鐘紡 の歴史

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創業 1887年
母体 財界人の出資
創業地 東京都墨田区
創業
1887年1月、綿花輸入の仲介を担う東京綿商社として設立が認可され、同年5月に東京府南葛飾郡隅田村字鐘ヶ淵での紡績所設立が認可された。取扱量が伸びず2年で行き詰まったため、英国製リング式紡績機を3万錘の工場へ据え、自ら綿糸を紡ぐ製造業へ組み替える。1888年8月に有限責任鐘淵紡績会社へ改称し、1889年1月に東京株式取引所へ株式を上場、同年5月に操業を始めた。ただし大規模工場を扱える技術者が国内におらず赤字が累積し、三井から中上川彦次郎氏、次いで武藤山治氏が送り込まれる。外部経営者の招聘が、以後の人事と規模拡大を方向づけた。
決断
事業を選ぶ基準より、規模を保つことが先に立った。武藤山治氏は紡績大合同論を掲げ、1899年以降に経営難の中小紡績を買収しては英国製設備へ入れ替え、1933年には全業種で売上首位の日本最大企業となる。天然繊維の地位が崩れると1961年10月にグレーターカネボウ計画で多角化へ転じし、1967年には繊維・化粧品・食品・住宅・薬品を並べるペンタゴン経営へ再編した。30を超える工場と数万人の雇用そのものが誇りとなり、規模の維持を存続の前提とみなす内部論理がここで定着する。1990年代に祖業の繊維が崩落しても縮小へは動かず、「低稼働」と呼ぶ会計処理と押し込み販売が積み上がった。
現況
法人は残らず、事業だけが別々の買い手のもとで続いている。2003年9月に粉飾決算が発覚して630億円規模の債務超過へ転落し、2004年3月に産業再生機構へ支援を要請した。再生計画は化粧品を中核とする独立再建案を採らず、事業を単位ごとに売却する方式を基本方針に据える。化粧品は約4,100億円で花王へ譲渡され、繊維はセーレン、食品・日用品・薬品はクラシエへ移った。本体は2005年6月に東証・大証の両一部で上場を廃止し、2007年に海岸ベルマネジメントへ商号を変えて法人格を終えている。最終期となる2007年3月期の連結売上高68億円は、ピークだった1992年3月期6,813億円の1%まで縮んだ。
競合
同じ紡績から出た各社との差は、祖業から撤退した時期にある。日東紡績は1998年に綿紡績をやめてガラス繊維専業へ移り、富士紡ホールディングスは2005年に持株会社化して研磨材へ経営資源を集中した。抱え続けたユニチカは2024年に繊維から全面撤退し、870億円の金融支援要請と経営陣の総退陣に至っている。鐘紡は1961年から多角化を広げながら繊維の側を減らさず、両方を抱えたまま粉飾で時間を延ばした。化粧品という高収益の事業を持っていたことが、かえって縮小の判断を遅らせている。産業再生機構が独立再建案を採らなかったのも、その化粧品が債権者への弁済原資として最も高く売れる資産だったからである。
鐘紡:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1978年4月期2007年3月期

設立ストーリー 綿商社から紡績業への転換と紡績大合同論 (1886年〜)

綿商社から紡績業への転換と紡績大合同論

東京綿商社から鐘淵紡績会社への業態転換

1886年11月、東京繰綿問屋組合に属する三越・大丸・白木・荒尾・奥田の五軒が相寄り[1]、三越得右衛門氏を頭取として資本金10万円の東京綿商社を設立[2]した。当時の東京には繰綿問屋と称するものが九軒あり、三越・白木屋・大丸などの前身[3]がその主なものだった。設立の目的は綿花の定期取引にあり、翌1887年2月に定期売買を開始[4]した。しかし綿花を紡績して糸として売るほうが有利との結論を得て、同年4月に資本金を100万円へ増やした[5]。武蔵国葛飾郡隅田村鐘ヶ淵には3万余錘の紡績工場を建設[6]し、東京綿商社鐘淵紡績場と名づけた。西洋の城廓を想わせる華麗な建物を、世評は『紡績大学校』と呼んだ[7]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [1]東京繰綿問屋組合に属する三越・大丸・白木・荒尾・奥田の五軒による出資
    • [2]三越得右衛門氏を頭取とする資本金10万円の東京綿商社の設立
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [3]当時の東京の繰綿問屋九軒と三越・白木屋・大丸などの前身との連なり
    • [4]綿花の定期取引を目的とする設立と1887年2月の定期売買の開始
    • [5]綿花を糸として売るほうが有利との判断にもとづく資本金100万円への増資
    • [6]武蔵国葛飾郡隅田村鐘ヶ淵への3万余錘の紡績工場の建設
    • [7]工場建物に対する「紡績大学校」という世評

綿花の売買は1888年8月にやめて紡績専業へ転じ[8]、社名も鐘淵紡績会社へ改めた。1889年1月には東京株式取引所へ株式を上場[9]し、同年5月に操業を始めた[10]。もっとも開業が不況期に重なったため[11]、経営は当初から行き詰まった。三井家の事業相談役兼監督だった井上馨氏の援助で、三井家専務理事の中上川彦次郎氏が再建に入った[12]。中上川氏は1892年1月に三井工業部理事の朝吹英二氏とともに取締役へ就き[13]、翌1893年1月には三越得右衛門氏のあとを受けて社長に就任した[14]。同じ1893年には東京第二工場を1万錘で増設し、綿糸の初輸出も果たした[15]

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [8]1888年8月の紡績専業への転換と鐘淵紡績会社への社名変更
    • [15]1893年の東京第二工場1万錘の増設と綿糸の初輸出
  • 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
    • [9]東京株式取引所への株式上場
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [10]1889年5月の操業開始
    • [11]不況期と重なった開業による経営の行き詰まり
    • [12]井上馨氏の援助による三井家専務理事中上川彦次郎氏の招請
    • [13]1892年1月の中上川彦次郎氏と朝吹英二氏の取締役就任
    • [14]1893年1月の中上川彦次郎氏の社長就任

