明治製菓 の歴史

創業

1916年

創業者

濱田録之助、相馬半治

創業地

東京都中央区

直近売上高(2010/3)

4,110億円

長期業績と転換点(1992/3〜2010/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ台湾で製糖を営んだ資本が、1916年に設立された東京の菓子会社と一つになったのか
A 粗糖は、作っただけでは値がつかなかった。明治40年代前半、台湾の粗糖を内地で買う相手は事実上、大日本製糖1社に限られており、粗糖会社は個別に売り込めば買い叩かれる立場にあった。売り先を自ら持つほかなかった。1916年12月、明治製糖の相馬半治氏らが資本金150万円の大正製菓を設立する。ところがその2か月前、同じ事業を営む東京菓子が濱田録之助氏らによって東京で立ち上がっていた。両社は翌1917年3月に合併し、資本の出どころは明治製糖側、社名と設立日は先に立った東京菓子側が残る。1924年9月に明治製菓へ改めた
Q なぜ1946年の明治製菓は、菓子の復旧と並行して抗生物質にまで手を伸ばしたのか
A 菓子だけでは戻れなかった。1945年1月に主力の川崎工場が空襲で全焼し、親会社の明治製糖は台湾・朝鮮の外地資産をすべて失って、砂糖という原料の後ろ盾が消えている。一方、菓子と乳製品のために持っていた発酵と培養の設備・技術は、そのまま抗生物質へ移せた。1946年11月、焼けた川崎工場の一部でペニシリンの製造を始め、同月に来日した米テキサス大学のフォスター博士から技術の公開と種菌の分与を受けて量産に進む。残存設備を副業に転じて復興の資本を作る例は、味の素のDDTなど同時代に並んでいた
Q なぜ1980年に菓子の赤字を薬品で埋めた会社が、2009年には統合で幕を閉じたのか
A 薬品へ資源を寄せる判断は、当座は当たった。1980年3月期に食料部門が経常30億円の欠損を出し、薬品部門の61億円がこれを埋めると、明治製菓は不採算工場を閉じ、食品事業を縮小して、2年後には過去最高益へ戻している。ただし菓子と薬品の双方に投じ続け、どちらでも他社を引き離す規模に届かなかった。1982年に掲げた1991年度6,100億円の構想に対し、実績は3,421億円にとどまる。2005年3月期の純損失を底に4期続けて増収へ転じたが、その途中で明治乳業との統合を選び、2009年3月に上場を廃止した

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1906年〜 砂糖の売り先を自ら作る ── 台湾製糖業から生まれた東京菓子

  1. 1906年明治製糖を台湾に創立
  2. 1916年東京菓子を設立(明治製菓の前身)
  3. 1920年房総煉乳を吸収合併し乳製品の生産に着手
  4. 1924年明治製菓株式会社に社名変更
  5. 1925年川崎工場を建設

明治製菓の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

台湾で砂糖を作った会社が、菓子に出た理由

明治製菓の資本は、台湾の砂糖から出ている。台湾総督府は新渡戸稲造氏を殖産局長に迎え、ジャワの糖業を視察させたうえで、1901年9月に「糖業改良意見書」をまとめさせた。翌1902年6月に公布された台湾糖業奨励規則は、奨励金と補助金を経営規模・生産能力・設備機械の種別で区切って交付する制度で、在来の手工業的な製糖場を保護の対象からはずしていた。近代的な機械製糖に資本を集める政策であり、内地の資本家が相次いで台湾へ渡った。1906年12月、総督府糖務局の技師で東京高等工業学校教授を兼ねていた相馬半治氏が、小川朝吉氏・浅田正文氏・渋沢栄一氏らと資本金500万円で明治製糖を創立したのも、この政策の内側での出来事である。 [1][2][3][4]

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製糖-新渡戸局長と台湾糖」
    • [1]後藤新平が新渡戸稲造を殖産局長に迎えて糖業振興策を検討させ、新渡戸は明治34年(1901年)9月に「糖業改良意見書」をまとめた。1901年9月は意見書の提出時点であって殖産局長就任の時点ではない
    • [2]1902年6月に台湾糖業奨励規則が公布され、小規模な在来製糖場は保護対象からはずされた
    • [3]相馬半治は台湾総督府糖務局技師で東京高等工業学校教授を兼ねていた
    • [4]明治製糖の設立は1906年12月・資本金500万円である

砂糖は作れば売れる商品ではなかった。1899年の関税定率法は粗糖に国定税率を残す一方、精製糖には低い協定税率を認めており、台湾で粗糖を作る側と内地で精製する側の利害は最初から食い違っていた。しかも明治40年代前半、内地で原料糖を買う相手は事実上、大日本製糖1社しかない。日糖は輸入原料糖戻税法によって安い外国糖を確保でき、1908年には自ら台湾斗六庁内に粗糖工場まで持った。売り先が1社に絞られた粗糖会社は、個別に売り込めば買い叩かれる。1909年秋、台湾・明治・東洋・塩水港の4社は共同して日糖と原料糖売買契約を結び、翌1910年10月には台湾糖業連合会を組織した。売り先を自ら作るという発想は、この買い手1社の交渉を経て出てきた。 [5][6][7][8]

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製糖-新渡戸局長と台湾糖」
    • [5]1899年の関税定率法で粗糖には国定税率、精製糖には低い協定税率が残った
    • [6]明治40年代前半、内地における原料糖の買い手は事実上、大日本製糖だけだった
    • [7]1909年秋に台湾・明治・東洋・塩水港の四社が共同して日糖と原料糖売買契約を結んだ
    • [8]1910年10月に粗糖会社が台湾糖業連合会を結成した

出口を自前で持つ試みは、菓子より先に精製糖で始まっている。1911年7月の関税定率法改正で輸入精製糖の協定税率と内地向け戻税制度が廃止されると、同じ年に台湾製糖は神戸精糖を、明治製糖は横浜精糖を買収した。粗糖会社が内地の精製糖業へ進出した最初の例である。そのうえで、砂糖を最も多く使う加工品である菓子まで手を伸ばす。第一次世界大戦で欧州からの菓子輸入が途絶し、国産化の余地が広がっていた時期にあたる。菓子はすでに森永太一郎氏の会社が1910年に法人化して1912年に森永製菓へ改称し、東洋製菓がイギリス製機械でビスケットの量産を始めているなど、先行者のいる分野であった。 [9][10][11][12]

