1886年11月、東京繰綿問屋組合に属する三越・大丸・白木・荒尾・奥田の五軒が相寄り[1]、三越得右衛門氏を頭取として資本金10万円の東京綿商社を設立[2]した。当時の東京には繰綿問屋と称するものが九軒あり、三越・白木屋・大丸などの前身[3]がその主なものだった。設立の目的は綿花の定期取引にあり、翌1887年2月に定期売買を開始[4]した。しかし綿花を紡績して糸として売るほうが有利との結論を得て、同年4月に資本金を100万円へ増やした[5]。武蔵国葛飾郡隅田村鐘ヶ淵には3万余錘の紡績工場を建設[6]し、東京綿商社鐘淵紡績場と名づけた。西洋の城廓を想わせる華麗な建物を、世評は『紡績大学校』と呼んだ[7]。
綿花の売買は1888年8月にやめて紡績専業へ転じ[8]、社名も鐘淵紡績会社へ改めた。1889年1月には東京株式取引所へ株式を上場[9]し、同年5月に操業を始めた[10]。もっとも開業が不況期に重なったため[11]、経営は当初から行き詰まった。三井家の事業相談役兼監督だった井上馨氏の援助で、三井家専務理事の中上川彦次郎氏が再建に入った[12]。中上川氏は1892年1月に三井工業部理事の朝吹英二氏とともに取締役へ就き[13]、翌1893年1月には三越得右衛門氏のあとを受けて社長に就任した[14]。同じ1893年には東京第二工場を1万錘で増設し、綿糸の初輸出も果たした[15]。
中上川氏は支那大陸の市場開拓を見据えて神戸に兵庫支店工場を建設し、設備4万錘・用地3万8000余坪[16]の規模を与えた。建設の一切を委ねる支配人には、三井銀行神戸支店で手腕を示していた武藤山治氏を抜擢[17]した。時に武藤氏は28歳だった[18]。買収と合併によって住道・中島・洲本・三池・久留米・熊本・中津・博多の諸工場が綿糸製造工場に加わり[19]、1897年には織布の兼営へも進んだ[20]。資本金は1907年5月に1160万6800円[21]となった。東京と兵庫の二拠点による生産で綿糸の産出は伸び[22]、明治後期にかけて社業は広がった。
1901年10月に中上川氏が世を去ったのち、その理想は武藤山治氏へ引き継がれた[23]。武藤氏は群小紡が乱立する状態を国家的な不利と見て『紡績大合同論』を提唱[24]し、経営体力の乏しい中小紡績を買収したうえで設備を更新し運営を改める再建の型を示した。鐘紡が合併買収した相手は明治大正の両期だけでも上海紡績以下15社26工場に及んだ[25]。1906年には絹業へ進出して京都支店工場を建設[26]し、続いて日本絹綿紡織と絹糸紡績を合併して絹糸布の製造を始めた[27]。鐘紡の製糸進出は当時の家内工業を近代工業へ移し、国産資源の活用によって絹業立国を目指した武藤氏の理想[28]を形にしたものだった。
1916年には淀川工場を建設し、綿糸布の漂白染色と捺染加工[29]を始めた。1921年以降は製糸業にも進出し、絹業関係の工場は昭和初期に23[30]を数えた。武藤氏は1921年7月に社長へ就き、1930年1月の退任[31]まで事業の拡大を指揮した。昭和初期には彦根・長浜・丸子の各工場を新設[32]し、合併買収も綿部門で3社、製糸部門では1931年以降にさらに10社[33]を加えた。外地への進出は1911年の上海製造絹糸の合併に始まり[34]、第一次世界大戦を機に本格化して、1922年以降は上海・青島・天津で公大第一廠から第九廠までを新設または合併[35]した。
1936年、鐘紡は半官半民の日本製鉄を除けば売上高で日本一の企業[36]となった。武藤氏の退任後は長尾良吉氏を挟んで、1930年7月に津田信吾氏が社長へ就いた[37]。津田氏は多角経営へ進み、1934年から毛糸と化学繊維の製造を始めて麻製品の分野も開拓[38]した。原料の国策に沿って緬羊の飼育、葦の栽培、亜麻の製繊、石炭の採掘[39]までが事業に加わった。化繊部門への本格的な進出は、1934年の高砂人絹工場と防府人絹工場の建設[40]から始まった。羊毛部門も1934年から工場を設けて準備に入り、1936年には毛織工業の6工場の経営を受託[41]した。
