オービック大企業向けERPと成果主義の見直し、創業者・野田順弘氏の社長復帰

年商1,000億円級へ売り先を広げるか、直販と内製で守れる範囲に戻るか——参入から3年での判断

時期 2006年2月
意思決定者(推定) 野田順弘 代表取締役会長兼社長
論点 経営体制と事業の範囲
概要
2006年2月、2003年4月に会長へ退いていた創業者の野田順弘氏が代表取締役会長兼社長に就き、社長職へ戻った。年商1,000億円前後の大企業向けERPへ売り先を広げ、四半期の数字で社員を評価する体制を敷いた3年を、直販・内製・新卒育成という創業以来の型へ引き戻す判断であった。
背景
2003年3月、オービックは大企業向けの「OBiC7 EX」を発表し、SAPや日本オラクルを使う規模の企業へ参入した。同年4月に野田順弘氏は会長へ移り、後任の社長が成果主義を導入して、社員評価を1年単位から四半期ごとの数字重視へ改めた。
内容
数値目標に追われた営業は赤字の見込まれる案件でも受注し、SEは無理な納期で残業を重ね、消化できない分の外部委託が膨らんだ。野田会長は2005年、13年連続で営業成績1位だった横浜支店長の橘昇一氏を東京へ呼び、営業とSEを同一フロアに置く製販一体へ改めたうえで、翌2006年2月に自ら社長へ戻った。
含意
不採算案件は7〜8割減り、上がっていた離職率も下がった。橘昇一氏は2024年の取材で、20年ほど前に社内での全面内製へ本格的に取り組み、受注が落ちてもよいと社内へ伝えたと述べている。2006年3月期に売上457億円・経常利益152億円だった業績は、2013年3月期に売上503億円・営業利益194億円へ伸びた。
筆者の見解

創業者が戻ってきて何を止めたか

2003年からの3年で試されたのは、大企業向けの製品が作れるかどうかではなく、中途を採らず外注も増やさない会社がどこまで受注を伸ばせるかであった。「OBiC7 EX」は200ユーザーの同時接続に耐える構成まで仕上がっていたし、売上も利益も減ってはいない。壊れたのは工数のほうで、四半期ごとの数字を追う評価が、社員の育つ速さより早く受注を集めてしまった。野田順弘氏が2006年2月に社長へ戻って止めたのは大企業向けの製品というより、人の準備を待たずに売る仕組みだったとみられる。

創業者の再登板は、後継の失敗を創業者が引き受ける話として読まれやすい。ただ、この会社の場合、戻ってきた野田順弘氏がその後の7年で用意したのは、自分の次に社長を務める人物と、その人物が動かす製販一体の現場であった。2005年に横浜から呼ばれた橘昇一氏は2007年に専務、2008年に副社長、2013年に社長へ進んでいる。橘社長が2024年に「ここまで来るのに20年かかった」と語ったその20年は、野田順弘氏が社長の椅子に戻った2006年2月から数えると、ほぼそのまま重なる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

中堅企業向けを直販で固めた収益構造

2000年代前半のオービックは、中堅・中小企業向けの基幹業務システムを代理店なしで売る会社であった。営業とシステムエンジニアが同じ顧客を担当し、導入後の保守まで自社の社員が続ける。この作りが顧客の側の安心につながっており、他社より少し割高でも4年間担当者が変わらないと評価する取引先もあった。業績は2002年3月期に売上高396億円・経常利益102億円、2003年3月期には売上高401億円・経常利益113億円と、規模より利幅の厚さが目立つ形で伸びていた[1][2]

人の採り方も、この売り方に合わせて作られていた。創業当初に営業職の人材が定着せず苦しんだ経験から、野田順弘氏は中途採用をやめ、自ら面接した新卒を一から育てる方針を長く続けた。人を育てる速さが会社の伸びる速さの上限になる代わりに、顧客の業務を知る社員が社内に残る。受注の量を増やそうとすれば、この上限に触れる構造であり、規模の拡大と社員一人あたりの厚みは、同社では最初から一つの資源を取り合う関係にあった[3]

年商1,000億円級への参入と会長交代

2003年3月、オービックは年商1,000億円前後の大企業を対象とするERPパッケージ「OBiC7 EX(仮称)」を上半期中に出荷すると発表した。年商500億円規模の中堅企業向けに作った「OBIC7」を土台に、「OBiC Server」と呼ぶミドルウエアを挟んで200ユーザーの同時接続に耐える構成へ改めた製品で、SAPやオラクルの製品を使う大企業からオービックのシステムを求める声があったことが参入の理由に挙げられた。中堅企業向けで磨いた業種別のノウハウを、一段大きな売り先へ持ち込む試みであった[4]

