倉敷紡績世界恐慌下で倉敷労働科学研究所を会社から大原孫三郎氏の個人経営へ移す

会社の勘定で持つか、個人の財布で持つか。恐慌が社会事業の帰属を問い直した

時期 1930年6月
意思決定者(推定) 大原孫三郎 社長
論点 本業以外の事業をどこまで会社に置くか
概要
1930年6月、倉敷紡績が工場内に開いた倉敷労働科学研究所が、会社の事業から大原孫三郎氏の個人経営へ移された。世界恐慌で綿業が沈んだ時期に、本業以外の負担を会社の外へ出す判断であった。
背景
研究所は1921年7月に倉敷紡績の工場内で発足し、1923年には倉紡中央病院も開院していた。研究対象は郵便事務や海女の労働、農村の労働へ広がり、紡績の現場から離れていた。
内容
研究所の経営は会社から大原孫三郎氏個人へ移った。研究員は会社が抱える従業員ではなくなり、以後の運営費は個人の負担で賄われた。同じ1930年、大原美術館が開館している。
含意
会社は紡績本業に戻り、1935年に倉敷毛織を設立、1936年に羊毛工業とスフ紡へ進出した。研究所は1936年11月に解散式を開き、大原孫三郎氏が維持費を添えて日本学術振興会へ寄託し、東京へ移った。
筆者の見解

会社が持てるもの、個人が持てるもの

恐慌下の判断としては、穏当な部類に入る。研究所を閉じれば研究は消え、会社に置いたままにすれば株主の利益と衝突する。大原孫三郎氏が選んだのは、帰属だけを自分へ移して仕事を残す道であった。ただし個人が抱えられる規模には限りがあり、外部資金への依存と東京移転は、その限界が現れた結果とみられる。会社の福利厚生として始まった研究が、会社の外で自立する道を探し始めた6年間であった。

倉敷紡績にとっては、社会事業を切り離した年が本業を広げ直す年でもあった。1935年の倉敷毛織設立、1936年の羊毛工業とスフ紡への進出は、恐慌で止めた投資を綿以外の繊維で再開する動きにあたる。研究所が離れたあとも、倉紡中央病院は倉敷の地に残り、いまの倉敷中央病院として診療を続けている。個人経営に移った研究所も、いまは大原記念労働科学研究所として働く人の調査を続け、2021年に創立100年を迎えた。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

工場の中に建てた研究所

1920年2月、生理学者の暉峻義等氏は大原孫三郎社長とともに倉紡万寿工場を深夜に訪ね、工場内に研究所を設ける提案を受けた。同年7月から8月にかけて万寿工場で予備調査が行われ、12月には大原社会問題研究所の高野岩三郎所長と大原孫三郎氏が会って設立が決まった。1921年3月に建築へ着手し、7月1日、倉敷労働科学研究所が創立された。初代所長には暉峻義等氏が就いている。研究の場は、大学でも官庁でもなく、綿を紡ぐ工場の敷地であった[1]

会社の負担で始めた事業は研究所だけではない。1919年2月には大原孫三郎氏が倉敷紡績社長として大原社会問題研究所を創立し、1923年には倉紡中央病院を開いた。病院の建設は、従業員が一万人近くになった健康管理と、西日本一帯に流行したスペイン風邪に対する地域住民の医療の不備を見かねての決断だったと、倉敷紡績は自社の歴史に記している。従業員と地域の健康に会社の金を回す形が、1920年代を通じて広がっていた[2][3]

研究は紡績の外へ広がった

研究所の仕事は、倉敷紡績の工場の外へ早くから及んだ。1924年6月に『労働科学研究』第1巻第1号を創刊し、研究室内に温湿度調節室を設けて協同実験を始めている。1926年3月には逓信省が郵便事務の能率研究を委託し、同年5月22日には摂政宮が研究所を訪れた。1927年6月から7月にかけては、暉峻義等氏らが三重県志摩で海女の労働を調べている。紡績女工の作業環境から始まった研究は、他産業の労働へ広がった[4]

1929年2月には産業衛生協議会が創立され、同年5月には携行食として作られた「労研饅頭」が完成して試食会が開かれた。1930年5月には職業婦人の妊娠出産調査が始まり、6月には倉敷市帯江村で農業労働調査に入っている。研究の題目は農村と職業婦人にまで及び、綿糸の生産能率と直に結びつく調査は割合を減らした。会社の事業として研究所を持ち続ける説明は、年を追うごとに立てにくくなった[5]