1937年には平壌人絹工場を建設し、人絹とスフの製造[42]に加わった。受託していた毛織工業の6工場は1941年に正式合併し、続いて荻原毛糸紡績と東洋紡織工業も合併[43]した。満州では康徳毛織の経営にも当たり、朝鮮でも各地に工場を建てた[44]。日華事変から第二次世界大戦の終結までの8年間、繊維事業は産業の軍需化に伴って極端に縮小され[45]、代わって鉱業・重化学・航空機まで業種が広がった。1938年には別会社の鐘淵実業を資本金6000万円で設立[46]し、繊維以外の事業を担わせた。鐘淵実業は旧鐘紡の分身として創設された会社[47]だった。
鐘淵実業は鐘紡が営んでいた繊維以外の事業を継承して鉱・化・農・牧の各分野へ広げ[48]、鐘紡所属の繊維工場の転用や諸工場の新設買収によって重工業・金属鉱業・木材工業・航空工業へ進んだ[49]。鐘淵紡績は1941年11月に資本金7000万円となり[50]、綿紡機131万錘・綿織機1万3700台、梳毛機22万5000錘、絹紡機13万2000錘[51]という設備を抱えた。スフの日産は81屯、人絹は35屯[52]に達していた。毛織機1200台、カタン糸676錘、麻精練2セット[53]も備えていた。旧外地の満州・蒙古・華北・華中・南方にも直営事業と投資[54]を広げていた。
1944年2月、時勢の要請により鐘淵紡績と鐘淵実業は合併し、資本金3億2400万円の鐘淵工業が設立[55]された。全事業を一括経営する形[56]がここで生まれた。ところが敗戦で膨大な外地資産をすべて失い、内地工場の戦災や転換も多く[57]、子会社と傍系会社も手放した。戦争による打撃と損失は同業各社に比べて最大[58]だった。1946年5月には商号を鐘淵紡績へ戻し、繊維以外の部門は切り離された[59]。商号を戻したのと同じ年に、カネボウ不動産を設立[60]している。
1945年12月に倉知四郎氏が社長へ就任し、1948年6月には倉知氏の退任を受けて武藤絲治氏が社長に就いた[61]。武藤氏は挙社一致での再起を掲げ、陣頭指揮で復元にあたった[62]。1949年4月には7つの化学工場を2億円で現物出資して第二会社の鐘淵化学工業を創立[63]し、9月には化学部門の分離を終えて木材・造機・鉱山の各事業を全廃し、繊維のみを存置[64]した。この整理によって、戦前に鉱業・重化学・航空機まで広げた事業群は繊維一本へ絞り込まれた。分離した鐘淵化学工業は、のちのカネカである[65]。
資本金は終戦時の3億2400万円から1949年11月に16億3000万円へ増え[66]、1950年9月には日本セルローズ工業を合併して17億8000万円[67]となった。1953年2月にはニューヨーク鐘紡を設立し、バンコクとハンブルクに駐在員を置いた[68]。設備の復元は1955年4月時点で綿紡機636,962錘に達し、終戦時の213,500錘[69]の約3倍へ戻った。綿織機は2,847台から6,999台、梳毛機は33,800錘から137,429錘、スフの日産はゼロから74屯[70]へ回復した。紡毛カードは4台から47台、毛織機は93台から182台[71]へ増えた。
製品の高級化のため、淀川工場にはデュポンのJ・BOX連続漂白機2台と、米国ピーボディ社特許のサンフォライズ防縮仕上機5台[72]を据えた。ウイリアムユニット型連続染色機やモリソン式連続染色機、毛織物防縮加工用のロンドン・シュランキングマシン[73]も同じ工場に入った。晒は2セットから14.5セット、染色は2.5セットから2.7セット、捺染は0.4セットから8セット[74]へ増えた。1955年4月期の総売上高は195億8000万円[75]で、内訳は綿関係47.2%・毛関係25.8%・絹関係12.0%・化繊関係14.3%[76]だった。
