明治製菓の資本は、台湾の砂糖から出ている。台湾総督府は新渡戸稲造氏を殖産局長に迎え、ジャワの糖業を視察させたうえで、1901年9月に"糖業改良意見書"をまとめさせた[1]。翌1902年6月に公布された台湾糖業奨励規則は[2]、奨励金と補助金を経営規模・生産能力・設備機械の種別で区切って交付する制度で、在来の手工業的な製糖場を保護の対象からはずしていた。近代的な機械製糖に資本を集める政策であり、内地の資本家が相次いで台湾へ渡った。1906年12月、総督府糖務局の技師で東京高等工業学校教授を兼ねていた相馬半治氏が、小川朝吉氏・浅田正文氏・渋沢栄一氏らと資本金500万円で明治製糖を創立した[3][4]のも、この政策の内側での出来事である。
砂糖は作れば売れる商品ではなかった。1899年の関税定率法は粗糖に国定税率を残す一方、精製糖には低い協定税率を認めており[5]、台湾で粗糖を作る側と内地で精製する側の利害は最初から食い違っていた。しかも明治40年代前半、内地で原料糖を買う相手は事実上[6]、大日本製糖1社しかない。日糖は輸入原料糖戻税法によって安い外国糖を確保でき、1908年には自ら台湾斗六庁内に粗糖工場まで持った。売り先が1社に絞られた粗糖会社は、個別に売り込めば買い叩かれる。1909年秋、台湾・明治・東洋・塩水港の4社は共同して日糖と原料糖売買契約を結び[7]、翌1910年10月には台湾糖業連合会を組織した。[8]売り先を自ら作るという発想は、この買い手1社の交渉を経て出てきた。
出口を自前で持つ試みは、菓子より先に精製糖で始まっている。1911年7月の関税定率法改正で輸入精製糖の協定税率と内地向け戻税制度が廃止されると[9]、同じ年に台湾製糖は神戸精糖を、明治製糖は横浜精糖を買収した。[10]粗糖会社が内地の精製糖業へ進出した最初の例である。そのうえで、砂糖を最も多く使う加工品である菓子まで手を伸ばす。第一次世界大戦で欧州からの菓子輸入が途絶し、国産化の余地が広がっていた時期にあたる。菓子はすでに森永太一郎氏の会社が1910年に法人化して1912年に森永製菓へ改称し、[11]東洋製菓がイギリス製機械でビスケットの量産を始めているなど、先行者のいる分野であった。[12]
1916年10月9日、濱田録之助氏らが資本金100万円で東京菓子を設立[13]した[14]。その2か月後の同年12月、明治製糖の相馬半治氏と有島健助氏が、製菓と製乳を目的とする資本金150万円の大正製菓を別に設立している[15]。同じ事業を営む会社が二つ並んで立った形になり、翌1917年3月、資本金の大きい大正製菓を東京菓子へ合併して資本金250万円とした。[16]存続したのは先に立った東京菓子であり、社名もそちらが残った。明治製菓が設立日として1916年10月9日を掲げるのは、この合併の向きによる。
合併後の東京菓子は、東京府大久保町に工場を建てて製菓を始めた。ただし当初の事業は順調ではない。未経験の分野であり、技術も販路も足りず、商標を広めるための宣伝に大きな労力を要した。1920年12月には房総煉乳を吸収合併して乳製品にも入るが[17]、世界的な不況と重なって伸びを欠いた。転機は設備の側から来る。1925年4月に大久保工場が出火して半焼したのを機に[18]、かねて計画していた川崎工場の建設に踏み切った。キャラメル・ドロップ・キャンデー・ビスケットを量産できる近代的な工場が立ち上がって、ようやく菓子部門が採算に乗る。社名を明治製菓に改めたのは、その前年の1924[19]年9月であった。
この時期に、のちの明治グループの輪郭が揃う。1920年11月には明治製糖と明治製菓の販売機関として明治商店が設立された[20]。発起人は明糖社長の相馬半治氏と専務の有島健助氏、初代社長[21]には有島氏が就いている。同社は1942年に明治商事へ改称し[22]、砂糖・菓子・乳製品・食品缶詰を扱う系列の販売会社として国内外に事業所を広げた。製糖が原料を作り、製菓が加工し、商事が売る。台湾の砂糖から菓子の店頭まで、三つの会社が垂直に連なった。この連なりが機能したのは、明治製糖が外地を保有していた期間に限られる。
