倉敷紡績化成品・環境エンジニアリング・エレクトロニクスへ本体で多角化
綿を紡ぐ工場と設計者を抱えたまま、非繊維の事業を14年かけて社内に積み上げた
- 概要
- 1962年11月の寝屋川工場新設によるポリウレタンフォーム参入を皮切りに、倉敷紡績は1970年3月の環境エンジニアリング、1976年3月のエレクトロニクスへと、非繊維の事業を本体の事業部として積み上げた。
- 背景
- 1960年代の紡績業界は企業の乱立と過剰設備を抱え、慢性的な不況にあった。倉敷紡績の売上は1962年3月期の296億円から1965年3月期の404億円へ伸びたが、当期純利益は8億円から3億円へ細っていた。
- 内容
- 1961年4月の日本インスタント食品出資に続き、1962年11月に化成品、1970年3月に環境制御装置などのエンジニアリング、1976年3月に色彩管理システム・生産管理システムのエレクトロニクスへ参入した。1963年に化成品事業部、1970年にエンジニアリング事業部が発足している。
- 含意
- 第一次石油危機後の1975年3月期に単体で当期純損失15億円を出したが、1979年12月の時点で非繊維部門の売上は100億円を超え、牧内栄蔵社長は3年後に200億円を掲げた。
積み上げた事業の並び
この多角化には派手な買収も新会社の設立もない。工場を一つ建て、事業部を一つ置き、製品を一つ増やすという手順が14年続いただけである。速度は遅く、1975年3月期の赤字を防ぐ役には立たなかった。それでも、公害対策の設備投資が排煙脱硫装置になり、染色現場の色合わせがカラーマッチングシステムになったように、自社の工場が抱える課題を商品へ組み替える経路が、この期間に社内へ通った。繊維の会社が非繊維で稼ぐための技術は、外から買うのではなく現場から出てきた。
数字で見れば、非繊維部門が100億円を超えたのは参入から17年後の1979年であった。そこからさらに時間がかかっている。2025年3月期、化成品セグメントは売上660億円・営業利益50億円を計上し、連結営業利益103億円のおよそ半分を稼いだ。同じ期の繊維事業は売上485億円・営業利益0.7億円である。1962年11月に寝屋川で始めたウレタンフォームの事業が、63年後に祖業を支える側に回った。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
売上は伸び、利益は細る
1960年代に入ると紡績業界は大小多数の企業が乱立し、過剰設備を抱えて慢性的な不況の様相を呈した。倉敷紡績もその中にいた。単体の売上高は1962年3月期の296億円から1965年3月期には404億円へ増えたが、当期純利益は同じ期間に8億円から3億円へ減っている。設備を回して糸を出すほど売上は積み上がるのに、手元に残る利益は薄くなる。綿紡績の増産だけでは収益が戻らない構造が、数字に現れていた[1][2]。
打てる手はまず本業の中で打った。紡績工程の自動化と連続化による生産能率の向上、染色加工分野の拡充による製品の高級化、合成繊維の出現に対処した混紡・交織の複合繊維化がそれにあたる。海外へも出た。1957年8月にブラジルへ生産現地法人を設立し、1968年10月にはタイ・クラボウを設立している。工程の改善と輸出、現地生産という繊維の内側の手立てを一通り並べたうえで、倉敷紡績は繊維の外へ向かった[3][4]。
繊維不況は海外でも続いた
海外生産も景気の波から自由ではなかった。1968年10月10日に設立した泰倉紡は、日本側49%のうち倉敷紡績が26%を出資し、バンコクで1,200人を雇う紡績会社であった。1974年12月期の売上高は1億1,700万バーツ、税引利益は580万バーツで、配当は無い。1974年末に増設工事を終えて設備を3万2,000錘・織機820台としたものの、1976年2月の時点でタイの繊維業界は不況に悩んでいた[5]。
国内でも事情は同じであった。第一次石油危機の後、倉敷紡績は1975年3月期に単体で当期純損失15億円を計上して赤字に転じている。前期の1974年3月期は売上高1,166億円・当期純利益52億円で、一年で損益が67億円振れた計算になる。綿と羊毛を紡いで織り、染めて売るという一本の商いが、原油と為替と需要の変動をそのまま損益に通していた。非繊維の柱を育てる作業は、この振幅への備えでもあった[6]。
決断
化成品から始める