中上川氏は支那大陸の市場開拓を見据えて神戸に兵庫支店工場を建設し、設備4万錘・用地3万8000余坪[16]の規模を与えた。建設の一切を委ねる支配人には、三井銀行神戸支店で手腕を示していた武藤山治氏を抜擢[17]した。時に武藤氏は28歳だった[18]。買収と合併によって住道・中島・洲本・三池・久留米・熊本・中津・博多の諸工場が綿糸製造工場に加わり[19]、1897年には織布の兼営へも進んだ[20]。資本金は1907年5月に1160万6800円[21]となった。東京と兵庫の二拠点による生産で綿糸の産出は伸び[22]、明治後期にかけて社業は広がった。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [16]兵庫支店工場の設備4万錘・用地3万8000余坪
    • [17]三井銀行神戸支店にいた武藤山治氏の兵庫支店支配人への抜擢
    • [18]兵庫支店支配人に抜擢された当時の武藤山治氏の年齢28歳
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [19]住道・中島・洲本・三池・久留米・熊本・中津・博多の諸工場の綿糸製造工場化
    • [20]1897年の織布兼営への進出
    • [21]1907年5月の資本金1160万6800円
    • [22]東京と兵庫の二拠点による生産の拡大
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [1]東京繰綿問屋組合に属する三越・大丸・白木・荒尾・奥田の五軒による出資
    • [2]三越得右衛門氏を頭取とする資本金10万円の東京綿商社の設立
    • [10]1889年5月の操業開始
    • [11]不況期と重なった開業による経営の行き詰まり
    • [12]井上馨氏の援助による三井家専務理事中上川彦次郎氏の招請
    • [13]1892年1月の中上川彦次郎氏と朝吹英二氏の取締役就任
    • [14]1893年1月の中上川彦次郎氏の社長就任
    • [19]住道・中島・洲本・三池・久留米・熊本・中津・博多の諸工場の綿糸製造工場化
    • [20]1897年の織布兼営への進出
    • [21]1907年5月の資本金1160万6800円
    • [22]東京と兵庫の二拠点による生産の拡大
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [3]当時の東京の繰綿問屋九軒と三越・白木屋・大丸などの前身との連なり
    • [4]綿花の定期取引を目的とする設立と1887年2月の定期売買の開始
    • [5]綿花を糸として売るほうが有利との判断にもとづく資本金100万円への増資
    • [6]武蔵国葛飾郡隅田村鐘ヶ淵への3万余錘の紡績工場の建設
    • [7]工場建物に対する「紡績大学校」という世評
    • [8]1888年8月の紡績専業への転換と鐘淵紡績会社への社名変更
    • [15]1893年の東京第二工場1万錘の増設と綿糸の初輸出
    • [16]兵庫支店工場の設備4万錘・用地3万8000余坪
    • [17]三井銀行神戸支店にいた武藤山治氏の兵庫支店支配人への抜擢
    • [18]兵庫支店支配人に抜擢された当時の武藤山治氏の年齢28歳
  • 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
    • [9]東京株式取引所への株式上場

紡績大合同論による買収と規模の拡大

1901年10月に中上川氏が世を去ったのち、その理想は武藤山治氏へ引き継がれた[23]。武藤氏は群小紡が乱立する状態を国家的な不利と見て『紡績大合同論』を提唱[24]し、経営体力の乏しい中小紡績を買収したうえで設備を更新し運営を改める再建の型を示した。鐘紡が合併買収した相手は明治大正の両期だけでも上海紡績以下15社26工場に及んだ[25]。1906年には絹業へ進出して京都支店工場を建設[26]し、続いて日本絹綿紡織と絹糸紡績を合併して絹糸布の製造を始めた[27]。鐘紡の製糸進出は当時の家内工業を近代工業へ移し、国産資源の活用によって絹業立国を目指した武藤氏の理想[28]を形にしたものだった。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [23]1901年10月の中上川彦次郎氏の死去と武藤山治氏への継承
    • [24]武藤山治氏による「紡績大合同論」の提唱
    • [25]明治大正両期における上海紡績以下15社26工場の合併買収
    • [26]1906年の絹業進出と京都支店工場の建設
    • [27]日本絹綿紡織と絹糸紡績の合併による絹糸布製造の開始
    • [28]家内工業を近代工業へ移した製糸進出と絹業立国という武藤山治氏の理想

1916年には淀川工場を建設し、綿糸布の漂白染色と捺染加工[29]を始めた。1921年以降は製糸業にも進出し、絹業関係の工場は昭和初期に23[30]を数えた。武藤氏は1921年7月に社長へ就き、1930年1月の退任[31]まで事業の拡大を指揮した。昭和初期には彦根・長浜・丸子の各工場を新設[32]し、合併買収も綿部門で3社、製糸部門では1931年以降にさらに10社[33]を加えた。外地への進出は1911年の上海製造絹糸の合併に始まり[34]、第一次世界大戦を機に本格化して、1922年以降は上海・青島・天津で公大第一廠から第九廠までを新設または合併[35]した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [29]1916年の淀川工場建設と綿糸布の漂白染色・捺染加工の開始
    • [31]1921年7月の武藤山治氏の社長就任と1930年1月の退任
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [30]1921年以降の製糸業進出と昭和初期における絹業関係23工場
    • [32]昭和初期の彦根・長浜・丸子各工場の新設
    • [33]綿部門3社と1931年以降の製糸部門10社の合併買収
    • [34]1911年の上海製造絹糸の合併による外地進出
    • [35]1922年以降の上海・青島・天津での公大第一廠から第九廠までの新設・合併

1936年、鐘紡は半官半民の日本製鉄を除けば売上高で日本一の企業[36]となった。武藤氏の退任後は長尾良吉氏を挟んで、1930年7月に津田信吾氏が社長へ就いた[37]。津田氏は多角経営へ進み、1934年から毛糸と化学繊維の製造を始めて麻製品の分野も開拓[38]した。原料の国策に沿って緬羊の飼育、葦の栽培、亜麻の製繊、石炭の採掘[39]までが事業に加わった。化繊部門への本格的な進出は、1934年の高砂人絹工場と防府人絹工場の建設[40]から始まった。羊毛部門も1934年から工場を設けて準備に入り、1936年には毛織工業の6工場の経営を受託[41]した。