朝鮮特需の期間、半期売上は1950年4月期の92億円から1951年9月期の247億円へ約2.7倍[77]に伸びた。1951年4月期の税引後利益は40.6億円、税引後利益率は24.2%[78]を記録した。ただし1953年4月期の利益は2億円まで急落[79]し、好況は市況に依存した一過性のものだった。1953年時点の工場は綿・毛・絹・スフの34を数え、洲本3,076名・淀川2,385名・防府1,895名[80]を筆頭に従業員は数万人規模に達した。
1958年、鐘紡は紡績工場の一部休止を決め、7月には蚕糸部門を分離して鐘淵蚕糸を設立[81]した。翌1959年には博多・中津・中島の各工場を閉鎖[82]した。それまでの閉鎖対象は従業員100〜500名規模の地方の生糸繰糸工場だったが、この年から1000名規模の主力工場へ広がり、生産調整が本格化した。不況対策として鐘紡は1年間の全社賃金カットに踏み切り、経営危機を切り抜けた[83]。会社が悪化すれば従業員の待遇も悪くなるという理解が社内に広がり、企業意識はかえって高まった[84]。
当時の綿紡績業には『午後3時の産業』『午後4時の産業』という見方が出始めており[85]、祖業の将来展望は描きにくくなっていた。鐘紡が『生活美関連産業を目指す』という旗印のもとで多角化に着手[86]したのは、この時期である。多角化は縦の軸と横の軸から組み立てられた[87]。縦の軸は紡績だけでなく織布・加工・ファッションまでを一貫して手がけることを指し、同時に合成繊維事業の育成も進めた[88]。横の軸では技術や販売の情報を共有できる分野を選び、化粧品・薬品・食品へ多角化[89]した。のちに鐘紡が自ら振り返った多角化の歴史は、この昭和30年代にさかのぼる[90]。
社長に復した武藤絲治氏はイタリアのスニア・ビスコーザ社へ自ら飛び、化繊各社が狙っていたナイロンの新技術の導入をまとめた[91]。1961年10月、鐘紡はグレーターカネボウ建設計画を公表[92]し、天然繊維への偏りを改めてナイロン・化粧品・食品の3分野を成長領域に据えた。計画の中心はナイロンの企業化と化粧品・食品の拡充にあり、いずれも戦前の事業につながっていた[93]。防府工場ではナイロン事業へ約200億円を投じ[94]、合成繊維市場へ本格参入した。ただし主眼は天然繊維に加えて合繊に乗り出すという繊維中心の規模拡大にあり、非繊維部門は合繊進出の支援部隊という扱い[95]にとどまった。
化粧品事業は1961年1月にカネボウ化粧品を設立して鐘淵化学工業から営業譲受[96]し、1962年4月に同社を合併して本体へ取り込んだ[97]。販売会社の設立には累計約100億円[98]を投じた。1964年4月にはハリスを合併して小田原工場を得て[99]、1965年2月に共栄毛織、8月に立花製菓を合併し、食品事業へ入った[100]。1966年10月にはヤマシロ製薬の経営権を譲り受け[101]、薬品事業へも足を踏み入れた。1971年8月には中滝製薬工業の経営権を譲り受け[102]、翌1972年5月にカネボウ薬品販売を設立した。1974年2月にはカネボウフーズ東京販売を設立[103]し、食品の販路も自前で持った。
グレーターカネボウ計画は1961年に始まり1964年に完成し、1964年から1965年の繊維不況のなかでも鐘紡は業界で目立つ好業績[104]を上げた。半期の売上構成は1959年10月期に綿・毛・絹169億円と化繊42億円[105]のほぼ2本柱だったが、1962年10月期にはナイロン18億円と化粧品・食品ほか28億円[106]が立ち上がり、1966年4月期には化粧品・食品が110億円まで拡大[107]した。1968年時点の工場事業場数は60、関係会社数は70余[108]に達した。同じ年の従業員は2万4791名で、事業は綿・毛・絹・化繊・合繊・樹脂・化粧品・薬品・食品に及んだ[109]。
