財テク膨張からの脱出と8期ぶりの復配
バブル期の財テクが残した8期連続無配に、創業家3代目・北修爾氏はどう向き合ったか
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- 概要
- 1983年に第2代社長へ就いた北茂氏が財テクで運用資産を最大3兆円超に膨らませたのち、株価急落と山一証券との損失処理問題を経て、1994年に社長交代した北修爾氏が本業回帰の再建に転じ、8期連続無配から脱した経営判断。
- 背景
- バブル期、阪和興業は転換社債・ワラント債で調達した資金を特金・ファントラ・外国債券で運用し、財テク企業の代表と呼ばれる規模の収益構造を築いていた。山一証券との一任勘定取引をめぐる損失処理も、後年、証券取引法上の疑惑として表面化した。
- 内容
- 1994年2月に就任した北修爾氏は財テクからの撤退と本業重視を宣言し、社員からの手紙による実態把握、社外役員の招聘、東西本社の人事交流を進めた。1997年には資本金そのものを原資とする前例のない自社株消却で累積損失を解消した。
- 含意
- 独立系商社が本業の外側に築いた金融収益へどこまで依存できるかを問う事例であり、危機の教訓は経営陣が合議で判断する体質として後年に引き継がれた。
本業の外側に築いた収益への依存をどう測るか
この決断の核心は、鉄鋼流通という本業の外側に築いた金融収益への依存を、経営陣がどこまで自覚し制御できるかという一点にあったとみることができる。北茂氏の下で膨らんだ財テクは、当初は実需の為替ヘッジの延長線上にあり、株価が右肩上がりの間はむしろ収益の柱として評価されていた。しかし、収益構造が本業と金融運用の二本立てになった時点で、金融市場の反転がそのまま経営そのものを揺るがすリスクを抱え込んでいたことがうかがえる。
北修爾氏の再建が示したのは、危機の処理そのものよりも、意思決定の集中を合議へ開き直すという組織のつくり直しの過程だったといえる。社長への手紙による実態把握、社外役員の招聘、資本金を原資とする前例のない自社株消却——いずれも、一人の経営者の判断力に会社の命運を委ねない体質への転換を意図したものだった。独立系商社が金融市場との距離をどう測るかという問いは、阪和興業のその後の経営においても、形を変えて繰り返し立ち返る論点であり続けている。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
「財テク企業の代表」への転身 ── 北茂社長就任と運用拡大
1983年、阪和興業は創業者・北二郎氏の実弟である北茂氏を第2代社長に迎え、財務を営業と並ぶ収益部門へ育てる方針を掲げた。1992年までにスイスフラン建ての転換社債とワラント債を合計約4,000億円分発行し、調達した資金の大半を特定金銭信託・ファンドトラスト(特金・ファントラ)や外国債券での運用に充てた。1988年からはコマーシャルペーパーを大量発行して大口定期預金の運用も始め、運用資産は最大3兆円超に達し、本業の鉄鋼流通で得る粗利と金融収益の二本立てが同社の収益構造となった[1]。
財テクは、北茂氏が実需取引の為替ヘッジで含み損を出したことをきっかけに、為替市場への関心を強めたことから始まったとされる。北修爾氏は後年、「財テクは私の叔父の茂が83年に社長になって始めたものだが、商社としての実需取引であるドルヘッジに含み損が出て、それから社長として為替に関心を強めたことが始まりだと思う」と振り返り、社長室の隣に社長直属の為替ディーリングルームが設けられていた実態を明かしている。ニクソンショックによる固定相場制の崩壊と1984年の為替管理の実需原則撤廃、大蔵省の金融規制緩和が、この動きを後押ししたとみられる[2]。
山一証券との一任勘定取引と1,093億円の損失
財テクを支えた資金運用の一角には、山一証券との一任勘定取引があった。山一証券は阪和興業とグループ8社(シー・ピー・ユー、黒川鉄工、トーヨー建鉄など)との間で元本と利回りを保証する一任勘定取引を結び、1992年1月末時点で運用委託額は約1,668億円に上っていた。このうち実損256億円、評価損837億円の合計1,093億円が損失として発生しており、証券取引法の改正で損失補填が禁じられた1992年1月以降も、実質的な救済関係がなお続いていたことをうかがわせる規模だった[3]。
1992年3月18日、阪和興業の社長室では、山一証券の行平社長ら4名と、北茂社長以下5名が秘密会談を開いた。山一側は当初、現先取引としての処理を主張したが、阪和側は貸し金だと反論し、最終的に金利を含めた貸付金として処理され、阪和興業側に評価損の責任は一切ないとされた。山一証券は無担保社債の引き受け・買い取りやコマーシャルペーパーの継続的な引き受けを通じて返済に協力することを確約し、この会談の様子はテープに記録されていたという。証券取引法の規制強化をすり抜けるようなこの処理は、5年後の1997年になって東洋経済の取材で表面化した[4]。