  • 日経ビジネス 1999年9月27日号
    • [36]半官半民の日本製鉄を除いた売上高での日本一
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [37]長尾良吉氏を挟んだ1930年7月の津田信吾氏の社長就任
    • [38]1934年からの毛糸・化学繊維の製造開始と麻製品分野の開拓
    • [39]原料国策に沿った緬羊飼育・葦栽培・亜麻製繊・石炭採掘
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [40]1934年の高砂人絹工場・防府人絹工場の建設による化繊部門への本格進出
    • [41]1934年からの羊毛部門の準備と1936年の毛織工業6工場の経営受託
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [23]1901年10月の中上川彦次郎氏の死去と武藤山治氏への継承
    • [24]武藤山治氏による「紡績大合同論」の提唱
    • [25]明治大正両期における上海紡績以下15社26工場の合併買収
    • [26]1906年の絹業進出と京都支店工場の建設
    • [27]日本絹綿紡織と絹糸紡績の合併による絹糸布製造の開始
    • [28]家内工業を近代工業へ移した製糸進出と絹業立国という武藤山治氏の理想
    • [30]1921年以降の製糸業進出と昭和初期における絹業関係23工場
    • [32]昭和初期の彦根・長浜・丸子各工場の新設
    • [33]綿部門3社と1931年以降の製糸部門10社の合併買収
    • [34]1911年の上海製造絹糸の合併による外地進出
    • [35]1922年以降の上海・青島・天津での公大第一廠から第九廠までの新設・合併
    • [40]1934年の高砂人絹工場・防府人絹工場の建設による化繊部門への本格進出
    • [41]1934年からの羊毛部門の準備と1936年の毛織工業6工場の経営受託
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [29]1916年の淀川工場建設と綿糸布の漂白染色・捺染加工の開始
    • [31]1921年7月の武藤山治氏の社長就任と1930年1月の退任
    • [37]長尾良吉氏を挟んだ1930年7月の津田信吾氏の社長就任
    • [38]1934年からの毛糸・化学繊維の製造開始と麻製品分野の開拓
    • [39]原料国策に沿った緬羊飼育・葦栽培・亜麻製繊・石炭採掘
  • 日経ビジネス 1999年9月27日号
    • [36]半官半民の日本製鉄を除いた売上高での日本一

戦時の事業膨張と敗戦、繊維専業への縮退

鐘淵実業の分離と鐘淵工業への統合

1937年には平壌人絹工場を建設し、人絹とスフの製造[42]に加わった。受託していた毛織工業の6工場は1941年に正式合併し、続いて荻原毛糸紡績と東洋紡織工業も合併[43]した。満州では康徳毛織の経営にも当たり、朝鮮でも各地に工場を建てた[44]。日華事変から第二次世界大戦の終結までの8年間、繊維事業は産業の軍需化に伴って極端に縮小され[45]、代わって鉱業・重化学・航空機まで業種が広がった。1938年には別会社の鐘淵実業を資本金6000万円で設立[46]し、繊維以外の事業を担わせた。鐘淵実業は旧鐘紡の分身として創設された会社[47]だった。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [42]1937年の平壌人絹工場建設と人絹・スフの製造
    • [43]1941年の毛織工業6工場の正式合併と荻原毛糸紡績・東洋紡織工業の合併
    • [44]満州での康徳毛織の経営と朝鮮各地での工場建設
    • [45]日華事変から第二次世界大戦終結までの8年間における繊維事業の縮小と鉱業・重化学・航空機への拡大
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [46]1938年の鐘淵実業の設立と資本金6000万円
    • [47]旧鐘紡の分身として創設された鐘淵実業

鐘淵実業は鐘紡が営んでいた繊維以外の事業を継承して鉱・化・農・牧の各分野へ広げ[48]、鐘紡所属の繊維工場の転用や諸工場の新設買収によって重工業・金属鉱業・木材工業・航空工業へ進んだ[49]。鐘淵紡績は1941年11月に資本金7000万円となり[50]、綿紡機131万錘・綿織機1万3700台、梳毛機22万5000錘、絹紡機13万2000錘[51]という設備を抱えた。スフの日産は81屯、人絹は35屯[52]に達していた。毛織機1200台、カタン糸676錘、麻精練2セット[53]も備えていた。旧外地の満州・蒙古・華北・華中・南方にも直営事業と投資[54]を広げていた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [48]鐘淵実業による繊維以外の事業の継承と鉱・化・農・牧分野への拡大
    • [49]繊維工場の転用と諸工場の新設買収による重工業・金属鉱業・木材工業・航空工業への進出
    • [50]1941年11月の資本金7000万円
    • [51]綿紡機131万錘・綿織機1万3700台・梳毛機22万5000錘・絹紡機13万2000錘の設備
    • [52]スフ日産81屯・人絹日産35屯の化繊部門の生産能力
    • [53]毛織機1200台・カタン糸676錘・麻精練2セットの設備
    • [54]満州・蒙古・華北・華中・南方での直営事業と投資

1944年2月、時勢の要請により鐘淵紡績と鐘淵実業は合併し、資本金3億2400万円の鐘淵工業が設立[55]された。全事業を一括経営する形[56]がここで生まれた。ところが敗戦で膨大な外地資産をすべて失い、内地工場の戦災や転換も多く[57]、子会社と傍系会社も手放した。戦争による打撃と損失は同業各社に比べて最大[58]だった。1946年5月には商号を鐘淵紡績へ戻し、繊維以外の部門は切り離された[59]。商号を戻したのと同じ年に、カネボウ不動産を設立[60]している。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [55]1944年2月の鐘淵紡績と鐘淵実業の合併による資本金3億2400万円の鐘淵工業の設立
    • [57]敗戦による外地資産の喪失と内地工場の戦災・転換、子会社・傍系会社の手放し
    • [58]同業各社と比べて最大だった戦争の打撃と損失
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [56]鐘淵工業による全事業の一括経営
    • [59]商号の鐘淵紡績への復帰と繊維以外の部門の切り離し
  • 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
    • [60]カネボウ不動産の設立
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [42]1937年の平壌人絹工場建設と人絹・スフの製造
    • [43]1941年の毛織工業6工場の正式合併と荻原毛糸紡績・東洋紡織工業の合併
    • [44]満州での康徳毛織の経営と朝鮮各地での工場建設
    • [45]日華事変から第二次世界大戦終結までの8年間における繊維事業の縮小と鉱業・重化学・航空機への拡大
    • [56]鐘淵工業による全事業の一括経営
    • [59]商号の鐘淵紡績への復帰と繊維以外の部門の切り離し
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [46]1938年の鐘淵実業の設立と資本金6000万円
    • [47]旧鐘紡の分身として創設された鐘淵実業
    • [48]鐘淵実業による繊維以外の事業の継承と鉱・化・農・牧分野への拡大
    • [49]繊維工場の転用と諸工場の新設買収による重工業・金属鉱業・木材工業・航空工業への進出
    • [50]1941年11月の資本金7000万円
    • [51]綿紡機131万錘・綿織機1万3700台・梳毛機22万5000錘・絹紡機13万2000錘の設備
    • [52]スフ日産81屯・人絹日産35屯の化繊部門の生産能力
    • [53]毛織機1200台・カタン糸676錘・麻精練2セットの設備
    • [54]満州・蒙古・華北・華中・南方での直営事業と投資
    • [55]1944年2月の鐘淵紡績と鐘淵実業の合併による資本金3億2400万円の鐘淵工業の設立
    • [57]敗戦による外地資産の喪失と内地工場の戦災・転換、子会社・傍系会社の手放し
    • [58]同業各社と比べて最大だった戦争の打撃と損失
  • 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
    • [60]カネボウ不動産の設立

