DOWA の歴史

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創業 1884年
創業者 藤田伝三郎
創業地 秋田県鹿角郡
創業
1884年9月、藤田伝三郎の藤田組が明治政府から秋田の官営小坂鉱山の払い下げを受けた。金・銀・銅・亜鉛・鉛が混じる黒鉱は分離が難しく、取得から十年は製錬技術が立たずに赤字が続いた。1898年1月に乾式製錬、1902年6月には黒鉱自溶製錬の操業へこぎつけ、1906年に小坂を国内一の産出額へ押し上げる。1919年3月に豊崎圧延工場を設けて金属加工へ広げ、1945年12月に商号を同和鉱業へ改め、1949年7月に東京証券取引所へ上場した。2006年10月に持株会社へ移り、現在のDOWAホールディングスとなった。
決断
製錬所へ入れる原料を、自山の鉱石から輸入鉱、そして廃棄物へ替えてきた。1971年2月、鉱石輸入の比率が上がって自山鉱の優位が崩れるなかで臨海型の秋田製錬を設立して輸入鉱へ切り替え、収益源を鉱山から製錬能力へ移す。国内採掘が終わったあとは、2002年4月に小坂製錬へ自動車シュレッダーダストの処理炉を置き、2006年10月には持株会社へ移って5つの事業会社へ分割した。同じ炉で家電と自動車の廃材から金・銀・銅を取り出す構えに変えたことが、鉱山を持たないまま製錬を続ける形を作った。
現況
売上の15%を占める環境・リサイクルが、事業利益の3割を生んでいる。2026年3月期の売上高は7,454億円、営業利益は342億円、当期純利益は625億円だった。製錬が売上3,522億円・利益197億円で最大だが、環境・リサイクルは売上1,111億円で165億円を稼ぎ、利益率は15%に達する。金属加工1,473億円・98億円、電子材料961億円・11億円、熱処理340億円・27億円が続く。1999年11月に始めたROAを物差しにした事業構造改革で資産と人員を圧縮したことが、鉱山を持たない会社が製錬で稼ぎ続ける採算を残した。
競合
非鉄大手のなかで、原料の入り口を廃棄物へ移したのはDOWAだけである。住友金属鉱山は2011年にチリのシエラゴルダ銅鉱山を取得し、鉱山権益で原料を確保する道を採った。三井金属は2001年に神岡鉱山の採掘を止めて電子材料へ移り、輸入精鉱とリサイクル原料で製錬を続けている。DOWAは2019年7月にメキシコのロス・ガトス鉱山を動かす一方、家電と自動車の廃材を集める側で規模を作り、環境・リサイクルを製錬に次ぐ収益源へ育てた。2025年4月には亜鉛関連3社を秋田製錬へ統合し、2030年度までに1,000億円規模を秋田の一拠点へ投じる。地金価格の上下ではなく、受け入れる廃棄物の量と処理料が採算を決めるようになり、鉱山を買い増す2社とは原料の入り口が分かれた。
DOWA:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 藤田組と鉱山事業の確立、黒鉱自溶製錬への挑戦 (1884年〜)

閉山指示を覆した久原房之助の技術革新

1881年に藤田伝三郎が兄弟三名の出資を得て藤田組[1]を正式に設立し、1884年には明治政府から官営小坂鉱山の払い下げを受けて鉱山経営に参入[2]した。開発資金は元長州藩主の毛利家から20万円を借り入れて調達する形で確保されたという経緯を持つ。[3]小坂鉱山は金・銀・銅・亜鉛・鉛という複数の金属成分が混合した特異な黒鉱を産出[4]する珍しい鉱山であり、これらの金属を効率的に分離する製錬技術の確立こそが事業化の最大の鍵として長期にわたり認識されていた。鉱山取得後の初期は試行錯誤が続き、経営的には苦しい局面が続いた。