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製糖-新渡戸局長と台湾糖」
    • [9]1911年7月の関税定率法改正で輸入精製糖の協定税率と内地向け精製糖の戻税制度が廃止された
    • [10]1911年に台湾製糖が神戸精糖を、明治製糖が横浜精糖を買収した
    • [11]森永太一郎は明治43年(1910年)に個人営業から資本金50万円の株式会社「森永商店」へ改組し、大正元年(1912年)に社名を「森永製菓」と改めた。法人化は1910年、1912年は社名変更である
    • [12]東洋製菓は明治33年(1900年)創立で資本金20万円、イギリス製の新機械を入れイギリス人技師の指導を得てビスケットの大量生産を始めた
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製糖-新渡戸局長と台湾糖」
    • [1]後藤新平が新渡戸稲造を殖産局長に迎えて糖業振興策を検討させ、新渡戸は明治34年(1901年)9月に「糖業改良意見書」をまとめた。1901年9月は意見書の提出時点であって殖産局長就任の時点ではない
    • [2]1902年6月に台湾糖業奨励規則が公布され、小規模な在来製糖場は保護対象からはずされた
    • [3]相馬半治は台湾総督府糖務局技師で東京高等工業学校教授を兼ねていた
    • [4]明治製糖の設立は1906年12月・資本金500万円である
    • [5]1899年の関税定率法で粗糖には国定税率、精製糖には低い協定税率が残った
    • [6]明治40年代前半、内地における原料糖の買い手は事実上、大日本製糖だけだった
    • [7]1909年秋に台湾・明治・東洋・塩水港の四社が共同して日糖と原料糖売買契約を結んだ
    • [8]1910年10月に粗糖会社が台湾糖業連合会を結成した
    • [9]1911年7月の関税定率法改正で輸入精製糖の協定税率と内地向け精製糖の戻税制度が廃止された
    • [10]1911年に台湾製糖が神戸精糖を、明治製糖が横浜精糖を買収した
    • [11]森永太一郎は明治43年(1910年)に個人営業から資本金50万円の株式会社「森永商店」へ改組し、大正元年(1912年)に社名を「森永製菓」と改めた。法人化は1910年、1912年は社名変更である
    • [12]東洋製菓は明治33年(1900年)創立で資本金20万円、イギリス製の新機械を入れイギリス人技師の指導を得てビスケットの大量生産を始めた

二か月違いで立った二社の合併と、残った社名

明治製菓の創業を「明治製糖が菓子会社を作った」と一文で書くと、実際の経緯からずれる。1916年10月9日、濱田録之助氏らが資本金100万円で東京菓子を設立した。その2か月後の同年12月、明治製糖の相馬半治氏と有島健助氏が、製菓と製乳を目的とする資本金150万円の大正製菓を別に設立している。同じ事業を営む会社が二つ並んで立った形になり、翌1917年3月、資本金の大きい大正製菓を東京菓子へ合併して資本金250万円とした。存続したのは先に立った東京菓子であり、社名もそちらが残った。明治製菓が設立日として1916年10月9日を掲げるのは、この合併の向きによる。 [13][14][15][16]

  • 明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)【沿革】
    • [13]東京菓子は大正5年(1916年)10月9日に資本金100万円で設立された
  • 日本会社史総覧(1995年)「明治製菓」
    • [14]会社銀行八十年史「明治製菓」は「同年十月資本金百万円の東京菓子が創立された」と書くのみで創業者名を挙げていない。人名「濱田録之助」の出所は日本会社史総覧「明治製菓」の項(「濱田録之助により東京菓子㈱が資本金100万円で設立された」)であり、同書の明治乳業の項では「濱口録之助」と表記が割れている
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [15]明治製糖の相馬半治・有島健助が大正5年(1916年)12月に資本金150万円の大正製菓を設立した。東京菓子(同年10月)との差は2か月であり、日本会社史総覧も「その2カ月後、明治製糖社長の相馬半治は同じ目的で大正製菓㈱を設立した」と書く
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製糖-新渡戸局長と台湾糖」
    • [16]1917年3月に大正製菓を東京菓子へ合併し資本金250万円となった

合併後の東京菓子は、東京府大久保町に工場を建てて製菓を始めた。ただし当初の事業は順調ではない。未経験の分野であり、技術も販路も足りず、商標を広めるための宣伝に大きな労力を要した。1920年12月には房総煉乳を吸収合併して乳製品にも入るが、世界的な不況と重なって伸びを欠いた。転機は設備の側から来る。1925年4月に大久保工場が出火して半焼したのを機に、かねて計画していた川崎工場の建設に踏み切った。キャラメル・ドロップ・キャンデー・ビスケットを量産できる近代的な工場が立ち上がって、ようやく菓子部門が採算に乗る。社名を明治製菓に改めたのは、その前年の1924年9月であった。 [17][18][19]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [17]1920年12月に房総煉乳を吸収合併して乳製品の生産に着手した
    • [19]1924年9月に東京菓子から明治製菓へ社名を変更した
  • 企業の歴史(明治百年)(1968年)「明治製菓」
    • [18]1925年4月の大久保工場の出火半焼を機に川崎工場を開設した

この時期に、のちの明治グループの輪郭が揃う。1920年11月には明治製糖と明治製菓の販売機関として明治商店が設立された。発起人は明糖社長の相馬半治氏と専務の有島健助氏、初代社長には有島氏が就いている。同社は1942年に明治商事へ改称し、砂糖・菓子・乳製品・食品缶詰を扱う系列の販売会社として国内外に事業所を広げた。製糖が原料を作り、製菓が加工し、商事が売る。台湾の砂糖から菓子の店頭まで、三つの会社が垂直に連なった。この連なりが機能したのは、明治製糖が外地を保有していた期間に限られる。 [20][21][22]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治商事」
    • [20]明治商店は1920年11月17日に明治製糖・明治製菓の販売機関として設立された
    • [21]明治商店は相馬半治と有島健助の発起により設立され、初代社長は有島健助である(『会社銀行八十年史』明治商事の項の表記は「有嶋」)
    • [22]明治商店は1942年6月に明治商事へ社名を変更した
  • 明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)【沿革】
    • [13]東京菓子は大正5年(1916年)10月9日に資本金100万円で設立された
  • 日本会社史総覧(1995年)「明治製菓」
    • [14]会社銀行八十年史「明治製菓」は「同年十月資本金百万円の東京菓子が創立された」と書くのみで創業者名を挙げていない。人名「濱田録之助」の出所は日本会社史総覧「明治製菓」の項(「濱田録之助により東京菓子㈱が資本金100万円で設立された」)であり、同書の明治乳業の項では「濱口録之助」と表記が割れている
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [15]明治製糖の相馬半治・有島健助が大正5年(1916年)12月に資本金150万円の大正製菓を設立した。東京菓子(同年10月)との差は2か月であり、日本会社史総覧も「その2カ月後、明治製糖社長の相馬半治は同じ目的で大正製菓㈱を設立した」と書く
    • [17]1920年12月に房総煉乳を吸収合併して乳製品の生産に着手した
    • [19]1924年9月に東京菓子から明治製菓へ社名を変更した
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製糖-新渡戸局長と台湾糖」
    • [16]1917年3月に大正製菓を東京菓子へ合併し資本金250万円となった
  • 企業の歴史(明治百年)(1968年)「明治製菓」
    • [18]1925年4月の大久保工場の出火半焼を機に川崎工場を開設した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治商事」
    • [20]明治商店は1920年11月17日に明治製糖・明治製菓の販売機関として設立された
    • [21]明治商店は相馬半治と有島健助の発起により設立され、初代社長は有島健助である(『会社銀行八十年史』明治商事の項の表記は「有嶋」)
    • [22]明治商店は1942年6月に明治商事へ社名を変更した

1926年〜 焼け跡の発酵タンク ── 砂糖と外地を失った会社が薬に出る

  1. 1926年明治ミルクチョコレートを発売
  2. 1940年神奈川県小田原市に鴨宮工場を開設
  3. 1943年乳業部門の全事業所を明治乳業へ譲渡
  4. 1945年川崎工場が空襲で全焼・海外資産を喪失
  5. 1946年ペニシリンの製造を開始
  6. 1950年ストレプトマイシンの製造を開始
  7. 1954年制がん剤ザルコマイシンを発売