繊維のみを残す事業整理と設備の復元

1945年12月に倉知四郎氏が社長へ就任し、1948年6月には倉知氏の退任を受けて武藤絲治氏が社長に就いた[61]。武藤氏は挙社一致での再起を掲げ、陣頭指揮で復元にあたった[62]。1949年4月には7つの化学工場を2億円で現物出資して第二会社の鐘淵化学工業を創立[63]し、9月には化学部門の分離を終えて木材・造機・鉱山の各事業を全廃し、繊維のみを存置[64]した。この整理によって、戦前に鉱業・重化学・航空機まで広げた事業群は繊維一本へ絞り込まれた。分離した鐘淵化学工業は、のちのカネカである[65]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [61]1945年12月の倉知四郎氏の社長就任と1948年6月の武藤絲治氏の社長就任
    • [62]武藤絲治氏による挙社一致の再起と陣頭指揮
    • [63]7つの化学工場の2億円の現物出資による第二会社鐘淵化学工業の創立
  • 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
    • [64]化学部門の分離と木材・造機・鉱山各事業の全廃、繊維のみの存置
    • [65]鐘淵化学工業とカネカの連なり

資本金は終戦時の3億2400万円から1949年11月に16億3000万円へ増え[66]、1950年9月には日本セルローズ工業を合併して17億8000万円[67]となった。1953年2月にはニューヨーク鐘紡を設立し、バンコクとハンブルクに駐在員を置いた[68]。設備の復元は1955年4月時点で綿紡機636,962錘に達し、終戦時の213,500錘[69]の約3倍へ戻った。綿織機は2,847台から6,999台、梳毛機は33,800錘から137,429錘、スフの日産はゼロから74屯[70]へ回復した。紡毛カードは4台から47台、毛織機は93台から182台[71]へ増えた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [66]終戦時3億2400万円から1949年11月16億3000万円への資本金の増加
    • [67]1950年9月の日本セルローズ工業の合併と資本金17億8000万円
    • [68]1953年2月のニューヨーク鐘紡の設立とバンコク・ハンブルクへの駐在員の配置
    • [69]1955年4月時点の綿紡機636,962錘と終戦時213,500錘
    • [70]綿織機2,847台から6,999台・梳毛機33,800錘から137,429錘・スフ日産74屯への復元
    • [71]紡毛カード4台から47台・毛織機93台から182台への復元

製品の高級化のため、淀川工場にはデュポンのJ・BOX連続漂白機2台と、米国ピーボディ社特許のサンフォライズ防縮仕上機5台[72]を据えた。ウイリアムユニット型連続染色機やモリソン式連続染色機、毛織物防縮加工用のロンドン・シュランキングマシン[73]も同じ工場に入った。晒は2セットから14.5セット、染色は2.5セットから2.7セット、捺染は0.4セットから8セット[74]へ増えた。1955年4月期の総売上高は195億8000万円[75]で、内訳は綿関係47.2%・毛関係25.8%・絹関係12.0%・化繊関係14.3%[76]だった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [72]淀川工場へのJ・BOX連続漂白機2台とサンフォライズ防縮仕上機5台の設置
    • [73]淀川工場へのウイリアムユニット型連続染色機・モリソン式連続染色機・ロンドン・シュランキングマシンの設置
    • [74]晒2セットから14.5セット・染色2.5セットから2.7セット・捺染0.4セットから8セットへの復元
    • [75]1955年4月期の総売上高195億8000万円
    • [76]綿関係47.2%・毛関係25.8%・絹関係12.0%・化繊関係14.3%の売上構成
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [61]1945年12月の倉知四郎氏の社長就任と1948年6月の武藤絲治氏の社長就任
    • [62]武藤絲治氏による挙社一致の再起と陣頭指揮
    • [63]7つの化学工場の2億円の現物出資による第二会社鐘淵化学工業の創立
    • [66]終戦時3億2400万円から1949年11月16億3000万円への資本金の増加
    • [67]1950年9月の日本セルローズ工業の合併と資本金17億8000万円
    • [68]1953年2月のニューヨーク鐘紡の設立とバンコク・ハンブルクへの駐在員の配置
    • [69]1955年4月時点の綿紡機636,962錘と終戦時213,500錘
    • [70]綿織機2,847台から6,999台・梳毛機33,800錘から137,429錘・スフ日産74屯への復元
    • [71]紡毛カード4台から47台・毛織機93台から182台への復元
    • [72]淀川工場へのJ・BOX連続漂白機2台とサンフォライズ防縮仕上機5台の設置
    • [73]淀川工場へのウイリアムユニット型連続染色機・モリソン式連続染色機・ロンドン・シュランキングマシンの設置
    • [74]晒2セットから14.5セット・染色2.5セットから2.7セット・捺染0.4セットから8セットへの復元
    • [75]1955年4月期の総売上高195億8000万円
    • [76]綿関係47.2%・毛関係25.8%・絹関係12.0%・化繊関係14.3%の売上構成
  • 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
    • [64]化学部門の分離と木材・造機・鉱山各事業の全廃、繊維のみの存置
    • [65]鐘淵化学工業とカネカの連なり

