住友金属鉱山住友家直営の別子銅山と四阪島製錬所の分離、住友別子鉱山の設立
家法書が「万世不朽の財本」と記した事業を、住友合資会社はなぜ自らの手元から外したか
- 概要
- 1927年7月、住友合資会社は直営してきた別子鉱山と四阪島製錬所などを分離し、資本金1,500万円の住友別子鉱山株式会社を設立した。1691年の稼行開始から数えて236年、住友家が直に抱えてきた鉱山事業が、初めて独立した鉱山会社の形を得た。
- 背景
- 明治期までの住友家の事業は別子銅山の経営がほとんどを占め、家法書は別子を「万世不朽の財本」と記していた。1921年に住友総本店が資本金1億5,000万円の住友合資会社へ改組されたあと、傘下の直営事業は順に別会社へ移されていった。
- 内容
- 別子鉱山と四阪島製錬所などを住友合資会社から切り出し、資本金1,500万円の鉱山会社として独立させた。1928年ごろには住友合資の直系会社は13社、その公称資本金は1億8,500万円に達している。
- 含意
- 住友別子鉱山は1937年に住友炭礦を合併して住友鉱業となり、井華鉱業・別子鉱業を経て1952年に住友金属鉱山へ改称した。別子銅山は1973年に操業を終えたが、1927年に分けられた法人は残った。
家が持つものを、勘定が持つものへ
236年続いた直営の解消を、近代化の一環と呼ぶだけでは足りない。住友家は1882年の家法書で別子を「万世不朽の財本」と記し、日清戦争のころまで事業はほとんど別子一本であった。その別子を、1927年に住友合資会社は自らの直営から外し、資本金1,500万円という値のついた一会社の資産へ置き換えた。家の名で持っていたものを法人の名義と勘定へ移したところに、この判断の芯があるとみられる。
もっとも、法人にしたことで別子が強くなったわけではない。国内の産銅高は1922年に5万4,000トンまで落ち、鉱山の数も1929年には半減していた。煙害の賠償は1939年の中和工場完成まで残り、新会社はその負担ごと事業を引き受けている。別子銅山は1973年に尽き、残ったのは会社のほうであった。事業が終わっても法人は続く——住友合資会社が1927年に選んだのは、その順番であったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
家法書が「万世不朽の財本」と呼んだ鉱山
住友家の鉱業は、十六世紀の終わりに京都で銅の製錬を始めたことにさかのぼる。銀と銅を吹き分ける「南蛮吹き」の技術を早くから身につけた住友家は、元禄三年(1690年)に別子銅山を発見し、翌四年に幕府の許可を得て稼行に着手した。以後、別子銅山は幕府や諸大名を相手とする金融業と並ぶ住友家の事業の中心となった。維新の戦乱では土佐藩に一時接収され、売却の議さえ出たが、手放されずに明治を迎えた[1][2][3]。
別子への傾斜は、家の掟にも書き込まれていた。1882年の住友家法書は別子の鉱業を「万世不朽の財本」と呼び、その盛衰が一家の興廃にかかわると記す。1892年の家法書も別子を「我が一家累代の財本」と繰り返した。日清戦争のころまでの住友家の事業は、ほとんど別子銅山の経営一本であり、鉱石を掘り出して製錬し、型銅の形で売る一本槍が長く続いた。家と鉱山は事実上ひとつの勘定の内側にあった[4]。
住友合資会社の直営と、後退する銅市況
明治の後期から、住友家は別子から枝分かれした事業を次々に会社の形へ移していった。1909年に住友本店を住友総本店と改め、1911年には電線製造の部門を住友伸銅場から分けて住友電線製造所を設け、1912年に住友銀行を株式会社へ改組した。1921年には事業の中心である住友総本店そのものを資本金1億5,000万円の住友合資会社に改組し、別子鉱業所・住友伸銅所・鴻之舞金山などを直営しつつ、住友銀行や住友倉庫を統轄する持株会社を兼ねる形をとった[5][6]。
一方、銅を取り巻く市況はこの間に後退していた。国内の産銅高は1917年の10万8,000トンから1922年には5万4,000トンへ落ち、1917年に八十余を数えた鉱山は1929年に四十余まで半減した。アフリカやチリの新興銅山が低い費用で銅を産み、米国では湿式製錬法が広がって世界の供給が増えたため、1920年に産銅カルテル水曜会を結んでも日本の銅市況は戻らなかった[7][8]。