明治製菓の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

統制経済が削り取った事業と、失われた原料の後ろ盾

1926年9月、明治製菓は明治ミルクチョコレートを発売し、初めて新聞広告を打った。「チョコレートは明治」という評価はここから積み上がる。1936年6月には果実缶詰の製造を始めて食品事業にも入り、ヨーロッパへの輸出も行った。しかし戦時の統制は、その積み上げを事業単位で剥がしていった。日中戦争の長期化で食糧品工業が制約を受けると、1941年に北海道の乳製品6工場を北海道興農公社へ、1942年から1943年にかけて食品部門の4工場を各府県の合同食品会社へ、いずれも現物出資の形で手放した。さらに1940年から明治乳業に委任経営していた乳業部門の全事業所を、1943年9月に同社へ譲渡している。同じ1942年にはチョコレートの製造そのものが禁じられ、軍への納品で操業をつないだ。 [23][24][25][26]

  • 日本会社史総覧(1995年)「明治製菓」
    • [23]1936年6月に果実缶詰の製造を開始して食品事業に進出し、ヨーロッパへの輸出も行った
    • [24]1942年に太平洋戦争でチョコレートの製造が禁止され、軍への納品で操業をつないだ
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [25]1941年に北海道の乳製品6工場を北海道興農公社へ現物出資した
    • [26]1943年9月に乳業部門の全事業所を明治乳業へ譲渡した

1945年1月、主力の川崎工場が空襲で全焼した。終戦時に残ったのは菓子部門4工場・食品部門2工場と、休止中の1工場のみである。打撃は自社の設備にとどまらない。親会社の明治製糖は台湾・朝鮮の外地資産をすべて失い、内地資産も1945年に連合国の管理下へ置かれた。砂糖の供給源そのものが消えた。精糖業の集中度を見ると、1949年末に9社9工場・日産溶糖能力585トンだったものが、1955年末には27社38工場・8,995トンへ広がっている。外地を失った戦前派の大企業が、新規業者と同じ位置に並び直したためである。原料の後ろ盾を持つ菓子会社という第1章の構図は、ここで失われた。 [27][28][29]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [27]1945年1月に川崎工場が空襲で全焼した
    • [28]終戦時に残った工場は菓子部門4・食品部門2・休止中1のみだった
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [29]精糖業の日産溶糖能力は1949年末の9社9工場585トンから1955年末に27社38工場8,995トンへ拡散した
  • 日本会社史総覧(1995年)「明治製菓」
    • [23]1936年6月に果実缶詰の製造を開始して食品事業に進出し、ヨーロッパへの輸出も行った
    • [24]1942年に太平洋戦争でチョコレートの製造が禁止され、軍への納品で操業をつないだ
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [25]1941年に北海道の乳製品6工場を北海道興農公社へ現物出資した
    • [26]1943年9月に乳業部門の全事業所を明治乳業へ譲渡した
    • [27]1945年1月に川崎工場が空襲で全焼した
    • [28]終戦時に残った工場は菓子部門4・食品部門2・休止中1のみだった
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [29]精糖業の日産溶糖能力は1949年末の9社9工場585トンから1955年末に27社38工場8,995トンへ拡散した

発酵設備の転用という戦後復興の型

焼けた川崎工場の一部で、明治製菓は1946年11月にペニシリンの製造を始めた。戦時中から社内で研究していた素材である。同月に来日した米テキサス大学のフォスター博士から米国技術の全面的な公開と種菌の分与を受け、個別の生産指導を得て、タンク培養による量産へ進んだ。菓子と乳製品で扱ってきた発酵と培養の設備・技術が、そのまま抗生物質へ移せたことが参入の条件であった。この転用は明治製菓だけの発想ではない。味の素は残存設備でDDTの原剤生産に入り、明治製糖と台糖は発酵技術を生かして薬品を作り、大日本製糖はパン用イーストへ向かった。戦前派の大企業が副業で復興の資金を作った時期であり、明治製菓の転用もその一例であった。 [30][31][32]

  • 明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)【沿革】
    • [30]1946年11月に川崎工場でペニシリンの製造を開始し薬品事業へ進出した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [31]1946年11月に来日した米テキサス大学フォスター博士から技術の公開・種菌の分与・生産指導を受けた
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [32]味の素のDDT、明治製糖・台糖の薬品、大日本製糖のパン用イーストなど、残存設備を利用した副業で復興資本を蓄積する例が同時代に並んだ

薬品の系列は10年足らずで厚みを持った。1947年10月から研究試作していたストレプトマイシンを1950年7月に製造販売し、翌1951年には米メルク社と技術援助契約を結んで品質と収率を高めた。1953年10月には自社の種菌と製法によるクロルテトラサイクリンの工業化に成功し、1954年2月から販売している。同年10月には制がん剤ザルコマイシンを発売した。梅沢浜夫氏の研究に協力し、放線菌の培養液から抽出した抗生物質である。当初は低温でなければ保存できない液剤で、粉末化して改めて売り出した。がんは手術でなければ治らないとされていた時期にあたり、化学療法の側から手を伸ばした製品であった。 [33][34][35]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [33]1950年7月にストレプトマイシンを製造販売し、1951年に米メルク社と技術援助契約を結んだ
    • [34]1953年10月にクロルテトラサイクリンの工業化に成功し1954年2月に販売を開始した
  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」
    • [35]制がん剤ザルコマイシンは梅沢浜夫の研究に協力して放線菌の培養液から抽出したもので、1954年に粉末化して発売した

一方、本業の菓子は統制の解除とともに競争へ戻った。1949年11月に水あめの統制が解け、1950年1月にキャラメルの自由販売が認められ、1952年には砂糖と小麦粉の統制が撤廃される。国民が甘味に飢えていたことを支えに新規参入が相次ぎ、キャラメルメーカーだけで1951年には218社を数えた。明治製菓は川崎工場を復旧し、1950年に買収した上ノ山・京都の両工場、1952年の合併による東京・名古屋工場、1955年4月新設の大阪工場を加えて生産を戻す。キャラメル・ビスケット・チョコレートはいずれも戦前の最盛期を上回り、1955年3月期の売上高は52億円に達した。 [36][37][38]

  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [36]統制解除後にキャラメルメーカーは1951年に218社まで増えた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [37]1955年3月期の売上高は52億円である
    • [38]1955年4月新設の大阪工場は英国製の連続ビスケット製造装置2基を備えた月産1,200トンの工場である
  • 明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)【沿革】
    • [30]1946年11月に川崎工場でペニシリンの製造を開始し薬品事業へ進出した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [31]1946年11月に来日した米テキサス大学フォスター博士から技術の公開・種菌の分与・生産指導を受けた
    • [33]1950年7月にストレプトマイシンを製造販売し、1951年に米メルク社と技術援助契約を結んだ
    • [34]1953年10月にクロルテトラサイクリンの工業化に成功し1954年2月に販売を開始した
    • [37]1955年3月期の売上高は52億円である
    • [38]1955年4月新設の大阪工場は英国製の連続ビスケット製造装置2基を備えた月産1,200トンの工場である
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [32]味の素のDDT、明治製糖・台糖の薬品、大日本製糖のパン用イーストなど、残存設備を利用した副業で復興資本を蓄積する例が同時代に並んだ
    • [36]統制解除後にキャラメルメーカーは1951年に218社まで増えた
  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」
    • [35]制がん剤ザルコマイシンは梅沢浜夫の研究に協力して放線菌の培養液から抽出したもので、1954年に粉末化して発売した

