五島家の個人支配の終焉と、バブル期に膨らんだ非中核事業の整理
五島昇会長の死後、遠心力の働く362社のグループを、横田二郎社長は集団指導体制でどう立て直そうとしたか
更新:
- 概要
- 1980年代に文化事業やリゾート、消費者クレジットへ広げた非中核事業がバブル崩壊で不振に陥り、東急が1995年3月期に特別損失429億円を計上して整理へ転じた判断。1989年の五島昇会長の死で創業家の求心力が薄れるなか、横田二郎社長を核とする集団指導体制のもとで、鉄道・不動産・生活サービスへ経営資源を絞り込んだ。
- 背景
- 多摩田園都市の開発利益に支えられた東急は、地価が上がり続ける前提のもとで損益に無頓着な体質を抱えていた。五島昇会長は1983年に3C(CATV・カルチャー・消費者クレジット)を重点新規事業に据え、文化事業へ数百億円を投じたが、単体では採算が見えなかった。1989年に会長が死去すると、362社に広がったグループに遠心力が働いた。
- 内容
- バブル崩壊で地価が下落し、リゾート・百貨店事業の不振が表面化した。1995年3月期の連結売上高は4,697億円、経常利益は220億円だったが、特別損失429億円の計上で当期純利益は19億円に沈んだ。創業家五島家の影響力が薄まるなか、東急はバブル期に膨張した事業を縮小し、鉄道・不動産・生活サービスへの選択と集中を1990年代後半の基本テーマに据えた。
- 含意
- 非中核事業の整理は、五島昇会長個人の求心力に頼った経営から、組織による運営への移行を伴った。開発利益に頼れなくなった東急は守りの経営へ転じ、2000年の渋谷マークシティ開業を皮切りとする渋谷再開発と、2019年の持株会社化へ進む財務的な足場を整えた。
恵まれた土地が尽きたとき
この判断の中心にあったのは、五島家という創業家個人の統率と、地価上昇を当て込んだ開発利益に頼ってきた経営を、どう組織の経営へ移すかという問いであった。多摩田園都市の開発利益は、損益への大らかさと非中核事業への拡張を同時に許してきた。バブル崩壊はその前提を崩し、五島昇会長の死は求心力の空白を残した。特別損失429億円は、両方の後始末を一度に迫る数字だったとみることができる。好況のなかで自発的に絞り込んだのではなく、損失に追われて非中核を手放した点に、この整理の性格がうかがえる。
もっとも、整理そのものは東急に守りの時間を与えた。非中核を手放して身軽になった東急は、渋谷という自らのターミナルへ資源を集め、2010年代の渋谷ヒカリエ以降の再開発と、2019年の持株会社化へ進む足場を得た。創業家の求心力に代わって組織が経営を担う体制は、鉄道と不動産を別の意思決定ラインで動かす今日の構造にまでつながっている。土地と地価に恵まれた会社が、その恵みが尽きたときに何を頼りに立て直すのか。五島家の王国が終わった1990年代は、資本効率を重んじる現在の東急経営の、遠い出発点にあたるとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
「量から質」への3C戦略と田園都市の開発利益
東急が非中核の領域へ手を広げた背景には、五島昇会長が主導した「量から質」への戦略転換があった。1983年初頭から、東急グループ内では3Cという言葉が重点新規事業の象徴として使われた。CATV(有線テレビ)、カルチャー、消費者クレジットの三つで、いずれも鉄道や宅地の販売とは異なる生活・情報の領域である。五島会長は総工費186億円の東急文化村をはじめ数百億円を文化事業へ投じたが、単体では採算の見通しが立たず、投資の規模のわりに切迫感は乏しかった[1]。
こうした投資への大らかさの根には、多摩田園都市の開発利益があった。東急総合研究所の新井喜美夫所長は、多摩田園都市の開発が大成功したために東急グループ全体が損益に無頓着になっていると内部から批判した。地価が上がり続けるために土地を売っても残額が減らず、金勘定にこだわらない体質が生まれていた。鉄道の敷設費用を含め累計6,000〜7,000億円を投じた田園都市開発は、そのままグループの成長を支える蓄えとなっていた[2][3]。
五島昇会長の死と求心力の低下
1989年、東急グループの総帥だった五島昇会長が死去した。創業家の二代目として拡大を主導した会長を失い、グループの求心力は弱まった。1991年、362社に及ぶ東急事業団は横田二郎社長を核とする集団指導体制で運営されたが、遠心力が働くばかりのグループの先行きを危ぶむ声は強かった。個人の統率に代わる仕組みをどう作るかが、五島家の去った後の東急に突きつけられた課題であった[4]。