決断
236年目の分離
1927年7月、住友合資会社は直営していた別子鉱山と四阪島製錬所などを切り離し、住友別子鉱山株式会社を設立した。資本金は1,500万円で、住友家の鉱山事業が初めて独立した鉱山会社の形を得た。設立の月については、住友金属鉱山の有価証券報告書が1927年7月とし、『会社銀行八十年史』は1927年6月と記す。いずれにせよ、1691年の稼行開始から236年を経て、家が直に抱えてきた事業が法人の名義と勘定へ移った[9][10]。
この分離は別子だけを対象とした一回きりの措置ではなかった。住友合資会社は傘下の直営事業を順に別会社へ移し、あるいは新たに会社を興していき、1928年ごろには直系会社が13社、その公称資本金は1億8,500万円に達した。住友合資自身の資本金を加えた総額は3億3,500万円である。別子の法人化は、この会社組織化がひととおり進むなかで、最も古い事業に手をつけた一件であった[11]。
煙害の負担ごと引き渡された事業
新しい会社が受け取ったのは、鉱山と製錬所だけではなかった。別子の操業で長く最大の難問だったのが、亜硫酸ガスによる周辺農作物などへの煙害である。1905年に製錬所を新居浜沖の四阪島へ移しても被害は収まらなかった。支出した賠償金は1939年までに、1968年時点の価格に見積もって50億円を上回る額に達している。1927年に分離された資産は、この賠償を抱えたままの鉱山と製錬所であった[12]。
煙害の抜本的な解決は1939年の中和工場の完成を待った。排煙中の亜硫酸ガスを皆無にする設備が動くまでの十数年、住友別子鉱山とその後身の住友鉱業は、賠償を払いながら操業を続けている。四阪島の製錬所は別子の坑口から海を隔てた場所にあり、鉱山と製錬所という一連の設備が、賠償という継続する負担ごと新会社へ渡された。住友家の勘定の内側に収まっていた収益と負担が、この分離によって一つの会社の損益として毎期おもてに出るものへ変わったとみられる[13][14]。
結果
住友鉱業への合併と、社名の連続
設立から10年後の1937年6月、住友別子鉱山は住友炭礦を合併し、資本金2,700万円の住友鉱業となった。同じ1937年には住友合資会社そのものも株式会社住友本社へ改組され、住友の事業群は本拠を含めて会社の形に揃った。その前の1934年11月には、別子の付帯事業だった新居浜製作所が分離独立して住友機械製作となっており、別子から生まれた事業が独立していく流れも続いていた[15][16]。
戦後の財閥解体でも、この法人はかたちを変えながら残った。1946年1月に社名を井華鉱業と改め、1950年3月には過度経済力集中排除法にもとづいて金属部門を分けた別子鉱業が発足し、同年6月に東京証券取引所市場第一部へ上場した。1952年6月には別子鉱業から住友金属鉱山へ改称している。1927年に作られた鉱山会社の系譜は、社名を四度替えながら現在の上場企業まで続いた[17][18]。
別子銅山そのものは1973年3月に操業を終えた。1691年の稼行開始から282年で、住友家が「一家累代の財本」と呼んだ坑道は尽きた。別子の名は1950年設立の別子鉱業を最後に社名から消えていたが、1927年に切り出された法人は、製錬と材料の事業を抱えて鉱源の枯渇のあとも存続している。事業の寿命と会社の寿命が別のものになったことが、ここではっきり見て取れる[19]。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「鉱業・住友金属鉱山」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「鉱業・産銅業」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「会社企業発達史・大資本制覇確立期の会社」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「会社企業発達史・戦時経済への移行期の会社」
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 住友金属鉱山 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】