1926年9月、明治製菓は明治ミルクチョコレートを発売し、初めて新聞広告を打った。"チョコレートは明治"という評価はここから積み上がる。1936年6月には果実缶詰の製造を始めて食品事業にも入り[23]、ヨーロッパへの輸出も行った。しかし戦時の統制は、その積み上げを事業単位で剥がしていった。日中戦争の長期化で食糧品工業が制約を受けると、1941年に北海道の乳製品6工場を北海道興農公社へ、[24]1942年から1943年にかけて食品部門の4工場を各府県の合同食品会社へ、いずれも現物出資の形で手放した。さらに1940年から明治乳業に委任経営していた乳業部門の全事業所を、1943年9月に同社へ譲渡している[25]。同じ1942年にはチョコレートの製造そのものが禁じられ、軍への納品で操業[26]をつないだ。
1945年1月、主力の川崎工場が空襲で全焼[27]した。終戦時に残ったのは菓子部門4工場・食品部門2工場と、休止中の1[28]工場のみである。打撃は自社の設備にとどまらない。親会社の明治製糖は台湾・朝鮮の外地資産をすべて失い、内地資産も1945年に連合国の管理下へ置かれた。砂糖の供給源そのものが消えた。精糖業の集中度を見ると、1949年末に9社9工場・日産溶糖能力585トンだったものが、1955年末には27社38工場・8,995トンへ広がっている。[29]外地を失った戦前派の大企業が、新規業者と同じ位置に並び直したためである。原料の後ろ盾を持つ菓子会社という第1章の構図は、ここで失われた。
焼けた川崎工場の一部で、明治製菓は1946年11月にペニシリンの製造を始めた[30]。戦時中から社内で研究していた素材である。同月に来日した米テキサス大学のフォスター博士から米国技術[31]の全面的な公開と種菌の分与を受け、個別の生産指導を得て、タンク培養による量産へ進んだ。菓子と乳製品で扱ってきた発酵と培養の設備・技術が、そのまま抗生物質へ移せたことが参入の条件であった。この転用は明治製菓だけの発想ではない。味の素は残存設備でDDTの原剤生産に入り、明治製糖と台糖は発酵技術を生かして薬品を作り、大日本製糖はパン用イーストへ向かった[32]。戦前派の大企業が副業で復興の資金を作った時期であり、明治製菓の転用もその一例であった。
薬品の系列は10年足らずで厚みを持った。1947年10月から研究試作していたストレプトマイシンを1950年7月に製造販売し、翌1951年には米メルク[33]社と技術援助契約を結んで品質と収率を高めた。1953年10月には自社の種菌と製法によるクロルテトラサイクリンの工業化に成功し、1954年2月から販売している[34]。同年10月には制がん剤ザルコマイシンを発売した。梅沢浜夫氏の研究に協力し、放線菌の培養液から抽出した抗生物質である。[35]当初は低温でなければ保存できない液剤で、粉末化して改めて売り出した。がんは手術でなければ治らないとされていた時期にあたり、化学療法の側から手を伸ばした製品であった。
一方、本業の菓子は統制の解除とともに競争へ戻った。1949年11月に水あめの統制が解け、1950年1月にキャラメルの自由販売が認められ、1952年には砂糖と小麦粉の統制が撤廃される。国民が甘味に飢えていたことを支えに新規参入が相次ぎ、キャラメルメーカーだけで1951年には218社を数えた。[36]明治製菓は川崎工場を復旧し、1950年に買収した上ノ山・京都の両工場、1952年の合併による東京・名古屋工場、1955年4月新設の大阪工場を加えて生産を戻す。[37]キャラメル・ビスケット・チョコレートはいずれも戦前の最盛期を上回り、1955年3月期の売上高は52億円に達した。[38]
