓」
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製糖-新渡戸局長と台湾糖」
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-量から質へ」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「運輸-大量輸送時代の到来」
  • 日本会社史総覧(1995年)「明治製菓」
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号
  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号
  • 証券アナリストジャーナル 1980年11月号

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