1958年〜 東洋一の原末工場と、菓子が薬を養う構造

  1. 1958年カナマイシンを発売
  2. 1961年神奈川県横浜市に中央研究所を開設
  3. 1963年足柄工場(薬品原末)を開設
  4. 1968年スナック菓子「カール」を発売
  5. 1971年岐阜県本巣郡北方町に岐阜工場を開設
  6. 1972年総販売代理店の明治商事を合併
  7. 1974年シンガポールに食料合弁会社を設立

明治製菓の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

製剤会社で終わらないという設備の選択

1958年、明治製菓はカナマイシンを発売した。国立予防衛生研究所の梅沢浜夫氏が発見した抗生物質を工業化したもので、原末から製剤までを自社で作る一貫生産の体制をこの製品で固めた。当時の日本の製薬会社の多くは、原末(バルク)を輸入して錠剤や注射液に加工していた。医薬品を扱う問屋や輸入商社がメーカーになった経緯から、原体を自ら作る歴史を持たなかったためである。原末の内製には多額の設備資金と高い技術が要り、新陳代謝の激しい医薬品では投資が回収できない危険も伴う。それでも一貫生産を選んだのは、資本自由化を控えて価格競争力を確保するためであった。 [39][40][41]

  • 日本会社史総覧(1995年)「明治製菓」
    • [39]日本会社史総覧は「同社が国産化に成功した国産の抗生物質カナマイシンを1958年から発売した」と年のみを記す。明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)【沿革】に製品発売の記載はなく、「1958年1月」の月まで特定した出所は資産内に見当たらない
  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」
    • [40]カナマイシンは国立予防衛生研究所の梅沢浜夫が発見した抗生物質である
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」
    • [41]当時の日本の製薬会社の多くは原末を購入して製剤化するのみで、原体を自社生産する歴史を持たなかった

設備はこの選択に沿って積み上がった。1963年10月、貿易自由化への備えとして川崎・淀川に分散していた原末工場を足柄工場へ集中させる。同工場の設備は数年で当初の4〜5倍に拡張され、1969年には世界初の300トン超大型発酵槽を設置した。1970年時点の培養タンク総容量は2,500トン、そこから得られる抗生物質は350トンで国内首位、世界でも5指に入る規模である。それでも足りず、約60億円を投じて岐阜郊外に5万坪を購入し、1971年に岐阜工場を建てた。1976年には岩手県北上市に約50億円で北上工場を加える。1980年時点の培養タンク総容量は4,500トン、抗生物質の年間生産能力は2,000トンを超えた。 [42][43][44][45]

  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」
    • [42]1963年に川崎・淀川の原末工場を足柄工場へ集中させた
    • [43]1970年時点で培養タンク総容量2,500トン・抗生物質350トンで国内首位・世界5指に入る規模だった
    • [44]岐阜工場は約60億円を投じて5万坪の土地を購入し1971年に完成した
  • 証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」
    • [45]1980年時点の培養タンク総容量は4,500トン、抗生物質の年間生産能力は2,000トン以上である
  • 日本会社史総覧(1995年)「明治製菓」
    • [39]日本会社史総覧は「同社が国産化に成功した国産の抗生物質カナマイシンを1958年から発売した」と年のみを記す。明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)【沿革】に製品発売の記載はなく、「1958年1月」の月まで特定した出所は資産内に見当たらない
  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」
    • [40]カナマイシンは国立予防衛生研究所の梅沢浜夫が発見した抗生物質である
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」
    • [41]当時の日本の製薬会社の多くは原末を購入して製剤化するのみで、原体を自社生産する歴史を持たなかった
    • [42]1963年に川崎・淀川の原末工場を足柄工場へ集中させた
    • [43]1970年時点で培養タンク総容量2,500トン・抗生物質350トンで国内首位・世界5指に入る規模だった
    • [44]岐阜工場は約60億円を投じて5万坪の土地を購入し1971年に完成した
  • 証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」
    • [45]1980年時点の培養タンク総容量は4,500トン、抗生物質の年間生産能力は2,000トン以上である

1960年代後半に開いた菓子と薬品の差

二つの事業の伸びは、1960年代の後半にはっきり分かれた。1964年から1968年までの5年間で、売上の平均成長率は菓子4.3%に対し薬品9.9%、経常利益の成長率は菓子2.1%に対し薬品12.4%である。全国の生産高で見ても、1966年度は菓子4,700億円・薬品5,084億円と拮抗していたものが、1969年度には菓子5,650億円・薬品8,440億円へ開いた。薬品が年率20%前後で伸びる横で、菓子は5%前後にとどまる。会社の総売上高は1967年度458億円、1969年度607億円と伸びたが、その中で薬品の比率は1967年度24.4%から1969年度32.3%へ上がっている。 [46][47][48]

  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」
    • [46]1964〜68年度の平均成長率は売上で菓子4.3%・薬品9.9%、経常利益で菓子2.1%・薬品12.4%である
    • [47]全国生産高は1966年度に菓子4,700億円・薬品5,084億円、1969年度に菓子5,650億円・薬品8,440億円である
    • [48]総売上高は1967年度458億円・薬品24.4%、1969年度607億円・薬品32.3%である

それでも菓子を縮小する判断には進まなかった。チョコレートではデラックス(1957年)、マーブル(1961年)、ハイミルク(1962年)、チョコバー(1967年)と主力商品を継ぎ足し、1968年にはスナック菓子のカールで先行各社を追い、1971年にキャンデーのチェルシー、1975年にきのこの山を出している。缶入りオレンジジュース(1954年)は国内で最初の発売であった。研究開発費は薬品売上の約7%を充て、1970年前後の3年間で中央研究所を約3倍に増設している。菓子の安定した収益が薬品の研究開発を支えるという配分であり、逆ではない。この構造は、他の製菓会社にない強みとして社外からも評価された。1967年度の総売上高458億5,600万円に対して税引利益16億1,600万円を計上し、年1割8分の配当を続けている。菓子・食品・薬品の三本柱という表現は、この時期の実態に即していた。 [49][50][51][52][53][54]

  • 企業の歴史(明治百年)(1968年)「明治製菓」
    • [49]1967年度の総売上高は458億5,600万円、税引利益16億1,600万円で1割8分の配当を行った
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」
    • [50]医薬品売上の約7%を研究費に充て、中央研究所を3年で約3倍に増設した
  • 日本会社史総覧(1995年)「明治製菓」
    • [51]1968年にカール、1971年にチェルシー、1975年にきのこの山を発売した
    • [53]チョコレートはデラックス(1957年)・マーブル(1961年)・ハイミルク(1962年)・チョコバー(1967年)と新商品を継いだ
    • [54]缶入りオレンジジュース(1954年)は国内で最初の発売である
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-量から質へ」
    • [52]日本産業史は「昭和三十九年に発売された『かっぱえびせん』は空前の大ヒット商品となり、その後、『カール』『キャラメルコーン』等、続々スナック菓子が発売された…スナック菓子時代の幕開けとなった」として、カールをかっぱえびせんの後続に位置づけている。カールが業界の先陣を切ったとするのは日本会社史総覧のみの説明