決断

1930年6月、会社から個人へ

1929年の世界恐慌は日本の綿業を直撃した。倉敷紡績が再び伸びるのは1931年の満州事変以降で、輸出の増加がめざましくなり、1933年には日本が英国を抜いて綿布輸出で世界第一位となる。裏を返せば、1930年前後は綿糸・綿布の需要が細り、会社が守勢に立たされた時期にあたる。工場の操業と配当を維持することが先に立ち、本業から離れた支出を会社の帳簿に載せておく余地は狭まっていた[6]

1930年6月、倉敷労働科学研究所は大原孫三郎氏の個人経営に移った。会社が抱える事業ではなくなり、以後の運営は社長個人の負担で続けられた。研究所を畳んで研究者を解雇するのでも、規模を半分に縮めるのでもなく、帰属だけを会社から個人へ移す形が選ばれている。同じ1930年には大原美術館が開館した。会社の名ではなく大原の名を冠した施設が、恐慌の年に倉敷で開いている[7][8]

個人経営に移ったあとの研究所

移管後も研究は止まらなかった。1932年1月には倉敷労研図書館が設立され、同年、奥山美佐雄氏が労研式ガス分析器を発表している。1933年1月には有栖川宮記念厚生資金が研究に与えられ、6月には岡山県高月村に農業労働調査所が置かれた。同年12月には岡山山陽新報社の職工の鉛中毒調査が行われ、石川知福氏が塵肺の研究を始めている。会社の一部門ではなくなった研究所は、外部資金と個人の負担で仕事を続けた[9]

1935年4月に高月村の農業労働調査所は閉所し、同年7月には農村更生展覧会が開かれ、国民栄養調査が始まった。石川知福氏と江田周三氏は労研式塵埃計を発表し、古沢一夫氏はエネルギー代謝率を提唱している。研究の宛先は倉敷の工場から日本の農村と国民の栄養へ移り、倉敷紡績の従業員の作業環境を測るという当初の役目からは離れた。個人経営への移管は、その距離を制度の側で追認する処理でもあった[10]

結果

本業の回復と、研究所の東京移転

会社の側は紡績と織布に人と金を戻した。1933年には本社業務の大阪移転が完了し、観音寺工場と丸亀工場が生まれている。1935年には倉敷毛織を設立して羊毛事業に入り、1936年には本体が羊毛工業およびスフ紡へ進出して多角化をはかった。研究所を手放してからの6年で、倉敷紡績は綿以外の繊維へ品目を広げ、工場の数も増やした。恐慌のあいだに絞った先は社会事業であり、本業の設備ではなかった[11][12]

研究所は1936年7月に創立15周年を迎え、8月には倉敷絹織で人絹工業の職業病防止研究を始めた。10月には第15回日本生理学会総会を研究所で開いている。そして同年11月、倉敷労研は解散式を行い、大原孫三郎氏が若干の維持費を添えて日本学術振興会に寄託し、東京へ移った。工場の敷地に建てられた研究所は、15年で倉敷を離れた。研究者の職場は、会社でも個人でもなく、学術振興の枠組みへ移った[13]

紡績だけが残った十年

会社に残ったのは工場であった。1938年には愛媛県に北条工場が竣工し、1942年には木曽川工場が生まれ、東京出張所が開かれている。研究所を手放した1930年から十年あまりの倉敷紡績は、綿と毛の生産設備を増やし、販売の拠点を広げる方向に投資を集めた。恐慌の年に会社の帳簿から外したものが社会事業であり、そのあとに増やしたものが紡績と織布の設備であった点に、この判断の性格が表れている[14]

その先は統制であった。日華事変から太平洋戦争への突入後は紡績業への統制が強まり、業界の統合が進む。倉敷紡績は国光紡績など紡織三社を合併し、染色会社二社を傘下に加えて、綿糸布の製造から染色加工までの一貫体制を築いた。1944年には社名を倉敷工業へ変え、一部の工場を軍需兵器工場に転換している。終戦時には生産設備の七割を失った。社会事業を個人へ移した会社は、戦時下では合併と軍需で形を変えた[15][16]

出典・参考

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