五島家の影響力を保とうとする動きも表面化した。日経ビジネスは、五島家への大政奉還の動きが表面化してきたと伝え、3代目のトップ就任が求心力になるか、株式持ち合いの強化が成功するかどうかを問うた。創業家個人に依存した統治を続けるのか、組織による経営へ移るのか。バブル崩壊で地価が下がり、リゾートや百貨店の含み損が表面化し始めた時期に、東急はこの選択を迫られていた[5]。
決断
特別損失429億円という区切り
バブル崩壊で地価が下落すると、田園都市の開発利益を前提とした経営は続けられなくなった。1995年3月期、バブル期に拡大したリゾート・百貨店事業の不振が表面化し、東急は特別損失429億円を計上した。含み益を頼りに広げてきた非中核事業の価値が失われ、その損失をまとめて処理する年になった。田園都市の開発利益がグループの拡大を支えてきた流れが、逆回転に転じたことをこの数字は示していた[6]。
もっとも、決算そのものが赤字に転落したわけではなかった。1995年3月期の連結売上高は4,697億円、経常利益は220億円で、鉄道と不動産の本業は稼ぎを残していた。しかし特別損失429億円が最終利益を削り、当期純利益は19億円にとどまった。バブル期に膨らませた非中核事業の後始末が、この期の利益をほとんど吸い上げた。数字のうえでも、拡大から整理へと経営の主題が移った年であった[7]。
個人支配から組織経営への転換
特別損失の計上は、一度きりの会計処理にとどまらなかった。創業家である五島家の影響力が薄まるなかで、東急は経営再建に転じた。非中核事業を整理する方針のもとで、バブル期に膨張した事業ポートフォリオを縮小し、鉄道・不動産・生活サービスへの選択と集中を1990年代後半の基本テーマに据えた。文化事業や消費者クレジット、リゾートへと広げた拡大路線は、ここで縮小と選別へ切り替わった[8]。
整理は、体質の問題でもあった。田園都市開発が終われば東急は終わりだと二十年前から言われながら、地価が上がり続けたために土地を売っても残額は減らず、金勘定にこだわらない体質が保たれてきた。バブル崩壊はその前提を崩した。地価の上昇を当て込んだ拡大が通用しなくなり、五島昇会長個人の統率のもとで大らかに広げてきた事業を、組織として選別し直す必要が生じた。特別損失429億円は、その転換を数字のうえで突きつけた[9]。
結果
グループ結束強化と、露呈した経営不振
五島家の去った後のグループをどう束ねるかは、1990年代を通じて課題であり続けた。1998年、東急グループは結束を強めるため、上場・公開企業14社で構成する4つの委員会を新設した。経営企画担当の役員を集めるグループ運営委員会のほか、事業推進・人材交流・広報の各分野で協力体制を組む。約400社に及ぶグループ企業の意思疎通を、大手を中心に強める狙いであった。渋谷の本社跡地での大規模再開発など、組織の力を要する事業を控えていたことも背景にあった[10]。
もっとも、結束の呼びかけの裏には各社の深刻な不振があった。東急グループの株式公開企業のうち6社がすでに無配に陥り、東急建設は1998年3月期に上場以来初となる経常赤字17億円を計上して、不動産や有価証券の売却を柱とする再建計画に入った。航空会社の日本エアシステムも営業赤字が6期続き、不採算路線からの撤退や人件費のカットに追われた。バブル期に広げた事業の傷みは、グループ各社の決算に一様に表れていた[11]。
守りの経営と、渋谷への集中
非中核の整理と並行して、東急は次の収益源を渋谷に求めた。多摩田園都市の区画整理は2000年の犬蔵地区を最後に一段落し、約40年続いた宅地開発の大きな山を越えた。同じ2000年、渋谷マークシティが開業し、渋谷駅周辺の再開発が動き始めた。首都圏へ人口を運び込む沿線開発の時代から、渋谷ターミナルと都心の不動産価値を引き出す時代へ、東急は事業の重点を移した。鉄道単独での収益拡大に天井が見え、不動産事業への比重を高める流れが本格化した[12]。
不採算事業からの撤退も続いた。2001年に石油販売事業を終え、2002年には旧・東亜国内航空の流れをくむ日本エアシステムが日本航空グループと経営統合し、東急は航空事業から退いた。バブル期に手を広げた領域を一つずつ手放し、鉄道・不動産・生活サービスへ資源を集めていった。1990年代の特別損失処理から始まった整理は、2000年代前半にひととおりの区切りを迎え、渋谷再開発へ資金と組織を振り向ける財務の足場が整った[13]。
- 日経ビジネス 1988年4月11日号「東急グループ『量から質』へ、壮大な実験の行方は?」
- 日経ビジネス 1991年5月6日号「東急グループ 戦略なき五島王国の行方」
- 日経ビジネス 1998年7月13日号「東急グループ、結束強化で浮上狙うが…」
- 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
- 東京急行電鉄 会社年鑑(連結業績・1995年3月期)