1958年、明治製菓はカナマイシンを発売[39]した。国立予防衛生研究所の梅沢浜夫氏が発見した抗生物質を工業化したもので[40]、原末から製剤までを自社で作る一貫生産の体制をこの製品で固めた。当時の日本の製薬会社の多くは、原末[41](バルク)を輸入して錠剤や注射液に加工していた。医薬品を扱う問屋や輸入商社がメーカーになった経緯から、原体を自ら作る歴史を持たなかったためである。原末の内製には多額の設備資金と高い技術が要り、新陳代謝の激しい医薬品では投資が回収できない危険も伴う。それでも一貫生産を選んだのは、資本自由化を控えて価格競争力を確保するためであった。
設備はこの選択に沿って積み上がった。1963年10月、貿易自由化への備えとして川崎・淀川に分散していた原末工場を足柄工場へ集中させる[42]。同工場の設備は数年で当初の4〜5倍に拡張され、1969年には世界初の300トン超大型発酵槽を設置した。1970年時点の培養タンク総容量は2,500トン[43]、そこから得られる抗生物質は350トンで国内首位、世界でも5指に入る規模である。それでも足りず、約60億円を投じて岐阜郊外に5万坪を購入し、1971[44]年に岐阜工場を建てた。1976年には岩手県北上市に約50億円で北上工場を加える。1980年時点の培養タンク総容量は4,500トン[45]、抗生物質の年間生産能力は2,000トンを超えた。
二つの事業の伸びは、1960年代の後半にはっきり分かれた。1964年から1968年までの5年間で、売上の平均成長率は菓子4.3%に対し薬品9.9[46]%、経常利益の成長率は菓子2.1%に対し薬品12.4%である。全国の生産高で見ても、1966年度は菓子4,700億円・薬品5,084億円と拮抗していたものが、1969年度には菓子5,650億円・薬品8,440億円へ開いた。[47]薬品が年率20%前後で伸びる横で、菓子は5%前後にとどまる。会社の総売上高は1967年度458億円、1969年度607[48]億円と伸びたが、その中で薬品の比率は1967年度24.4%から1969年度32.3%へ上がっている。
それでも菓子を縮小する判断には進まなかった。チョコレートではデラックス(1957年)、マーブル(1961年)、ハイミルク(1962年)、チョコバー(1967年)と主力商品を継ぎ足し[49]、1968年にはスナック菓子のカールで先行各社を追い、1971年にキャンデーのチェルシー、1975年にきのこの山を出している。[50][51]缶入りオレンジジュース(1954年)は国内で最初の発売[52]であった。研究開発費は薬品売上の約7%を充て、1970年前後の3年間で中央研究所を約3倍に増設している[53]。菓子の安定した収益が薬品の研究開発を支えるという配分であり、逆ではない。この構造は、他の製菓会社にない強みとして社外からも評価された。1967年度の総売上高458億5,600万円に対して税引利益16[54]億1,600万円を計上し、年1割8分の配当を続けている。菓子・食品・薬品の三本柱という表現は、この時期の実態に即していた。
1972年4月、総販売代理店であった明治商事を合併[55]した。製造と販売を一つの会社に収めて、製販一体の体制を作る狙いである。ただし合併は人員も引き受けた。従業員は合併当初の7,400名から、1975[56]年には6,800名へ減っている。付加価値が下がり、労働分配率が業界平均を上回る状態が生じたためで、中川赳社長は少数精鋭による効率経営を課題に挙げた。1974年度の売上高は1,340億円と前年比124[57]%に伸びたが、その内訳は食料70に対し薬品30である。売上の主役は依然として菓子と食品であり、利益の主役が薬品へ移りつつあるという二重の状態が続いた。
菓子の側には構造的な弱点があった。1975年当時、原料の自給率はココア豆とコーヒー豆がゼロ、砂糖20%、でん粉30%で[58]、価格は産出国の政策に左右される。台湾の砂糖を後ろ盾に生まれた会社が、原料をまったく持たない加工業になっていたことになる。中川赳社長はこれに対し、品質と規格を厳しく指定して買うのではなく、どんな原料でも使いこなせる技術を持つことを生き残りの条件に据えた。加えてマレーシアにココアの試験栽培農場を設け、シンガポールの合弁会社を原材料の集散[59]と情報の拠点にも使っている。1973年の石油危機以降、菓子の需要数量は1973年に前年比2.5%減、1974[60]年に4%減と2年続けて落ち込んだ。