グレーターカネボウ計画は1965年の不況で挫折した[110]。後発のハンデを負う合繊が浮上しないことが響き、他人資本への依存による財務体質の悪化が致命傷[111]になった。武藤氏は派手な多角経営の失敗を問われて社長を追われ[112]、この交代劇は当時クーデターとも騒がれた。1967年、鐘紡は繊維・化粧品・食品・薬品・住宅環境の5分野を柱とするペンタゴン経営[113]を掲げた。
伊藤氏の社長就任は、城山三郎氏の小説『役員室午後三時』の題材[114]になった。1971年12月には商号を鐘淵紡績から鐘紡へ改めた[115]。1974年10月にはカネボウ中滝製薬とカネボウヤマシロ製薬を合併[116]し、薬品部門を一本化した。1977年3月にカネボウ綿糸、7月に東京レーヌを設立し[117]、1982年8月にはカネボウホームプロダクツ販売を設けた。年間の売上構成は1969年4月期に綿・毛・絹862億円、合繊・化繊503億円、化粧品162億円[118]だったが、1978年4月期には合繊・化繊が2,077億円へ伸びて綿・毛・絹732億円を逆転し、化粧品も585億円[119]に達した。
化粧品事業はグループでもっとも高い利益率の事業へ育ち、1977年4月期に売上高544億円・利益64億円を計上[120]した。競争力の源泉は、チェーン店方式を軸とする販売組織と、全額出資で運営する販売子会社[121]による密着型の販売にあった。1967年10月には化粧品販売部門を分離してカネボウ化粧品販売を設立[122]し、同社はのちにカネボウ化粧品へ商号を変更[123]した。1981年11月にはカネボウ化粧品・カネボウディオール・カネボウディオールムッシュの3社を合併[124]し、販社の統合後はカネボウ化粧品北海道販売ほか10社が連結子会社[125]となった。
1973年の第1次石油ショックで合繊は過剰生産に陥り[126]、鐘紡は打撃を受けた。1974年以降、繊維業界が長期不況に対してとった手立ては不況カルテルによる生産調整[127]にとどまった。1975年には構造不況対策として雇用を優先する賃金凍結を労使で合意し、ゼンセン同盟から除名[128]された。同じ年に6工場を閉鎖し、天然繊維事業の縮小[129]にも踏み切った。1975年4月期には無配へ転落し、以後5期連続で経常赤字[130]を計上した。武藤氏のグレーターカネボウ計画も伊藤氏のペンタゴン経営も、この繊維不況で弱さを露呈[131]した。
繊維の大幅な欠損を非繊維部門で埋められなかった[132]ことが、無配の直接の理由だった。非繊維で収益源に育ったのは化粧品だけ[133]で、食品・薬品・住宅環境の3分野は苦戦した。5本柱を掲げたペンタゴン経営は、繊維の売上規模が過大ないびつな不等辺五角形[134]の姿になった。鐘紡は構造不況業種のなかでもっとも早く意思決定をした企業の一つで、化粧品・食品・薬品・住宅環境という異業種への多角化[135]を転進の道に選んだ。1977年6月、鐘紡は天然繊維部門を子会社へ分離し、伊藤氏はこれを『裸になって背水の陣を敷いたもの』[引用元]と述べた[136]。
鐘紡は資産の切り売りで資金をつなぎ、1974年度以後の11年間で都島地区を中心に約900億円の不動産を売却[137]した。1985年時点の利益構造は、化粧品が100億円以上を稼ぎ、そのほぼ半分を繊維の赤字が食い[138]、残りはわずかな黒字という一本足だった。繊維工場の閉鎖は1970年に5工場、1975年に4工場、1982年に2工場、1992年に4工場[139]と断続的にとどまった。不採算部門を抱えたまま非繊維へ資源を回した結果、繊維では生産性の向上や新素材の開発で後れを取った[140]。国内綿製品市場の7割以上[141]は、すでに輸入品に食われていた。