1972年4月、総販売代理店であった明治商事を合併した。製造と販売を一つの会社に収めて、製販一体の体制を作る狙いである。ただし合併は人員も引き受けた。従業員は合併当初の7,400名から、1975年には6,800名へ減っている。付加価値が下がり、労働分配率が業界平均を上回る状態が生じたためで、中川赳社長は少数精鋭による効率経営を課題に挙げた。1974年度の売上高は1,340億円と前年比124%に伸びたが、その内訳は食料70に対し薬品30である。売上の主役は依然として菓子と食品であり、利益の主役が薬品へ移りつつあるという二重の状態が続いた。 [55][56][57]

  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」
    • [55]1972年4月に総販売代理店の明治商事を合併し製販一体の体制とした
    • [56]従業員は明治商事との合併当初7,400名から1975年に6,800名へ減少した
    • [57]1974年度の総売上高は1,340億円で前年比124%、食料と薬品の売上構成比は70対30である
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」
    • [46]1964〜68年度の平均成長率は売上で菓子4.3%・薬品9.9%、経常利益で菓子2.1%・薬品12.4%である
    • [47]全国生産高は1966年度に菓子4,700億円・薬品5,084億円、1969年度に菓子5,650億円・薬品8,440億円である
    • [48]総売上高は1967年度458億円・薬品24.4%、1969年度607億円・薬品32.3%である
    • [50]医薬品売上の約7%を研究費に充て、中央研究所を3年で約3倍に増設した
  • 企業の歴史(明治百年)(1968年)「明治製菓」
    • [49]1967年度の総売上高は458億5,600万円、税引利益16億1,600万円で1割8分の配当を行った
  • 日本会社史総覧(1995年)「明治製菓」
    • [51]1968年にカール、1971年にチェルシー、1975年にきのこの山を発売した
    • [53]チョコレートはデラックス(1957年)・マーブル(1961年)・ハイミルク(1962年)・チョコバー(1967年)と新商品を継いだ
    • [54]缶入りオレンジジュース(1954年)は国内で最初の発売である
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-量から質へ」
    • [52]日本産業史は「昭和三十九年に発売された『かっぱえびせん』は空前の大ヒット商品となり、その後、『カール』『キャラメルコーン』等、続々スナック菓子が発売された…スナック菓子時代の幕開けとなった」として、カールをかっぱえびせんの後続に位置づけている。カールが業界の先陣を切ったとするのは日本会社史総覧のみの説明
  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」
    • [55]1972年4月に総販売代理店の明治商事を合併し製販一体の体制とした
    • [56]従業員は明治商事との合併当初7,400名から1975年に6,800名へ減少した
    • [57]1974年度の総売上高は1,340億円で前年比124%、食料と薬品の売上構成比は70対30である

原料を一切持たない加工業という弱点

菓子の側には構造的な弱点があった。1975年当時、原料の自給率はココア豆とコーヒー豆がゼロ、砂糖20%、でん粉30%で、価格は産出国の政策に左右される。台湾の砂糖を後ろ盾に生まれた会社が、原料をまったく持たない加工業になっていたことになる。中川赳社長はこれに対し、品質と規格を厳しく指定して買うのではなく、どんな原料でも使いこなせる技術を持つことが生き残りの条件だと述べた。加えてマレーシアにココアの試験栽培農場を設け、シンガポールの合弁会社を原材料の集散と情報の拠点にも使っている。1973年の石油危機以降、菓子の需要数量は1973年に前年比2.5%減、1974年に4%減と2年続けて落ち込んだ。 [58][59][60]

  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」
    • [58]1975年時点の原料自給率はココア豆・コーヒー豆がゼロ%、砂糖20%、でん粉30%である
    • [59]菓子の需要数量は1973年に前年比2.5%減、1974年に4%減と2年連続で落ち込んだ
    • [60]マレーシアにココア豆の試験栽培農場を持ち、シンガポールの合弁会社を原材料の集散・情報活動にも使った

需要の側でも菓子の位置は動いていた。1964年のかっぱえびせんに始まるスナック菓子の流行は、キャラメルやチョコレートといった従来品の相対的な地盤を下げた。1970年前後には食生活そのものが変わり、インスタント食品・レトルト・冷凍食品が広がって、1971年は外食産業元年と呼ばれる。食品への支出は菓子以外の分野へ分散した。明治製菓は1969年に明治製菓リテリアルを設立してボウリング場やガソリンスタンドの経営にも入ったが、これは本業の伸びを補う多角化であって、本流にはならなかった。同じ時期、森永製菓や不二家はドライブレストラン、ロッテはレジャーランドへ向かっている。 [61][62][63]

  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「運輸-大量輸送時代の到来」
    • [61]1969年に明治製菓リテリアルを設立しボウリング場・ガソリンスタンド・洗車場を経営した
    • [63]【訂正反映済み】外食産業元年は昭和46年(1971年)である。日本マクドナルドの設立(昭和46年5月)と銀座三越の1号店開業(同年7月)、ミスタードーナツ・ダンキンドーナツの1号店開業を指して「まさにこの年昭和四十六年は"外食産業元年"といえる」と記されている
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-量から質へ」
    • [62]昭和39年(1964年)に発売されたかっぱえびせんが空前の大ヒットとなり、その後カール・キャラメルコーン等が続いてスナック菓子時代の幕開けとなった
  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」
    • [58]1975年時点の原料自給率はココア豆・コーヒー豆がゼロ%、砂糖20%、でん粉30%である
    • [59]菓子の需要数量は1973年に前年比2.5%減、1974年に4%減と2年連続で落ち込んだ
    • [60]マレーシアにココア豆の試験栽培農場を持ち、シンガポールの合弁会社を原材料の集散・情報活動にも使った
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「運輸-大量輸送時代の到来」
    • [61]1969年に明治製菓リテリアルを設立しボウリング場・ガソリンスタンド・洗車場を経営した
    • [63]【訂正反映済み】外食産業元年は昭和46年(1971年)である。日本マクドナルドの設立(昭和46年5月)と銀座三越の1号店開業(同年7月)、ミスタードーナツ・ダンキンドーナツの1号店開業を指して「まさにこの年昭和四十六年は"外食産業元年"といえる」と記されている
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-量から質へ」
    • [62]昭和39年(1964年)に発売されたかっぱえびせんが空前の大ヒットとなり、その後カール・キャラメルコーン等が続いてスナック菓子時代の幕開けとなった

1980年〜 菓子部門の赤字と薬品への資源集中、そして統合による幕引き

  1. 1980年食料部門が経常30億円の欠損を計上
  2. 1980年函館工場と上山分工場を廃止
  3. 1981年抗生物質ホスミシンを発売
  4. 1982年「経営10年ビジョン」を策定
  5. 1988年果汁グミを発売
  6. 1995年川崎工場跡地にオフィスビル「ソリッドスクエア」が竣工
  7. 2009年明治乳業との共同株式移転により明治ホールディングスを設立し、その完全子会社となる

明治製菓の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

食料30億円の欠損を薬品61億円で埋めた期

1980年3月期、明治製菓は減収減益となり、配当を減らした。食料部門が経常損益で30億円の欠損を出し、薬品部門の61億円の黒字がこれを埋めた期である。菓子への需要が数年にわたって冷え込んだことが直接の原因で、他の大手菓子メーカーも同じ影響を受けている。需要側の変化は業界の記録にも残る。1980年代の前半には甘さ離れが進み、甘さ控えめをうたう食品が相次いで発売された。1981年に登場した缶入りウーロン茶は、喉を潤したいがカロリーや糖分は取りたくないという層をつかみ、甘くない飲料として定着した。菓子が安定した収益源であるという第3章の前提が、ここで崩れた。 [64][65]