需要の側でも菓子の位置は動いていた。1964年のかっぱえびせんに始まるスナック菓子の流行は[61]、キャラメルやチョコレートといった従来品の相対的な地盤を下げた。1970年前後には食生活そのものが変わり、インスタント食品・レトルト・冷凍食品が広がって、1971年は外食産業元年と呼ばれる[62]。食品への支出は菓子以外の分野へ分散した。明治製菓は1969年に明治製菓リテリアルを設立してボウリング場やガソリンスタンドの経営にも入ったが[63]、これは本業の伸びを補う多角化であって、本流にはならなかった。同じ時期、森永製菓や不二家はドライブレストラン、ロッテはレジャーランドへ向かっている。
1980年3月期、明治製菓は減収減益となり、配当を減らした。食料部門が経常損益で30億円の欠損を出し、薬品部門の61[64]億円の黒字がこれを埋めた期である。菓子への需要が数年にわたって冷え込んだことが直接の原因で、他の大手菓子メーカーも同じ影響を受けている。需要側の変化は業界の記録にも残る。1980年代の前半には甘さ離れが進み[65]、甘さ控えめをうたう食品が相次いで発売された。1981年に登場した缶入りウーロン茶は、喉を潤したいがカロリーや糖分は取りたくないという層をつかみ、甘くない飲料として定着した。菓子が安定した収益源であるという第3章の前提が、ここで崩れた。
対応は生産と販売の両面に及んだ。1980年9月末で函館工場と上山分工場を廃止[66]して生産拠点を集約し、収益の足を引く食品事業については構造改善策をまとめて労働組合との協議に入り、同年12月から実施した。これと並行して、薬品では大型新薬の申請を進めた。緑膿菌や既存の抗生物質が効かない耐性菌に有効な新系列の物質ホスホマイシンで、米メルク社が企業化[67]を断念したものを自社の技術で工業化し、1981年1月にホスミシンとして発売する[68]。経営基本構想では、1985年度までに食料と薬品の売上構成比を50[69]対50へ均衡させることを第1の目標に据えている。菓子から撤退したわけではないが、資源の配分先を薬品へ寄せる判断であった。
立て直しの結果は2年で出た。1982年3月期の売上高は1,895億円で前年比7%増[70]、経常利益119億円(同43%増)、税引利益45億円(同57%増)といずれも過去最高を記録している。部門別では菓子946億円・食品172億円・薬品756億円で[71]、薬品は前年6月の薬価基準引き下げが自社では20%に及びながら、1981年1月発売のホスミシンが補った。[72]食品部門は売上高こそ減ったが、商品数を絞り、流通経路を整理し、支店・営業所を縮小して初めて黒字にした。経常利益の構成比は薬品60に対し食料40である[73]。売上では菓子が主役、利益では薬品が主役という関係が、この期に数字として固まった。
1982年4月、明治商事との合併から10年を迎えたのを機に、明治製菓は"経営10年ビジョン"を定めた。掲げた理念は"医食同源"で、菓子・食品・薬品に健康産業と新規事業を加えた総合ライフ・インダストリーを目指すという構想である。数字も具体的に置いた。1991年度の売上高6,100億円は1982年3月期の3.2倍にあたり、内訳は菓子2,000億円・食品700億円・薬品2,500億円・健康産業300[74]億円・新規事業500億円。10年間で設備投資1,300億円、研究開発費1,500[75]億円を投じる計画であった。バイオテクノロジーを抗生物質の生産性向上とインターフェロンの開発に充て、米サール社・エンゾー社、スイスのバイオジェン社と相次いで技術提携を結んでいる。[76]