最初の一手は食品であった。1961年4月、倉敷紡績は日本インスタント食品へ出資し、乾燥食品の製造販売に加わっている。続く1962年11月、寝屋川工場を新設してポリウレタンフォームなどの化成品事業へ進出した。翌1963年には化成品事業部が発足し、社内の組織として据えられている。合弁や出資で外から持ち込むのではなく、工場を建てて事業部を置くという、繊維と同じやり方で非繊維の事業を始めた[7][8]。
化成品は一品目で終わらなかった。1971年には合成木材接着剤の事業に入り、同年11月に静岡県へ裾野工場を新設している。1974年には建材用の断熱材へ広げた。ウレタンフォームは自動車の内装材や寝具、断熱材と用途が分かれ、成形と配合の違いで別々の顧客に届く製品群である。繊維で培った加工の考え方を持ち込みやすい領域から入り、隣の用途へ順に足していく進め方をとった[9][10]。
環境とエレクトロニクスへ
1970年3月、倉敷紡績は環境制御装置などのエンジニアリング事業に進出した。同じ年に排煙脱硫装置を開発し、エンジニアリング事業部を発足させている。1971年には水処理部門へ入った。公害対策の設備は、工場を持つ会社が自らの排煙と排水を処理する必要から生まれる領域で、倉敷紡績は自社の設備投資で扱う技術を、外へ売る商品に組み替えた。同年、デニム事業にも進出しており、繊維と非繊維の投資は並行して進んだ[11][12]。
1976年3月には、色彩管理システムや生産管理システムなどのエレクトロニクス事業へ進出した。同じ1976年に情報開発部が発足し、1978年にはカラーマッチングシステム「アウカラー」を発売、1980年に分光光度計「カラー7」、1981年に自動調液装置「アウキッチン」を開発している。染めた布の色を人の目でそろえる作業を機械に移す製品群で、染色加工の工場を持つ会社が自社の課題から作った商品にあたる。情報開発部は1985年にエレクトロニクス事業部となった[13][14]。
結果
非繊維100億円と、次の200億円
1979年12月、社長に就いたばかりの牧内栄蔵氏は、石油危機後の不況を同業他社に比べて打撃少なく乗り切れた理由を、前社長が早くから付加価値の高い商品づくりと垂直的な販売体制の強化に努めたことに求めた。そのうえで、繊維が本体であるからまず繊維部門を量と質の両面で拡充することを第一に挙げ、前4月期の売上が100億円を超えた非繊維部門については、3年後に200億円の水準へ乗せたいと述べている[15]。
業績も戻った。単体の売上高は1975年3月期の978億円から1976年3月期に1,201億円へ回復し、経常利益3億円・当期純利益3億円と黒字に復している。1977年3月期は経常利益23億円、1980年3月期は売上高1,430億円・経常利益29億円であった。1962年の化成品参入から14年で、倉敷紡績は繊維・化成品・環境エンジニアリング・エレクトロニクス・食品という事業の並びを社内に持つ会社になった[16]。
化成品はフッ素樹脂へ、電子はバイオへ
1980年代に入ると、二つの事業はそれぞれ枝分かれした。化成品では1986年に含浸加工・精密計測機器・フッ素樹脂加工の各分野へ進み、エレクトロニクスでは1982年にバイオ研究支援フィルター、1984年に精密ろ過の部門へ入っている。1990年には核酸自動分離装置の販売を始め、1991年にバイオメディカル部が発足した。色を測る装置から生体試料を扱う装置へ、ウレタンから樹脂加工へと、参入時の製品から離れた品目が並んだ[17]。
1986年に始めたフッ素樹脂加工は、のちに半導体製造装置向けの配管材として使われる製品となった。倉敷紡績はその後も生産設備を足し、2012年4月には三重工場を新設して化成品の生産能力を増やしている。1990年4月には不動産事業へ進出し、繊維工場の跡地を賃貸収入に変える道も開いた。1962年の寝屋川工場から数えて半世紀のあいだに、非繊維の側が設備投資の主な行き先になった[18][19]。
- 倉敷紡績 有価証券報告書 第217期(2025年3月期)【沿革】
- クラボウ 公式サイト「沿革」
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 日経ビジネス 1976年2月2日号「経営力・技術力の真価発揮のとき 泰倉紡(倉敷紡績=バンコク)」
- 日経ビジネス 1979年12月17日号「新社長登場 牧内栄蔵氏(倉敷紡績)」
- 会社年鑑(倉敷紡績・単体業績)