  • 日経ビジネス 1980年8月25日号「明治製菓。菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦」
    • [64]昭和55年(1980年)3月期は「菓子を中心とした食料部門は経常利益で30億円の欠損。一方,薬品部門は61億円の黒字を出し,菓子の不振をカバーした。伝統ある菓子部門が大幅欠損となったのは初めて」と報じられた。数値の出所は証券アナリストジャーナル1980年11月号ではなく日経ビジネス1980年8月25日号である(同ジャーナルは減収減益・減配と食料部門の業績低迷を述べるのみで、部門別損益の金額を記していない)
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-食の多様化・グローバル化」
    • [65]1980年代前半に甘さ離れが進み、甘さ控えめ食品や甘くない缶飲料が定着した

対応は生産と販売の両面に及んだ。1980年9月末で函館工場と上山分工場を廃止して生産拠点を集約し、収益の足を引く食品事業については構造改善策をまとめて労働組合との協議に入り、同年12月から実施した。これと並行して、薬品では大型新薬の申請を進めた。緑膿菌や既存の抗生物質が効かない耐性菌に有効な新系列の物質ホスホマイシンで、米メルク社が企業化を断念したものを自社の技術で工業化し、1981年1月にホスミシンとして発売する。経営基本構想では、1985年度までに食料と薬品の売上構成比を50対50へ均衡させることを第1の目標に据えている。菓子から撤退したわけではないが、資源の配分先を薬品へ寄せる判断であった。 [66][67][68][69]

  • 証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」
    • [66]1980年9月末で函館工場と上山分工場を廃止し、12月から食品事業の構造改善を実施した
    • [69]経営基本構想では1985年度までに食料と薬品の売上構成比を50対50へ均衡させることを目標とした
  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」
    • [67]ホスホマイシンは米メルク社が企業化できなかった物質を明治製菓の技術で工業化したものである(「この物質については、当初米国のメルク社でも企業化が試みられたが、どうしても実現でき」ず、明治製菓で「企業化のめどが立った」)
  • 証券アナリストジャーナル 1982年6月号「明治製菓 総合ライフ・インダストリーを目指す」
    • [68]ホスホマイシン(製品名ホスミシン)の発売は1981年1月である。1980年11月号の時点では「ホスミシン、ホスミシンSとも薬価収載待ちの段階」であり未発売、1982年6月号は「昨年1月から発売した抗生物質のホスミシン」(=1981年1月)と明記する。日本会社史総覧も「ホスミシン(81年)」とする

立て直しの結果は2年で出た。1982年3月期の売上高は1,895億円で前年比7%増、経常利益119億円(同43%増)、税引利益45億円(同57%増)といずれも過去最高を記録している。部門別では菓子946億円・食品172億円・薬品756億円で、薬品は前年6月の薬価基準引き下げが自社では20%に及びながら、1981年1月発売のホスミシンが補った。食品部門は売上高こそ減ったが、商品数を絞り、流通経路を整理し、支店・営業所を縮小して初めて黒字にした。経常利益の構成比は薬品60に対し食料40である。売上では菓子が主役、利益では薬品が主役という関係が、この期に数字として固まった。 [70][71][72][73]

  • 証券アナリストジャーナル 1982年6月号「明治製菓 総合ライフ・インダストリーを目指す」
    • [70]1982年3月期は売上高1,895億円・経常利益119億円・税引利益45億円で過去最高となった
    • [71]1982年3月期の部門別売上は菓子946億円・食品172億円・薬品756億円である
    • [72]1981年6月の薬価基準引き下げは一般に18.6%とされたが、抗生物質の多い明治製菓では影響が20%に達した
    • [73]1982年3月期の経常利益構成比は薬品60%・食料品40%である
  • 日経ビジネス 1980年8月25日号「明治製菓。菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦」
    • [64]昭和55年(1980年)3月期は「菓子を中心とした食料部門は経常利益で30億円の欠損。一方,薬品部門は61億円の黒字を出し,菓子の不振をカバーした。伝統ある菓子部門が大幅欠損となったのは初めて」と報じられた。数値の出所は証券アナリストジャーナル1980年11月号ではなく日経ビジネス1980年8月25日号である(同ジャーナルは減収減益・減配と食料部門の業績低迷を述べるのみで、部門別損益の金額を記していない)
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-食の多様化・グローバル化」
    • [65]1980年代前半に甘さ離れが進み、甘さ控えめ食品や甘くない缶飲料が定着した
  • 証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」
    • [66]1980年9月末で函館工場と上山分工場を廃止し、12月から食品事業の構造改善を実施した
    • [69]経営基本構想では1985年度までに食料と薬品の売上構成比を50対50へ均衡させることを目標とした
  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」
    • [67]ホスホマイシンは米メルク社が企業化できなかった物質を明治製菓の技術で工業化したものである(「この物質については、当初米国のメルク社でも企業化が試みられたが、どうしても実現でき」ず、明治製菓で「企業化のめどが立った」)
  • 証券アナリストジャーナル 1982年6月号「明治製菓 総合ライフ・インダストリーを目指す」
    • [68]ホスホマイシン(製品名ホスミシン)の発売は1981年1月である。1980年11月号の時点では「ホスミシン、ホスミシンSとも薬価収載待ちの段階」であり未発売、1982年6月号は「昨年1月から発売した抗生物質のホスミシン」(=1981年1月)と明記する。日本会社史総覧も「ホスミシン(81年)」とする
    • [70]1982年3月期は売上高1,895億円・経常利益119億円・税引利益45億円で過去最高となった
    • [71]1982年3月期の部門別売上は菓子946億円・食品172億円・薬品756億円である
    • [72]1981年6月の薬価基準引き下げは一般に18.6%とされたが、抗生物質の多い明治製菓では影響が20%に達した
    • [73]1982年3月期の経常利益構成比は薬品60%・食料品40%である

「経営10年ビジョン」と、届かなかった6,100億円

1982年4月、明治商事との合併から10年を迎えたのを機に、明治製菓は「経営10年ビジョン」を定めた。掲げた理念は「医食同源」で、菓子・食品・薬品に健康産業と新規事業を加えた総合ライフ・インダストリーを目指すという構想である。数字も具体的に置いた。1991年度の売上高6,100億円は1982年3月期の3.2倍にあたり、内訳は菓子2,000億円・食品700億円・薬品2,500億円・健康産業300億円・新規事業500億円。10年間で設備投資1,300億円、研究開発費1,500億円を投じる計画であった。バイオテクノロジーを抗生物質の生産性向上とインターフェロンの開発に充て、米サール社・エンゾー社、スイスのバイオジェン社と相次いで技術提携を結んでいる。 [74][75][76]

  • 証券アナリストジャーナル 1982年6月号「明治製菓 総合ライフ・インダストリーを目指す」
    • [74]経営10年ビジョンは1991年度の売上高目標を6,100億円(1982年3月期の3.2倍)とし、菓子2,000億円・食品700億円・薬品2,500億円・健康産業300億円・新規事業500億円の内訳を置いた
    • [75]10年間で設備投資1,300億円・研究開発費1,500億円を投じる計画であった
    • [76]バイオテクノロジーで米G・Dサール社・エンゾー社、スイスのバイオジェン社と技術提携を結んだ