朝鮮特需の反動と天然繊維依存の限界

朝鮮特需の期間、半期売上は1950年4月期の92億円から1951年9月期の247億円へ約2.7倍[77]に伸びた。1951年4月期の税引後利益は40.6億円、税引後利益率は24.2%[78]を記録した。ただし1953年4月期の利益は2億円まで急落[79]し、好況は市況に依存した一過性のものだった。1953年時点の工場は綿・毛・絹・スフの34を数え、洲本3,076名・淀川2,385名・防府1,895名[80]を筆頭に従業員は数万人規模に達した。

  • 会社年鑑
    • [77]1950年4月期92億円から1951年9月期247億円への半期売上の伸長
    • [78]1951年4月期の税引後利益40.6億円と税引後利益率24.2%
    • [79]1953年4月期の利益2億円への急落
    • [80]1953年時点の綿・毛・絹・スフ34工場と洲本3,076名・淀川2,385名・防府1,895名

1958年、鐘紡は紡績工場の一部休止を決め、7月には蚕糸部門を分離して鐘淵蚕糸を設立[81]した。翌1959年には博多・中津・中島の各工場を閉鎖[82]した。それまでの閉鎖対象は従業員100〜500名規模の地方の生糸繰糸工場だったが、この年から1000名規模の主力工場へ広がり、生産調整が本格化した。不況対策として鐘紡は1年間の全社賃金カットに踏み切り、経営危機を切り抜けた[83]。会社が悪化すれば従業員の待遇も悪くなるという理解が社内に広がり、企業意識はかえって高まった[84]

  • 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
    • [81]蚕糸部門の分離と鐘淵蚕糸の設立
    • [82]博多・中津・中島各工場の閉鎖
  • ダイヤモンド臨時増刊 1964年3月10日号
    • [83]1年間の全社賃金カットによる経営危機の収拾
    • [84]賃金カットを通じた従業員の企業意識の高まり

当時の綿紡績業には『午後3時の産業』『午後4時の産業』という見方が出始めており[85]、祖業の将来展望は描きにくくなっていた。鐘紡が『生活美関連産業を目指す』という旗印のもとで多角化に着手[86]したのは、この時期である。多角化は縦の軸と横の軸から組み立てられた[87]。縦の軸は紡績だけでなく織布・加工・ファッションまでを一貫して手がけることを指し、同時に合成繊維事業の育成も進めた[88]。横の軸では技術や販売の情報を共有できる分野を選び、化粧品・薬品・食品へ多角化[89]した。のちに鐘紡が自ら振り返った多角化の歴史は、この昭和30年代にさかのぼる[90]

  • 日経ビジネス 1993年6月21日号
    • [85]綿紡績業に対する「午後3時の産業」「午後4時の産業」という見方
    • [86]「生活美関連産業を目指す」という旗印のもとでの多角化への着手
    • [87]縦の軸と横の軸から組み立てられた多角化
    • [88]紡績から織布・加工・ファッションまでの一貫化と合成繊維事業の育成という縦の軸
    • [89]技術や販売の情報を共有できる化粧品・薬品・食品への多角化という横の軸
    • [90]昭和30年代にさかのぼる鐘紡の多角化の歴史
  • 会社年鑑
    • [77]1950年4月期92億円から1951年9月期247億円への半期売上の伸長
    • [78]1951年4月期の税引後利益40.6億円と税引後利益率24.2%
    • [79]1953年4月期の利益2億円への急落
    • [80]1953年時点の綿・毛・絹・スフ34工場と洲本3,076名・淀川2,385名・防府1,895名
  • 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
    • [81]蚕糸部門の分離と鐘淵蚕糸の設立
    • [82]博多・中津・中島各工場の閉鎖
  • ダイヤモンド臨時増刊 1964年3月10日号
    • [83]1年間の全社賃金カットによる経営危機の収拾
    • [84]賃金カットを通じた従業員の企業意識の高まり
  • 日経ビジネス 1993年6月21日号
    • [85]綿紡績業に対する「午後3時の産業」「午後4時の産業」という見方
    • [86]「生活美関連産業を目指す」という旗印のもとでの多角化への着手
    • [87]縦の軸と横の軸から組み立てられた多角化
    • [88]紡績から織布・加工・ファッションまでの一貫化と合成繊維事業の育成という縦の軸
    • [89]技術や販売の情報を共有できる化粧品・薬品・食品への多角化という横の軸
    • [90]昭和30年代にさかのぼる鐘紡の多角化の歴史

多角化への転進と化粧品事業への収益集中

グレーターカネボウ計画とナイロンへの進出

社長に復した武藤絲治氏はイタリアのスニア・ビスコーザ社へ自ら飛び、化繊各社が狙っていたナイロンの新技術の導入をまとめた[91]。1961年10月、鐘紡はグレーターカネボウ建設計画を公表[92]し、天然繊維への偏りを改めてナイロン・化粧品・食品の3分野を成長領域に据えた。計画の中心はナイロンの企業化と化粧品・食品の拡充にあり、いずれも戦前の事業につながっていた[93]。防府工場ではナイロン事業へ約200億円を投じ[94]、合成繊維市場へ本格参入した。ただし主眼は天然繊維に加えて合繊に乗り出すという繊維中心の規模拡大にあり、非繊維部門は合繊進出の支援部隊という扱い[95]にとどまった。

  • 読売新聞 1961年4月26日
    • [91]武藤絲治氏によるスニア・ビスコーザ社からのナイロン新技術の導入
  • ダイヤモンド 1967年9月4日号
    • [92]1961年10月のグレーターカネボウ建設計画の公表
    • [93]ナイロンの企業化と化粧品・食品の拡充という計画の中心
    • [94]防府工場のナイロン事業への約200億円の投資
  • 日経ビジネス 1977年8月15日号
    • [95]グレーターカネボウ建設計画の主眼だった繊維中心の規模拡大と非繊維部門の位置づけ