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|---|---|---|---|---|
| 1886〜1936年綿商社から紡績業への転換と紡績大合同論 | 東京綿商社を創業 | ★ | ||
| 東京株式取引所に株式を上場 | ★ | |||
| 鐘ヶ淵紡績会社に組織変更 | ★ | |||
| 中上川彦次郎氏が社長就任 | ★ | |||
| 紡績大合同論を提唱。企業買収を積極化 | ★★ | |||
| 総合繊維メーカーを志向 | ★ | |||
| 鐘紡が日本企業で売上高1位へ | ★ | |||
| 1937〜1960年戦時の事業膨張と敗戦、繊維専業への縮退 | 鐘淵紡績と鐘淵実業が合併し鐘淵工業を設立 | ★ | ||
| 武藤絲治が鐘紡の社長に就任 | ★ | |||
| 東京証券取引所の再開にともない株式を上場 | ★ | |||
| 化学部門を分離・鐘淵化学工業を設立 | ★★ | |||
| 朝鮮特需で好調 | ★ | |||
| 紡績工場の一部休止を決定 | ★ | |||
| 博多工場・中津工場・中島工場を閉鎖 | ★ | |||
| 1961〜1992年多角化への転進と化粧品事業への収益集中 | グレーターカネボウ計画とペンタゴン経営による多角化 1961年、鐘紡が武藤絲治社長の主導でグレーターカネボウ(GK)建設計画を公表し、ナイロン・化粧品・食品への多角化に着手、1967年には伊藤淳二社長のもとで繊維・化粧品・食品・薬品・住宅環境の五本柱によるペンタゴン経営へ再編した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 化粧品事業に新規参入 | ★★ | |||
| 午後3時の綿業論を否定 | ★ | |||
| 食品事業に参入 | ★ | |||
| ペンタゴン経営を提唱 | ★★ | |||
| 国内5工場を閉鎖 | ★ | |||
| 商号を鐘淵紡績から鐘紡に変更 | ★ | |||
| 無配転落 | ★★ | |||
| 国内4工場を閉鎖 | ★ | |||
| 国内2工場を閉鎖 | ★ | |||
| 国内4工場を閉鎖 | ★ | |||
| 1993〜2007年祖業の崩落と粉飾決算の露呈、そして解体 | 防府工場の閉鎖撤回 | ★ | ||
| 債務超過に転落 | ★★ | |||
| 中嶋章義 | 粉飾決算の発覚と産業再生機構への支援要請 繊維事業の慢性赤字を化粧品の利益で穴埋めし続けた鐘紡は、1990年代に『低稼働』と呼ぶ不適切な会計処理を常態化させ、2003年9月に629億円の連結債務超過へ転落した。唯一の高収益事業である化粧品を花王へ売却して再建する構想は労組の反発と経営陣の内部対立で2004年2月に破談し、帆足隆・会長兼社長は産業再生機構に支援を要請、3月10日に支援が正式決定した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 小森哲郎 | 化粧品事業を花王に売却 | ★★ | ||
| 小森哲郎 | 事業の解体売却・花王への化粧品譲渡と会社解散 2004年に産業再生機構の支援下に入った鐘紡(カネボウ)は、企業体そのものの再建ではなく事業単位での切り売りによる再生方針のもとで解体された。唯一の高収益事業だった化粧品事業は約4,100億円で花王へ譲渡され、2005年6月に上場廃止、2007年2月には株主総会で解散を決議して商号を『海岸ベルマネジメント』に改めた経営判断。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(鐘紡)