東京綿商社を創業
明治期の綿花輸入貿易が直面した事業構造の限界
1887年、東京の有力商社と百貨店5社の出資により、合資会社「東京綿商社」が日本橋に設立された。出資者は三越、大丸、白木、荒尾、奥田であり、三越の参加によって三井系の商社として位置づけられた。資本金は10万円で、事業の中核は中国から綿花を輸入し国内の紡績会社に販売する貿易業務であった。紡績業が拡張期にあった当時、原料の綿花輸入は取扱量の増加が見込まれる事業領域であった。
しかし対中取引は制度面の制約を受け、綿花の安定調達は容易ではなかった。取扱数量が伸び悩むなか、売買仲介に限定された事業構造では収益の拡張に限界が生じた。綿花の輸入から紡績製品の製造に至る工程のうち、東京綿商社が担うのは原料の流通のみであり、付加価値の大半は紡績工場に帰属していた。原料取引の先にある製造工程を自社で担う選択肢が、経営陣のなかで検討される局面に至った。
貿易商社から紡績メーカーへの事業転換と工場建設
東京綿商社は商社から製造業への移行を方針に定め、紡績業への参入を決断した。原料取引から生産工程へと事業領域を移す判断であり、商社機能に依存した収益構造の変更を意味した。参入にあたってはイギリスからリング式紡績機を輸入し、大規模工場を建設する計画が採用された。工場用地には水運の利便性を見込んで隅田川沿いの鐘ヶ淵が選定され、旧隅田御殿跡の敷地を一体で確保した。
製造業への専念を明確にするため東京綿商社は解散され、三井系資本のもとで「鐘ヶ淵紡績会社」が新たに発足した。設備規模は3万錘に設定され、当時としては大型の工場であった。しかし紡績技術に通じた人材は国内に不足しており、リング式紡機を十分に扱える技術者の確保は困難を極めた。技術文献も乏しく、工場経営に不可欠な「機械と人間の調和」が未達成のまま操業が開始された。
鐘ヶ淵紡績の発足と技術者不足による初期の苦闘
1889年2月に鐘ヶ淵紡績所が稼働を開始し、同年8月に組織を改め「鐘ヶ淵紡績会社」として正式に発足した。しかし操業直後から技術面の問題が噴出した。3万錘規模の工場を管理し得る技術者は国内に存在せず、紡績機の運転効率は低迷を続けた。イギリスでさえリング式がミュール式から置き換わる過渡期であり、日本での技術蓄積はほぼ皆無であった。設備投資に対して生産が追いつかず、鐘紡は早期から赤字を計上した。
経営は創業直後から苦境に立たされ、会社解散も議論される状況となった。技術者不足と運営体制の未整備により、工場経営は想定を大きく下回った。もっともこの苦闘の過程で、鐘紡は紡績技術を社内に蓄積する基盤を徐々に形成しつつあった。貿易商社から製造業への転身は創業期に深刻な代償を伴ったが、以後の企業買収と大規模工場展開の出発点となった。鐘紡の歴史は、この鐘ヶ淵の紡績工場から始まった。