この決断の核心は、鉄鋼流通という本業の外側に築いた金融収益への依存を、経営陣がどこまで自覚し制御できるかという一点にあっただろう。北茂氏の下で膨らんだ財テクは、当初は実需の為替ヘッジの延長線上にあり、株価が右肩上がりの間はむしろ収益源として評価されていた。しかし、収益構造が本業と金融運用の二本立てになった時点で、金融市場の反転がそのまま経営そのものを揺るがすリスクを抱えていたことがうかがえる。
北修爾氏の再建が示したのは、危機の処理そのものよりも、意思決定の集中を合議へ開き直すという組織のつくり直しの過程だったといえる。社長への手紙による実態把握、社外役員の招聘、資本金を原資とする前例のない自社株消却——いずれも、一人の経営者の判断力に会社の命運を委ねない体質への転換を意図したものだった。独立系商社が金融市場との距離をどう測るかという問いは、阪和興業のその後の経営においても、形を変えて繰り返し立ち返る論点であり続けている。