化粧品事業は1961年1月にカネボウ化粧品を設立して鐘淵化学工業から営業譲受[96]し、1962年4月に同社を合併して本体へ取り込んだ[97]。販売会社の設立には累計約100億円[98]を投じた。1964年4月にはハリスを合併して小田原工場を得て[99]、1965年2月に共栄毛織、8月に立花製菓を合併し、食品事業へ入った[100]。1966年10月にはヤマシロ製薬の経営権を譲り受け[101]、薬品事業へも足を踏み入れた。1971年8月には中滝製薬工業の経営権を譲り受け[102]、翌1972年5月にカネボウ薬品販売を設立した。1974年2月にはカネボウフーズ東京販売を設立[103]し、食品の販路も自前で持った。

  • 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
    • [96]カネボウ化粧品の設立と鐘淵化学工業からの化粧品事業の営業譲受
    • [97]カネボウ化粧品の合併による本体への取り込み
    • [99]ハリスの合併による小田原工場の取得
    • [100]共栄毛織と立花製菓の合併による食品事業への参入
    • [101]ヤマシロ製薬の経営権譲受による薬品事業への参入
    • [102]中滝製薬工業の経営権譲受とカネボウ薬品販売の設立
    • [103]カネボウフーズ東京販売の設立
  • ダイヤモンド 1967年9月4日号
    • [98]化粧品の販売会社設立への累計約100億円の投資

グレーターカネボウ計画は1961年に始まり1964年に完成し、1964年から1965年の繊維不況のなかでも鐘紡は業界で目立つ好業績[104]を上げた。半期の売上構成は1959年10月期に綿・毛・絹169億円と化繊42億円[105]のほぼ2本柱だったが、1962年10月期にはナイロン18億円と化粧品・食品ほか28億円[106]が立ち上がり、1966年4月期には化粧品・食品が110億円まで拡大[107]した。1968年時点の工場事業場数は60、関係会社数は70余[108]に達した。同じ年の従業員は2万4791名で、事業は綿・毛・絹・化繊・合繊・樹脂・化粧品・薬品・食品に及んだ[109]

  • ダイヤモンド 1967年9月4日号
    • [104]1961年に始まり1964年に完成したグレーターカネボウ計画と繊維不況下の好業績
  • 会社年鑑
    • [105]1959年10月期の綿・毛・絹169億円と化繊42億円の半期売上構成
    • [106]1962年10月期のナイロン18億円と化粧品・食品ほか28億円
    • [107]1966年4月期の化粧品・食品110億円
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [108]1968年時点の工場事業場数60と関係会社数70余
    • [109]1968年時点の従業員2万4791名と綿・毛・絹・化繊・合繊・樹脂・化粧品・薬品・食品にわたる事業
  • 読売新聞 1961年4月26日
    • [91]武藤絲治氏によるスニア・ビスコーザ社からのナイロン新技術の導入
  • ダイヤモンド 1967年9月4日号
    • [92]1961年10月のグレーターカネボウ建設計画の公表
    • [93]ナイロンの企業化と化粧品・食品の拡充という計画の中心
    • [94]防府工場のナイロン事業への約200億円の投資
    • [98]化粧品の販売会社設立への累計約100億円の投資
    • [104]1961年に始まり1964年に完成したグレーターカネボウ計画と繊維不況下の好業績
  • 日経ビジネス 1977年8月15日号
    • [95]グレーターカネボウ建設計画の主眼だった繊維中心の規模拡大と非繊維部門の位置づけ
  • 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
    • [96]カネボウ化粧品の設立と鐘淵化学工業からの化粧品事業の営業譲受
    • [97]カネボウ化粧品の合併による本体への取り込み
    • [99]ハリスの合併による小田原工場の取得
    • [100]共栄毛織と立花製菓の合併による食品事業への参入
    • [101]ヤマシロ製薬の経営権譲受による薬品事業への参入
    • [102]中滝製薬工業の経営権譲受とカネボウ薬品販売の設立
    • [103]カネボウフーズ東京販売の設立
  • 会社年鑑
    • [105]1959年10月期の綿・毛・絹169億円と化繊42億円の半期売上構成
    • [106]1962年10月期のナイロン18億円と化粧品・食品ほか28億円
    • [107]1966年4月期の化粧品・食品110億円
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [108]1968年時点の工場事業場数60と関係会社数70余
    • [109]1968年時点の従業員2万4791名と綿・毛・絹・化繊・合繊・樹脂・化粧品・薬品・食品にわたる事業

ペンタゴン経営と伊藤淳二体制の確立

グレーターカネボウ計画は1965年の不況で挫折した[110]。後発のハンデを負う合繊が浮上しないことが響き、他人資本への依存による財務体質の悪化が致命傷[111]になった。武藤氏は派手な多角経営の失敗を問われて社長を追われ[112]、この交代劇は当時クーデターとも騒がれた。1967年、鐘紡は繊維・化粧品・食品・薬品・住宅環境の5分野を柱とするペンタゴン経営[113]を掲げた。

  • 日経ビジネス 1977年8月15日号
    • [110]1965年の不況によるグレーターカネボウ計画の挫折
    • [111]合繊の不振と他人資本依存による財務体質の悪化
  • 日経ビジネス 1973年3月19日号
    • [112]多角経営の失敗を問われた武藤絲治氏の社長退任
  • 日経ビジネス 1985年9月30日号
    • [113]繊維・化粧品・食品・薬品・住宅環境の5分野を柱とするペンタゴン経営

伊藤氏の社長就任は、城山三郎氏の小説『役員室午後三時』の題材[114]になった。1971年12月には商号を鐘淵紡績から鐘紡へ改めた[115]。1974年10月にはカネボウ中滝製薬とカネボウヤマシロ製薬を合併[116]し、薬品部門を一本化した。1977年3月にカネボウ綿糸、7月に東京レーヌを設立し[117]、1982年8月にはカネボウホームプロダクツ販売を設けた。年間の売上構成は1969年4月期に綿・毛・絹862億円、合繊・化繊503億円、化粧品162億円[118]だったが、1978年4月期には合繊・化繊が2,077億円へ伸びて綿・毛・絹732億円を逆転し、化粧品も585億円[119]に達した。

