恐慌下の判断としては、穏当な部類に入る。研究所を閉じれば研究は消え、会社に置いたままにすれば株主の利益と衝突する。大原孫三郎氏が選んだのは、帰属だけを自分へ移して仕事を残す道であった。ただし個人が抱えられる規模には限りがあり、外部資金への依存と東京移転は、その限界が現れた結果と推察される。会社の福利厚生として始まった研究が、会社の外で自立する道を探し始めた6年間であった。
倉敷紡績にとっては、社会事業を切り離した年が本業を広げ直す年でもあった。1935年の倉敷毛織設立、1936年の羊毛工業とスフ紡への進出は、恐慌で止めた投資を綿以外の繊維で再開する動きにあたる。研究所が離れたあとも、倉紡中央病院は倉敷の地に残り、いまの倉敷中央病院として診療を続けている。個人経営に移った研究所も、いまは大原記念労働科学研究所として働く人の調査を続け、2021年に創立100年を迎えた。