その翌月、2003年4月に野田順弘氏は代表取締役会長へ移り、社長の職を後任へ譲った。1968年の設立以来、35年にわたって社長を務めた創業者が第一線を退いた交代であった。新しい社長は業績の拡大を狙って成果主義を導入し、社員の評価を従来の1年単位から四半期ごとの数字を重視する形へ改める。長期の目線で若手を見る「マラソン経営」と呼ばれてきた社内の空気は、ここで変わった[5][6]

決断

四半期の数字が呼び込んだ不採算受注

評価の単位を四半期に縮めた影響は、受注の中身に出た。営業は成績を上げるために赤字の見込まれる案件でも取り、SEは無理な受注のために残業を重ね、それでも消化できない分は外部への開発委託に回る。委託が増えれば採算はさらに悪くなり、多くのシステム会社が陥る循環へ入った。野田会長はこの時期を「青いリンゴ(不採算案件)を食べて腹痛を起こしているような状態だった」と振り返っている。中途を採らない会社にとって、外注の膨張は自社に残らない工数が増えることを意味した[7]

表面の数字は、この間も伸び続けていた。連結売上高は2003年3月期の401億円から2006年3月期の457億円へ、経常利益は113億円から152億円へ増えている。それでも社内では離職率が上がり、夏休みを取る余裕も失われた。売上と利益が伸びるかぎり異変は決算では見えず、人の入れ替わりと外注比率という、決算書の外にある指標に先に現れる。基幹システムを10年単位で預かる商売では、担当者が辞めることが顧客の側の損失に直結した[8][9]

2005年の橘昇一氏招集と、2006年2月の社長復帰

危機感を強めた野田会長は2005年、13年連続で営業成績1位を続けた名物社員で当時は横浜支店長を務めていた橘昇一氏を東京へ呼び寄せた。橘氏はそれまで別のフロアで作業していた営業とSEを同じフロアへ移し、机を並べる製販一体へ改めている。両者が近くで話すようになったことで、無理な納期の設定や取ってはいけない受注を手前で避けられるようになり、営業にSEが同行して技術の込み入った話ができる利点も加わった[10]

そして2006年2月、野田順弘氏は代表取締役会長兼社長に就任した。2003年4月に会長へ退いてから2年10か月、67歳での社長復帰であり、以後2013年に橘昇一氏へ社長を譲るまで会長と社長を兼ねた。人事の形だけを見れば創業者の再登板だが、実質は評価の単位を四半期から元へ戻し、売り先を自社の人員で守れる範囲へ引き直す判断にあたる。中途を採らず外注も増やさないという前提を動かさないと決めた以上、受注の側を絞るほか道はなかった[11][12]

結果

内製への引き戻しと、20年かけた作り直し

製販一体へ改めた後、不採算案件は7〜8割減り、伸び悩んでいた営業利益率は上向いた。上がっていた離職率も下がり、入社3年以内の離職率4%という水準に戻っている。橘昇一氏は2024年の取材で、20〜30年前には売上を増やすため外注先を頼っていたが、顧客の要望に外注先へ聞かないと答えられず機会損失が多発したと述べ、20年ほど前に社内での全面内製へ本格的に取り組んだと語った。社内へは「5年、10年で成果を見ていくから、受注が落ちてもいい」と伝えたという[13][14]

数字の回復には時間がかかった。連結売上高は2006年3月期の457億円から2011年3月期まで460〜480億円の範囲で足踏みし、2013年3月期にようやく503億円へ乗せている。一方で営業利益は同じ期に194億円まで積み上がり、利幅の厚さという同社の特徴はこの間に濃くなった。大企業向けを永久に捨てたわけでもない。橘氏は2024年に、業種別のノウハウを部品として蓄えたうえで数年前から大手企業へも提案を始め、よい結果が出ていると述べている。売り先を広げる順番が、人と部品の準備の後ろへ回された[15][16]

出典・参考
  • オービック 有価証券報告書 第39期(2006年3月期)【役員の状況】【主要な経営指標等の推移】【従業員の状況】
  • オービック 有価証券報告書(連結業績・2006年3月期〜2013年3月期)
  • 日経コンピュータ(2003年3月26日)「オービック,大企業向けERPを初投入」
  • 週刊東洋経済 2009年2月7日号「中途採用ゼロ、独自の新人育成で好業績」
  • 週刊東洋経済 2024年2月24日号「ビジネスモデルの達人に聞く オービック社長 橘昇一」

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