  • 日経ビジネス 1999年9月27日号
    • [114]伊藤淳二氏の社長就任を題材とした城山三郎氏の小説『役員室午後三時』
  • 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
    • [115]商号の鐘淵紡績から鐘紡への変更
    • [116]カネボウ中滝製薬とカネボウヤマシロ製薬の合併
    • [117]カネボウ綿糸・東京レーヌ・カネボウホームプロダクツ販売の設立
  • 会社年鑑
    • [118]1969年4月期の綿・毛・絹862億円、合繊・化繊503億円、化粧品162億円
    • [119]1978年4月期の合繊・化繊2,077億円と綿・毛・絹732億円の逆転および化粧品585億円

化粧品事業はグループでもっとも高い利益率の事業へ育ち、1977年4月期に売上高544億円・利益64億円を計上[120]した。競争力の源泉は、チェーン店方式を軸とする販売組織と、全額出資で運営する販売子会社[121]による密着型の販売にあった。1967年10月には化粧品販売部門を分離してカネボウ化粧品販売を設立[122]し、同社はのちにカネボウ化粧品へ商号を変更[123]した。1981年11月にはカネボウ化粧品・カネボウディオール・カネボウディオールムッシュの3社を合併[124]し、販社の統合後はカネボウ化粧品北海道販売ほか10社が連結子会社[125]となった。

  • 会社年鑑
    • [120]1977年4月期の化粧品事業の売上高544億円・利益64億円
  • 週刊東洋経済 1975年11月8日号
    • [121]チェーン店方式の販売組織と全額出資の販売子会社による化粧品事業の競争力
  • 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
    • [122]化粧品販売部門の分離とカネボウ化粧品販売の設立
    • [123]カネボウ化粧品販売のカネボウ化粧品への商号変更
    • [124]カネボウ化粧品・カネボウディオール・カネボウディオールムッシュ3社の合併
    • [125]販社統合後にカネボウ化粧品北海道販売ほか10社が連結子会社となったこと
  • 日経ビジネス 1977年8月15日号
    • [110]1965年の不況によるグレーターカネボウ計画の挫折
    • [111]合繊の不振と他人資本依存による財務体質の悪化
  • 日経ビジネス 1973年3月19日号
    • [112]多角経営の失敗を問われた武藤絲治氏の社長退任
  • 日経ビジネス 1985年9月30日号
    • [113]繊維・化粧品・食品・薬品・住宅環境の5分野を柱とするペンタゴン経営
  • 日経ビジネス 1999年9月27日号
    • [114]伊藤淳二氏の社長就任を題材とした城山三郎氏の小説『役員室午後三時』
  • 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
    • [115]商号の鐘淵紡績から鐘紡への変更
    • [116]カネボウ中滝製薬とカネボウヤマシロ製薬の合併
    • [117]カネボウ綿糸・東京レーヌ・カネボウホームプロダクツ販売の設立
    • [122]化粧品販売部門の分離とカネボウ化粧品販売の設立
    • [123]カネボウ化粧品販売のカネボウ化粧品への商号変更
    • [124]カネボウ化粧品・カネボウディオール・カネボウディオールムッシュ3社の合併
    • [125]販社統合後にカネボウ化粧品北海道販売ほか10社が連結子会社となったこと
  • 会社年鑑
    • [118]1969年4月期の綿・毛・絹862億円、合繊・化繊503億円、化粧品162億円
    • [119]1978年4月期の合繊・化繊2,077億円と綿・毛・絹732億円の逆転および化粧品585億円
    • [120]1977年4月期の化粧品事業の売上高544億円・利益64億円
  • 週刊東洋経済 1975年11月8日号
    • [121]チェーン店方式の販売組織と全額出資の販売子会社による化粧品事業の競争力

石油危機と無配転落、資産売却による延命

1973年の第1次石油ショックで合繊は過剰生産に陥り[126]、鐘紡は打撃を受けた。1974年以降、繊維業界が長期不況に対してとった手立ては不況カルテルによる生産調整[127]にとどまった。1975年には構造不況対策として雇用を優先する賃金凍結を労使で合意し、ゼンセン同盟から除名[128]された。同じ年に6工場を閉鎖し、天然繊維事業の縮小[129]にも踏み切った。1975年4月期には無配へ転落し、以後5期連続で経常赤字[130]を計上した。武藤氏のグレーターカネボウ計画も伊藤氏のペンタゴン経営も、この繊維不況で弱さを露呈[131]した。

  • 日経ビジネス 1999年9月27日号
    • [126]1973年の第1次石油ショックによる合繊の過剰生産
    • [128]雇用を優先する賃金凍結の労使合意とゼンセン同盟からの除名
    • [129]1975年の6工場閉鎖と天然繊維事業の縮小
  • 日経ビジネス 1977年8月15日号
    • [127]1974年以降の繊維業界の不況カルテルによる生産調整
  • 週刊東洋経済 1975年11月8日号
    • [130]1975年4月期の無配転落と5期連続の経常赤字
    • [131]繊維不況によるグレーターカネボウ計画とペンタゴン経営の弱さの露呈

繊維の大幅な欠損を非繊維部門で埋められなかった[132]ことが、無配の直接の理由だった。非繊維で収益源に育ったのは化粧品だけ[133]で、食品・薬品・住宅環境の3分野は苦戦した。5本柱を掲げたペンタゴン経営は、繊維の売上規模が過大ないびつな不等辺五角形[134]の姿になった。鐘紡は構造不況業種のなかでもっとも早く意思決定をした企業の一つで、化粧品・食品・薬品・住宅環境という異業種への多角化[135]を転進の道に選んだ。1977年6月、鐘紡は天然繊維部門を子会社へ分離し、伊藤氏はこれを『裸になって背水の陣を敷いたもの』[引用元]と述べた[136]

  • 日経ビジネス 1977年8月15日号
    • [132]繊維の欠損を非繊維部門で埋められなかったことによる無配転落
    • [133]非繊維で収益源に育ったのが化粧品だけだった事実
    • [134]繊維の売上規模が過大ないびつな不等辺五角形となったペンタゴン経営
    • [135]構造不況業種のなかで最も早い意思決定と異業種多角化による転進
    • [136]1977年6月の天然繊維部門の子会社分離と伊藤淳二氏の発言