決断
株価急落と北修爾氏への社長交代
1990年3月に4,460円の最高値をつけた阪和興業の株価は、バブル崩壊による運用資産の評価損拡大とともに急落し、1993年には387円まで沈んだ。信用不安が広がるなか、通商産業省で27年の経験を積んだ北二郎氏の長男・北修爾氏は1993年6月に常務として入社し、いったんは米国法人副社長として送り出された。ところが半年後、急きょ帰国を求められ、1994年1月、北茂社長の退任発表と同時に約1,300億円規模の特別損失が新聞各紙で報じられ、北修爾氏は51歳で再建を託された[5][6]。
北修爾氏は1994年2月、51歳で阪和興業の社長に就任した。霞が関の元同僚からは「よく焼け火ばしを握ったなあ」と言われるほどの重責だったが、本人は営業基盤と資産が残っている以上、財テク資産を損切りしても債務超過には陥らないとの見立てを持っていたという。就任後は財テクからの撤退と本業重視の経営を宣言し、1993・94年度に1,000億円超の特別損失を計上して資産処理を急いだ[7][8]。
「社長への手紙」と分断された会社の一体化
就任した北修爾氏は、目安箱の故事に倣って「社長への手紙」を全社員に募った。全社員の3分の1にあたる約400人から回答が寄せられ、社内の問題点が浮かび上がった。最大の問題は、大阪本社を会長の北二郎氏が、東京本社を社長の茂氏がそれぞれ率い、実質的に会社が二つに分断されていたことだった。人事の定期交流も乏しく、いびつな組織状態にあったという[9]。
北修爾氏は社外役員を招いて客観的な経営監視を求めるとともに、東京・大阪両本社間の人事交流を進めて組織の一本化を急いだ。中期経営計画の策定にも着手し、上意下達と下意上達の双方向で、部門間の壁を越えて議論を重ねたという。取引銀行や高炉メーカーをはじめとする取引先からの支援も、この時期の再建を支えた[10]。
結果
ウルトラCの自社株消却 ── 資本金を原資にした前例なき手法
1997年10月8日、阪和興業は自社株1億株を買い取って資本減少を実施すると発表した。通常、自社株消却は剰余金の範囲内で行うが、阪和興業は財テク処理で剰余金も資本準備金も使い果たしていたため、手持ちの現預金と借入金で自社株を買い取り、資本金そのものを消却原資とする、証券市場で前例のない手法を採った。一株300円を上限に、取引所外での公告買い付けという形をとり、12月には定時株主総会を待たずに臨時株主総会を招集して資本減少を決議する運びとした[11]。
この措置には、株式の持ち合い解消という市場全体の課題への回答と、累積損失の解消による復配体制の整備という2つの狙いが込められていた。阪和興業は財テク損失の穴埋めのために保有銀行株の大半を手放しており、銀行側からみれば持ち合いは「片持ち」の状態になっていた。翌年に迫る早期是正措置を控え、銀行が保有株式の圧縮を急ぐ事態に備える狙いもあったとみられる。北修爾社長は「取引先はよく決断した、と。社員も会社はいい方向に動いている、と感じてくれている」と手応えを語った[12][13]。
8期ぶりの復配と引き継がれた教訓
財テク損失の清算は長期に及び、1994年3月期から8期連続の無配が続いた。在庫回転と粗利管理を徹底し、即納体制で築いた中堅・中小ユーザーとの取引を積み上げる地道な手法を重ねた結果、2002年に阪和興業は8期ぶりの復配を実現した。半期ごとに取引銀行へ決算を説明しに行く日々を、北修爾氏は後年「本当に心苦しかった」と振り返っている[14][15]。
2017年、設立70周年を迎えた阪和興業は非創業家出身の古川弘成社長の下で拡大を続けていた。財テク膨張から復配までの18年を経た北修爾会長(当時)は当時を振り返り、「難しい案件は、それが本当に会社のためになるのかどうか、経営陣全員がよく議論する。トップの独断専行に陥らないようにすることが大事だ」と述べ、社長一人に判断が集中した体制こそが危機の根にあったとの見方を示している[16]。
- 週刊東洋経済 1997年4月26日号「[特集]5月危機説の内実 山一証券を襲う重大疑惑の真相」
- 週刊東洋経済 1997年10月25日号「[フラッシュ]阪和興業 ウルトラCの自社株消却」
- 週刊東洋経済 1997年11月22日号「[特集]追跡!「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」
- 週刊東洋経済 2017年5月20日号「証言7 財テクの深傷から再興 阪和興業会長 北修爾」
- 日本経済新聞(2014年10月6日)「財テク時代の光と影 北茂氏」
- 阪和興業 会社年鑑(1994年版)