  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
    • [1]1881年に藤田伝三郎が兄弟3名(藤田伝三郎・兄藤田鹿太郎・久原庄三郎)で藤田組(合名会社)を組織
  • DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1884年9月 藤田組が明治政府から官営小坂鉱山の払い下げを受け鉱山経営に参入
    • [4]小坂鉱山は金・銀・銅・亜鉛・鉛が混在する黒鉱を産出し、各成分の分離製錬が事業化の鍵だった
  • 藤田組史
    • [3]小坂鉱山取得の開発資金として旧長州藩主毛利家から20万円を借り入れ

取得から十年を経過しても製錬技術は確立されず赤字経営[5]が続いたため、融資元の毛利家から小坂鉱山の正式な閉山指示が出された。しかし閉山処理のために着任した久原房之助は事業継続の必要性を強く主張し、井上馨[6]の個人的な支持を得ることで閉鎖指示の撤回を実現するという歴史的な巻き返しを果たした。1902年にはついに黒鉱自溶製錬の技術が確立されて生産が本格化し、1906年には小坂鉱山[7]が生産額で国内全鉱山中一位を達成するという逆転を成し遂げた[8]。閉山の危機を乗り越えて技術革新によって成功を勝ち取った経験は、藤田組の経営哲学の原点として長く社内で語り継がれた。

  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
    • [5]取得から十年を経ても製錬技術が確立せず赤字が続き、融資元の毛利家から閉山指示が出された
    • [6]閉山処理に着任した久原房之助が事業継続を主張し、井上馨の個人的支持で毛利家の閉山指示撤回を実現
    • [8]1906年に小坂鉱山が国内全鉱山中の生産額一位を達成
  • DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1902年(6月)小坂で黒鉱自溶製錬の操業を開始(生産が本格化)

黒鉱自溶製錬の成功は日本の非鉄金属業界における技術的な画期として評価され、藤田組は一挙に国内有数の鉱山会社としての地位を獲得した。久原房之助が示した事業継続への強い意志と技術的挑戦への情熱は、その後の藤田組・同和鉱業の経営文化の核心を成す要素として組織の中に受け継がれ、何度もの危機を乗り越える原動力となり続けた。小坂鉱山の技術的成功は単なる一企業の成果にとどまらず、日本の鉱山業全体の近代化に貢献する象徴的な出来事として広く認知された。

  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
    • [1]1881年に藤田伝三郎が兄弟3名(藤田伝三郎・兄藤田鹿太郎・久原庄三郎)で藤田組(合名会社)を組織
    • [5]取得から十年を経ても製錬技術が確立せず赤字が続き、融資元の毛利家から閉山指示が出された
    • [6]閉山処理に着任した久原房之助が事業継続を主張し、井上馨の個人的支持で毛利家の閉山指示撤回を実現
    • [8]1906年に小坂鉱山が国内全鉱山中の生産額一位を達成
  • DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1884年9月 藤田組が明治政府から官営小坂鉱山の払い下げを受け鉱山経営に参入
    • [4]小坂鉱山は金・銀・銅・亜鉛・鉛が混在する黒鉱を産出し、各成分の分離製錬が事業化の鍵だった
    • [7]1902年(6月)小坂で黒鉱自溶製錬の操業を開始(生産が本格化)
  • 藤田組史
    • [3]小坂鉱山取得の開発資金として旧長州藩主毛利家から20万円を借り入れ

花岡・柵原の取得が生む鉱山分散の戦略

小坂鉱山の鉱脈品位の低下に備えるため、藤田組は新規鉱山の取得を積極的に進める経営方針を打ち出すこととなった。1915年には秋田県の花岡鉱山を128万円で買収したが、買収直後に品位低下に見舞われるという不運に見舞われる局面を経験した。[9]しかし翌1916年に堂屋敷大鉱床を発見するという幸運を得て、花岡鉱山は小坂鉱山に次ぐ主力鉱山に成長した[10]。同年には岡山県で11の小規模鉱山を統合して柵原鉱山を新たに形成し[11]、硫化鉱の安定的な供給拠点を確保する動きも並行して進められた。