到達点は構想から遠かった。1992年3月期の連結売上高は3,421億円で、10年ビジョンが1991年度に置いた6,100億円の56%にとどまる。その後も1994年3月期3,271億円、1997年3月期3,610億円、2001年3月期3,589億円と、10年にわたり3,200億円台から3,600億円台の幅を出ていない。この間の経常利益は1994年3月期の42億円を底に2000年3月期の187億円まで振れ、2001年3月期も177億円を確保したが、売上そのものは動かなかった。2005年3月期には売上高3,640億円に対して82億円の当期純損失を計上している。ただしそこが底で、統合前の最後の4期は3,824億円、3,939億円、4,047億円、4,141億円と伸びた。停滞したまま統合したのではなく、戻しかけたところで統合している。 [77][78][79][80]

  • 会社年鑑(東洋経済新報社、1992年版)
    • [77]1992年3月期の連結売上高は3,421億円である
  • 会社年鑑(東洋経済新報社、1994年版・1997年版・2001年版)
    • [78]1994年3月期3,271億円・1997年3月期3,610億円・2001年3月期3,589億円である
  • 明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)
    • [79]2005年3月期は売上高3,640億円・当期純損失82億円である
    • [80]連結売上高は2006年3月期3,824億円・2007年3月期3,939億円・2008年3月期4,047億円・2009年3月期4,141億円と4期連続で伸びた

動かなかったのは合計であって、中身ではない。薬品では抗生物質への偏りを解く作業が続き、1987年のメイセリン、1989年の抗不安薬、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌に効く1990年のハベカシンと、中枢神経系・循環器系へ領域を広げた。一般薬では1983年にイソジンうがい薬、菓子では果汁グミ、健康食品ではスポーツ食品のザバスを加えている。海外にはシンガポールから中国まで合弁会社を置き、薬品の輸出先は60数か国に及んだ。品目も地域も増えたが、合計は増えなかった。理由を一つに絞ることはできない。薬価基準の引き下げが繰り返され、抗生物質偏重の製品構成が影響を強く受けたこと。国内の菓子市場が成熟し、量の拡大が望めなくなったこと。1990年代に流通の主導権が小売側へ移り、製造側がコストを含めた見直しを迫られたこと。円高を背景に東南アジアからの低価格品が逆流したこと。いずれも単独で効くだけの大きさがあった。 [81][82][83][84][85][86]

  • 日本会社史総覧(1995年)「明治製菓」
    • [81]1987年メイセリン・1988年抗ガン剤・1989年抗不安薬・1990年ハベカシン(MRSAに有効)と中枢神経系・循環器系へ領域を広げた
    • [82]イソジンうがい薬は1983年発売である(殺菌剤イソジンは1961年)
    • [86]薬品の輸出先は60数か国に及び、インドネシア・タイ・中国・シンガポール・アメリカに合弁会社を設立した
  • 明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)
    • [83]1990年代を通じて品目も進出先も増えたが、連結売上高の合計は伸びなかった
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-コスト低減と流通の挑戦に揺れる」
    • [84]1990年代に流通主導型への転換が進み、食品メーカーはコストを含めた意識改革を迫られた
    • [85]円高を背景に日本の食品企業が台湾・シンガポール・タイへ進出し、低コスト製品を日本へ逆輸出した
  • 証券アナリストジャーナル 1982年6月号「明治製菓 総合ライフ・インダストリーを目指す」
    • [74]経営10年ビジョンは1991年度の売上高目標を6,100億円(1982年3月期の3.2倍)とし、菓子2,000億円・食品700億円・薬品2,500億円・健康産業300億円・新規事業500億円の内訳を置いた
    • [75]10年間で設備投資1,300億円・研究開発費1,500億円を投じる計画であった
    • [76]バイオテクノロジーで米G・Dサール社・エンゾー社、スイスのバイオジェン社と技術提携を結んだ
  • 会社年鑑(東洋経済新報社、1992年版)
    • [77]1992年3月期の連結売上高は3,421億円である
  • 会社年鑑(東洋経済新報社、1994年版・1997年版・2001年版)
    • [78]1994年3月期3,271億円・1997年3月期3,610億円・2001年3月期3,589億円である
  • 明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)
    • [79]2005年3月期は売上高3,640億円・当期純損失82億円である
    • [80]連結売上高は2006年3月期3,824億円・2007年3月期3,939億円・2008年3月期4,047億円・2009年3月期4,141億円と4期連続で伸びた
    • [83]1990年代を通じて品目も進出先も増えたが、連結売上高の合計は伸びなかった
  • 日本会社史総覧(1995年)「明治製菓」
    • [81]1987年メイセリン・1988年抗ガン剤・1989年抗不安薬・1990年ハベカシン(MRSAに有効)と中枢神経系・循環器系へ領域を広げた
    • [82]イソジンうがい薬は1983年発売である(殺菌剤イソジンは1961年)
    • [86]薬品の輸出先は60数か国に及び、インドネシア・タイ・中国・シンガポール・アメリカに合弁会社を設立した
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-コスト低減と流通の挑戦に揺れる」
    • [84]1990年代に流通主導型への転換が進み、食品メーカーはコストを含めた意識改革を迫られた
    • [85]円高を背景に日本の食品企業が台湾・シンガポール・タイへ進出し、低コスト製品を日本へ逆輸出した

医と食のあいだで見つけた出口と、統合という結末

停滞のなかで伸びた製品は、菓子と医薬の中間にあった。1998年に発売した高カカオチョコレート「チョコレート効果」は、カカオポリフェノールの健康機能を売り物にした板チョコで、2006年4月にカカオ分72%・86%・99%の3種を加えて年間50億円を計画するまでになる。子供の菓子とされてきたチョコレートを、成人の嗜好品として売り直した製品であった。2002年に発売した健康食品「アミノコラーゲン」は、当初まったく売れなかったものを2003年3月に味とイメージカラーを変えて再発売し、美容雑誌でのPRと口コミから広げた。2006年度の目標は売上高100億円。全社の売上が動かないなかで、数少ない伸びる事業であった。 [87][88][89]

  • 週刊東洋経済 2006年6月3日号「マーケティングの達人に会いたい 第130回 明治製菓」
    • [87]チョコレート効果は1998年発売で、2006年4月にカカオ分72%・86%・99%の板チョコ3種を追加しシリーズ年間50億円を計画した
  • 週刊東洋経済 2006年11月11日号「マーケティングの達人に会いたい 第152回 明治製菓」
    • [88]アミノコラーゲンは2002年発売、2003年3月に味とイメージカラーを変えて再発売し、2006年度に売上高100億円を目標とした
  • 週刊東洋経済 2004年10月30日号「ニッポンの技術再発見 第29回 明治製菓」
    • [89]アミノコラーゲンは2004年7月の全国薬局1,000店のPOSデータでシェア21.3%と首位であった

明治製菓が持ち込んだのは、規模ではなく組み合わせであった。統合直前の2009年3月期、明治製菓の連結売上高は4,141億円、明治乳業は7,114億円で、相手方は1.7倍の規模を持っている。株式移転では明治製菓の1株に明治ホールディングスの0.1株、明治乳業の1株に0.117株が割り当てられた。一つの持株会社に入る意味があったのは、乳製品と菓子という国内食品の二つの大きな棚を並べられること、そして明治製菓が持つ医薬とヘルスケアの事業が、乳業単独では届かない領域を埋めることにあった。菓子と食品に薬品を併せ持つ構成は、乳業専業の相手方にはないものであった。1906年に台湾で分かれた資本が、100年あまりを経て一つに戻った。 [90]

