この多角化には派手な買収も新会社の設立もない。工場を一つ建て、事業部を一つ置き、製品を一つ増やすという手順が14年続いただけである。速度は遅く、1975年3月期の赤字を防ぐ役には立たなかった。それでも、公害対策の設備投資が排煙脱硫装置になり、染色現場の色合わせがカラーマッチングシステムになったように、自社の工場が抱える課題を商品へ組み替える経路が、この期間に社内へ通った。繊維の会社が非繊維で稼ぐための技術は、外から買うのではなく現場から出てきた。
数字で見れば、非繊維部門が100億円を超えたのは参入から17年後の1979年であった。そこからさらに時間がかかっている。2025年3月期、化成品セグメントは売上660億円・営業利益50億円を計上し、連結営業利益103億円のおよそ半分を稼いだ。同じ期の繊維事業は売上485億円・営業利益0.7億円である。1962年11月に寝屋川で始めたウレタンフォームの事業が、63年後に祖業を支える側に回った。