鐘紡は資産の切り売りで資金をつなぎ、1974年度以後の11年間で都島地区を中心に約900億円の不動産を売却[137]した。1985年時点の利益構造は、化粧品が100億円以上を稼ぎ、そのほぼ半分を繊維の赤字が食い[138]、残りはわずかな黒字という一本足だった。繊維工場の閉鎖は1970年に5工場、1975年に4工場、1982年に2工場、1992年に4工場[139]と断続的にとどまった。不採算部門を抱えたまま非繊維へ資源を回した結果、繊維では生産性の向上や新素材の開発で後れを取った[140]。国内綿製品市場の7割以上[141]は、すでに輸入品に食われていた。

  • 日経ビジネス 1985年9月30日号
    • [137]1974年度以後11年間の都島地区を中心とする約900億円の不動産売却
    • [138]化粧品100億円以上の利益とそのほぼ半分を食う繊維の赤字
  • 日経ビジネス 1993年6月21日号
    • [139]1970年5工場・1975年4工場・1982年2工場・1992年4工場の繊維工場閉鎖
  • 日経ビジネス 1995年7月31日号
    • [140]新規事業への経営資源の集中による繊維事業の生産性向上と新素材開発の遅れ
    • [141]国内綿製品市場の7割以上を占めた輸入品
  • 日経ビジネス 1999年9月27日号
    • [126]1973年の第1次石油ショックによる合繊の過剰生産
    • [128]雇用を優先する賃金凍結の労使合意とゼンセン同盟からの除名
    • [129]1975年の6工場閉鎖と天然繊維事業の縮小
  • 日経ビジネス 1977年8月15日号
    • [127]1974年以降の繊維業界の不況カルテルによる生産調整
    • [132]繊維の欠損を非繊維部門で埋められなかったことによる無配転落
    • [133]非繊維で収益源に育ったのが化粧品だけだった事実
    • [134]繊維の売上規模が過大ないびつな不等辺五角形となったペンタゴン経営
    • [135]構造不況業種のなかで最も早い意思決定と異業種多角化による転進
    • [136]1977年6月の天然繊維部門の子会社分離と伊藤淳二氏の発言
  • 週刊東洋経済 1975年11月8日号
    • [130]1975年4月期の無配転落と5期連続の経常赤字
    • [131]繊維不況によるグレーターカネボウ計画とペンタゴン経営の弱さの露呈
  • 日経ビジネス 1985年9月30日号
    • [137]1974年度以後11年間の都島地区を中心とする約900億円の不動産売却
    • [138]化粧品100億円以上の利益とそのほぼ半分を食う繊維の赤字
  • 日経ビジネス 1993年6月21日号
    • [139]1970年5工場・1975年4工場・1982年2工場・1992年4工場の繊維工場閉鎖
  • 日経ビジネス 1995年7月31日号
    • [140]新規事業への経営資源の集中による繊維事業の生産性向上と新素材開発の遅れ
    • [141]国内綿製品市場の7割以上を占めた輸入品

祖業の崩落と粉飾決算の露呈、そして解体

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鐘紡の沿革1887〜2007年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1886〜1936年綿商社から紡績業への転換と紡績大合同論東京綿商社を創業
東京株式取引所に株式を上場
鐘ヶ淵紡績会社に組織変更
中上川彦次郎氏が社長就任
紡績大合同論を提唱。企業買収を積極化★★
総合繊維メーカーを志向
鐘紡が日本企業で売上高1位へ
1937〜1960年戦時の事業膨張と敗戦、繊維専業への縮退鐘淵紡績と鐘淵実業が合併し鐘淵工業を設立
武藤絲治が鐘紡の社長に就任
東京証券取引所の再開にともない株式を上場
化学部門を分離・鐘淵化学工業を設立★★
朝鮮特需で好調
紡績工場の一部休止を決定
博多工場・中津工場・中島工場を閉鎖
1961〜1992年多角化への転進と化粧品事業への収益集中グレーターカネボウ計画とペンタゴン経営による多角化

1961年、鐘紡が武藤絲治社長の主導でグレーターカネボウ(GK)建設計画を公表し、ナイロン・化粧品・食品への多角化に着手、1967年には伊藤淳二社長のもとで繊維・化粧品・食品・薬品・住宅環境の五本柱によるペンタゴン経営へ再編した経営判断。

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★★★
化粧品事業に新規参入★★
午後3時の綿業論を否定
食品事業に参入
ペンタゴン経営を提唱★★
国内5工場を閉鎖
商号を鐘淵紡績から鐘紡に変更
無配転落★★
国内4工場を閉鎖
国内2工場を閉鎖
国内4工場を閉鎖
1993〜2007年祖業の崩落と粉飾決算の露呈、そして解体防府工場の閉鎖撤回
債務超過に転落★★
中嶋章義粉飾決算の発覚と産業再生機構への支援要請

繊維事業の慢性赤字を化粧品の利益で穴埋めし続けた鐘紡は、1990年代に『低稼働』と呼ぶ不適切な会計処理を常態化させ、2003年9月に629億円の連結債務超過へ転落した。唯一の高収益事業である化粧品を花王へ売却して再建する構想は労組の反発と経営陣の内部対立で2004年2月に破談し、帆足隆・会長兼社長は産業再生機構に支援を要請、3月10日に支援が正式決定した。

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★★★
小森哲郎化粧品事業を花王に売却★★
小森哲郎事業の解体売却・花王への化粧品譲渡と会社解散

2004年に産業再生機構の支援下に入った鐘紡(カネボウ)は、企業体そのものの再建ではなく事業単位での切り売りによる再生方針のもとで解体された。唯一の高収益事業だった化粧品事業は約4,100億円で花王へ譲渡され、2005年6月に上場廃止、2007年2月には株主総会で解散を決議して商号を『海岸ベルマネジメント』に改めた経営判断。

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★★★
出典・参考
  • 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
  • 会社年鑑
  • ダイヤモンド臨時増刊 1964年3月10日号
  • ダイヤモンド 1967年9月4日号
  • 日経ビジネス 1973年3月19日号
  • 週刊東洋経済 1975年11月8日号
  • 日経ビジネス 1977年8月15日号
  • 日経ビジネス 1985年9月30日号
  • 日経ビジネス 1993年6月21日号
  • 日経ビジネス 1995年7月31日号
  • 日経ビジネス 1999年9月27日号
  • 読売新聞 1961年4月26日

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