到達点は構想から遠かった。1992年3月期の連結売上高は3,421億円で[77]、10年ビジョンが1991年度に置いた6,100億円の56%にとどまる。その後も1994年3月期3,271億円、1997年3月期3,610億円、2001[78]年3月期3,589億円と、10年にわたり3,200億円台から3,600億円台の幅を出ていない。この間の経常利益は1994年3月期の42億円を底に2000年3月期の187億円まで振れ、2001年3月期も177億円を確保したが、売上そのものは動かなかった。2005年3月期には売上高3,640億円に対して82[79]億円の当期純損失を計上している。ただしそこが底で、統合前の最後の4期は3,824億円、3,939億円、4,047億円[80]、4,141億円と伸びた。停滞したまま統合したのではなく、戻しかけたところで統合している。
動かなかったのは合計であって、中身ではない。薬品では抗生物質への偏りを解く作業が続き、1987年のメイセリン、1989年の抗不安薬、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌に効く1990年のハベカシンと、中枢神経系・循環器系へ領域を広げた。[81]一般薬では1983年にイソジンうがい薬[82]、菓子では果汁グミ、健康食品ではスポーツ食品のザバスを加えている。海外にはシンガポールから中国まで合弁会社を置き、薬品の輸出先は60数か国に及んだ[83]。品目も地域も増えたが、合計は増[84]えなかった。理由を一つに絞ることはできない。薬価基準の引き下げが繰り返され、抗生物質偏重の製品構成が影響を強く受けたこと。国内の菓子市場が成熟し、量の拡大が望めなくなったこと。1990年代に流通の主導権が小売側へ移り、製造側がコスト[85]を含めた見直しを迫られたこと。円高を背景に東南アジアからの低価格品[86]が逆流したこと。いずれも単独で効くだけの大きさがあった。
明治製菓が持ち込んだのは、規模ではなく組み合わせであった。統合直前の2009年3月期、明治製菓の連結売上高は4,141億円、明治乳業は7,114億円で、相手方は1.7倍の規模を持っている。株式移転では明治製菓の1株に明治ホールディングスの0.1株、明治乳業の1株に0.117株が割り当てられた[87]。一つの持株会社に入る意味があったのは、乳製品と菓子という国内食品の二つの大きな棚を並べられること、そして明治製菓が持つ医薬とヘルスケアの事業が、乳業単独では届かない領域を埋めることにあった。菓子と食品に薬品を併せ持つ構成は、乳業専業の相手方にはないものであった。1906年に台湾で分かれた資本が、100年あまりを経て一つに戻った。
2008年9月、明治製菓と明治乳業は[88]経営統合に合意した。2009年3月に株式の上場を廃止し、翌4月1日の共同株式移転で明治[89]ホールディングスが発足して、両社はその完全子会社となる。1916年10月の設立から92年、1949[90]年5月の東京証券取引所上場から60年で、上場会社としての明治製菓が終わった。残ったものと消えたものは、はっきり分かれた。2011年4月のグループ再編で、菓子[91]・食品の事業は明治乳業の法人が引き受けて株式会社明治となり、明治製菓の法人は医薬に絞ってMeiji Seika ファルマへ商号を変更した。菓子の会社が薬の会社になり、"明治製菓"の名を継いだのは相手方の法人であった。台湾の砂糖を捌くために始めた事業が、最後は発酵タンクの側に残ったことになる。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/2202/company.json https://the-shashi.com/api/2202/history.json https://the-shashi.com/api/2202/financials_history.csv | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1906〜1925年砂糖の売り先を自ら作る ── 台湾製糖業から生まれた東京菓子 | 明治製糖を台湾に創立 | ★ | ||