  • 明治製菓 有価証券報告書 第150期(2009年3月期)「(4) その他 ③株式移転比率及びその算定根拠」
    • [90]【訂正反映済み】株式移転比率は「当社の普通株式1株に対して共同持株会社の普通株式0.1株を、明治乳業の普通株式1株に対して共同持株会社の普通株式0.117株をそれぞれ割当て交付」であり、明治製菓1.0に対し明治乳業1.17である。1.7ではない

2008年9月、明治製菓と明治乳業は経営統合に合意した。2009年3月に株式の上場を廃止し、翌4月1日の共同株式移転で明治ホールディングスが発足して、両社はその完全子会社となる。1916年10月の設立から92年、1949年5月の東京証券取引所上場から60年で、上場会社としての明治製菓が終わった。残ったものと消えたものは、はっきり分かれた。2011年4月のグループ再編で、菓子・食品の事業は明治乳業の法人が引き受けて株式会社明治となり、明治製菓の法人は医薬に絞ってMeiji Seika ファルマへ商号を変更した。菓子の会社が薬の会社になり、「明治製菓」の名を継いだのは相手方の法人であった。台湾の砂糖を捌くために始めた事業が、最後は発酵タンクの側に残ったことになる。 [91][92][93][94]

  • 明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)【沿革】
    • [91]明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)【沿革】に「平成21年3月 当社株式の上場を廃止」「平成21年4月 明治乳業㈱と共同株式移転の方法により両社の完全親会社である明治ホールディングス㈱を設立し、その完全子会社となる」「昭和24年5月 東京証券取引所に株式を上場」とある
    • [93]【訂正反映済み】1916年10月9日の設立から2009年4月1日までは92年6か月である
  • 明治製菓 有価証券報告書 第150期(2009年3月期)「(4) その他」
    • [92]明治製菓と明治乳業は平成20年(2008年)9月11日の両社取締役会で承認のうえ、同日付で株式移転計画書を作成し統合契約書を締結した
  • 明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)
    • [94]2011年4月の再編で菓子・食品事業は株式会社明治(旧明治乳業)へ移り、明治製菓の法人はMeiji Seika ファルマへ商号変更した
  • 週刊東洋経済 2006年6月3日号「マーケティングの達人に会いたい 第130回 明治製菓」
    • [87]チョコレート効果は1998年発売で、2006年4月にカカオ分72%・86%・99%の板チョコ3種を追加しシリーズ年間50億円を計画した
  • 週刊東洋経済 2006年11月11日号「マーケティングの達人に会いたい 第152回 明治製菓」
    • [88]アミノコラーゲンは2002年発売、2003年3月に味とイメージカラーを変えて再発売し、2006年度に売上高100億円を目標とした
  • 週刊東洋経済 2004年10月30日号「ニッポンの技術再発見 第29回 明治製菓」
    • [89]アミノコラーゲンは2004年7月の全国薬局1,000店のPOSデータでシェア21.3%と首位であった
  • 明治製菓 有価証券報告書 第150期(2009年3月期)「(4) その他 ③株式移転比率及びその算定根拠」
    • [90]【訂正反映済み】株式移転比率は「当社の普通株式1株に対して共同持株会社の普通株式0.1株を、明治乳業の普通株式1株に対して共同持株会社の普通株式0.117株をそれぞれ割当て交付」であり、明治製菓1.0に対し明治乳業1.17である。1.7ではない
  • 明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)【沿革】
    • [91]明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)【沿革】に「平成21年3月 当社株式の上場を廃止」「平成21年4月 明治乳業㈱と共同株式移転の方法により両社の完全親会社である明治ホールディングス㈱を設立し、その完全子会社となる」「昭和24年5月 東京証券取引所に株式を上場」とある
    • [93]【訂正反映済み】1916年10月9日の設立から2009年4月1日までは92年6か月である
  • 明治製菓 有価証券報告書 第150期(2009年3月期)「(4) その他」
    • [92]明治製菓と明治乳業は平成20年(2008年)9月11日の両社取締役会で承認のうえ、同日付で株式移転計画書を作成し統合契約書を締結した
  • 明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)
    • [94]2011年4月の再編で菓子・食品事業は株式会社明治(旧明治乳業)へ移り、明治製菓の法人はMeiji Seika ファルマへ商号変更した

明治製菓の沿革1906〜2009年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
明治製糖を台湾に創立★★
東京菓子を設立(明治製菓の前身)★★★
房総煉乳を吸収合併し乳製品の生産に着手★★
明治製菓株式会社に社名変更★★
川崎工場を建設★★★
明治ミルクチョコレートを発売★★
神奈川県小田原市に鴨宮工場を開設★★
乳業部門の全事業所を明治乳業へ譲渡★★★
川崎工場が空襲で全焼・海外資産を喪失★★★
ペニシリンの製造を開始★★★
東京証券取引所に株式を上場
ストレプトマイシンの製造を開始★★
制がん剤ザルコマイシンを発売★★
カナマイシンを発売★★★
神奈川県横浜市に中央研究所を開設★★
足柄工場(薬品原末)を開設★★
スナック菓子「カール」を発売★★
岐阜県本巣郡北方町に岐阜工場を開設★★
総販売代理店の明治商事を合併★★★
シンガポールに食料合弁会社を設立★★
インドネシアに薬品合弁会社を設立★★
きのこの山を発売★★
岩手県北上市に北上工場を建設★★
食料部門が経常30億円の欠損を計上★★★
函館工場と上山分工場を廃止★★
抗生物質ホスミシンを発売★★
「経営10年ビジョン」を策定★★
果汁グミを発売★★
川崎工場跡地にオフィスビル「ソリッドスクエア」が竣工★★
高カカオチョコレート「チョコレート効果」を発売★★
健康食品「アミノコラーゲン」を発売★★
東京証券取引所での株式の上場を廃止★★
明治乳業との共同株式移転により明治ホールディングスを設立し、その完全子会社となる★★★
出典・参考
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製糖-新渡戸局長と台湾糖」
  • 明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)【沿革】
  • 日本会社史総覧(1995年)「明治製菓」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
  • 企業の歴史(明治百年)(1968年)「明治製菓」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治商事」
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」
  • 証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-量から質へ」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「運輸-大量輸送時代の到来」
  • 日経ビジネス 1980年8月25日号「明治製菓。菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-食の多様化・グローバル化」
  • 証券アナリストジャーナル 1982年6月号「明治製菓 総合ライフ・インダストリーを目指す」
  • 会社年鑑(東洋経済新報社、1992年版)
  • 会社年鑑(東洋経済新報社、1994年版・1997年版・2001年版)
  • 明治製菓 有価証券報告書 第151期(2010年3月期)
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-コスト低減と流通の挑戦に揺れる」
  • 週刊東洋経済 2006年6月3日号「マーケティングの達人に会いたい 第130回 明治製菓」
  • 週刊東洋経済 2006年11月11日号「マーケティングの達人に会いたい 第152回 明治製菓」
  • 週刊東洋経済 2004年10月30日号「ニッポンの技術再発見 第29回 明治製菓」
  • 明治製菓 有価証券報告書 第150期(2009年3月期)「(4) その他 ③株式移転比率及びその算定根拠」
  • 明治製菓 有価証券報告書 第150期(2009年3月期)「(4) その他」

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