| 東京菓子を設立(明治製菓の前身) | ★ | |||
| 房総煉乳を吸収合併し乳製品の生産に着手 | ★★ | |||
| 明治製菓に商号変更 | ★ | |||
| 川崎工場を新設 | ★ | |||
| 1926〜1957年焼け跡の発酵タンク ── 砂糖と外地を失った会社が薬に出る | 明治ミルクチョコレートを発売 | ★★ | ||
| 乳業部門の全事業所を明治乳業へ譲渡 | ★★ | |||
| 川崎工場が空襲で全焼・海外資産を喪失 | ★★ | |||
| 抗生物質の原末まで自前で作る体制の構築と、戦災を受けた川崎工場の再起 空襲で主力の川崎工場を焼失し、砂糖も小麦粉も統制下に置かれた1946年、明治製菓は戦時中から研究していたペニシリンの製造を川崎工場で始めた。菓子素材の培養に使ってきた発酵技術を抗生物質へ向け、原末から製剤まで一貫して作る体制へ進んだ。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 東京証券取引所に株式を上場 | ★ | |||
| ストレプトマイシンの製造を開始 | ★★ | |||
| 制がん剤ザルコマイシンを発売 | ★★ | |||
| 1958〜1979年東洋一の原末工場と、菓子が薬を養う構造 | 梅沢浜夫博士が発見した抗生物質を、菌の培養から原末・製剤まで一貫して作る体制へ 1958年、明治製菓は国立予防衛生研究所の梅沢浜夫博士が発見した抗生物質を工業化し、カナマイシンとして発売した。原末を輸入して製剤にする当時の日本の製薬業の作り方をとらず、菌の培養から原末、製剤までを自社で作る一貫生産をこの製品で固めた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 中央研究所を新設 | ★ | |||
| 足柄工場(薬品原末)を開設 | ★ | |||
| スナック菓子「カール」を発売 | ★ | |||
| 岐阜工場を新設 | ★ | |||
| 総販売代理店の明治商事を合併 | ★ | |||
| 食料合弁会社を設立 | ★ | |||
| 薬品合弁会社を設立 | ★ | |||
| きのこの山を発売 | ★ | |||
| 1980〜2009年菓子部門の赤字と薬品への資源集中、そして統合による幕引き | 不採算な菓子工場の閉鎖による食品事業の構造改善と主力の入れ替え 1980年3月期に菓子を中心とする食料部門が30億円の経常欠損を出し、薬品部門の61億円の黒字がこれを埋めた。明治製菓は減収減益・減配に至ったこの決算を受け、菓子部門を退職者不補充と工場閉鎖で縮め、研究開発費の8割を薬品へ振り向けた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 函館工場と上山分工場を閉鎖 | ★ | |||
| 抗生物質ホスミシンを発売 | ★ | |||
| 「経営10年ビジョン」を策定 | ★ | |||
| 果汁グミを発売 | ★ | |||
| 川崎工場跡地にオフィスビル「ソリッドスクエア」が竣工 | ★ | |||
| 高カカオチョコレート「チョコレート効果」を発売 | ★ | |||
| 健康食品「アミノコラーゲン」を発売 | ★ | |||
| 東京証券取引所での株式を上場廃止 | ★ | |||
| 菓子と乳の二本柱を一つの持株会社の下に置く体制への移行 2008年9月、明治製菓と明治乳業が経営統合を発表し、翌2009年4月に共同株式移転で持株会社・明治ホールディングスを設立、2011年4月には菓子・乳業という会社区分を解いて食品"明治"と医薬"Meiji Seika ファルマ"へ再編した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 明治HDの完全子会社に | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(明治製菓)