  • 創業百年史同和鉱業 1985年「花岡鉱山買収」
    • [9]1915年 秋田県の花岡鉱山を128万円(128万円)で買収
  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
    • [10]1916年 堂屋敷大鉱床を発見し、花岡鉱山が小坂鉱山に次ぐ主力鉱山に成長
    • [11]1916年 岡山県で11の小規模鉱山を統合して柵原鉱山を形成(硫化鉱の供給拠点)

非鉄金属鉱山と硫化鉱山という性質の異なる鉱種を組み合わせて取得することで、単一鉱山への依存から意識的に脱却する分散戦略が藤田組の経営方針として明確化された。秋田県と岡山県という地理的にも異なる場所に分散した複数の鉱山で収益基盤を確保する体制が構築され、藤田組は国内有数の鉱山会社としての基盤を一段と固めていくこととなった。小坂のみに頼らずこの間に操業を開始あるいは買収した鉱山は三十を超え[12]、藤田組はわが国産銅界の四大会社の一つに数えられて明治末から大正にかけて当時の諸財閥と並ぶ地歩を築いた[13]。鉱種と地理の両面における分散戦略は後年の経営危機を乗り越える際の重要な支柱となり、同社の経営の柔軟性を支える構造的な要素として定着した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [12]小坂以外に操業を開始あるいは買収した鉱山は30以上にのぼり、花岡鉱山・柵原鉱山もそこに含まれた
    • [13]藤田組はわが国産銅界の四大会社の一つに躍進し、明治末から大正にかけて当時の諸財閥と並ぶ地歩を築いた

藤田組は1917年に財閥形態へ移行して鉱業部門を藤田鉱業[14]として分離し、第一次大戦後の不況と昭和初期の金融恐慌を経て、1937年3月には合名会社藤田組を合併して株式会社藤田組へと改組[15]した。さらに太平洋戦争下の1942年5月には帝国鉱業開発と東北興業[16]という二つの国策会社が資本参加し、戦時統制下で同社の経営は国策と深く結びついた。こうした変遷を経て1945年には役員の一新を機に商号を同和鉱業へ変更し[17]、戦後は1949年に東京証券取引所に上場を果[18]たして独立した上場企業としての歩みを開始した。1884年の小坂鉱山取得から数えて60年余りに及ぶ鉱山経営の蓄積が、戦後の独立企業としての再出発の基礎を形成する重要な経営資源となった。[19]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [14]大正6年(1917年)藤田組が財閥形態をとり、鉱業部門が藤田鉱業(原文「藤田鉄業」)として分離した
    • [15]昭和12年(1937年)3月 合名会社藤田組を合併して株式会社藤田組へ改組した
    • [16]太平洋戦争中の昭和17年(1942年)5月 帝国鉱業開発と東北興業の二国策会社が資本参加した
  • DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1945年 役員の一新を機に商号を同和鉱業株式会社に変更(戦後20年12月)
    • [18]1949年(7月)東京証券取引所に株式上場
    • [19]1884年の小坂鉱山取得から数えて約60年(founding.mdでは65年)に及ぶ鉱山経営の蓄積
  • 創業百年史同和鉱業 1985年「花岡鉱山買収」
    • [9]1915年 秋田県の花岡鉱山を128万円(128万円)で買収
  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
    • [10]1916年 堂屋敷大鉱床を発見し、花岡鉱山が小坂鉱山に次ぐ主力鉱山に成長
    • [11]1916年 岡山県で11の小規模鉱山を統合して柵原鉱山を形成(硫化鉱の供給拠点)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [12]小坂以外に操業を開始あるいは買収した鉱山は30以上にのぼり、花岡鉱山・柵原鉱山もそこに含まれた
    • [13]藤田組はわが国産銅界の四大会社の一つに躍進し、明治末から大正にかけて当時の諸財閥と並ぶ地歩を築いた
    • [14]大正6年(1917年)藤田組が財閥形態をとり、鉱業部門が藤田鉱業(原文「藤田鉄業」)として分離した
    • [15]昭和12年(1937年)3月 合名会社藤田組を合併して株式会社藤田組へ改組した
    • [16]太平洋戦争中の昭和17年(1942年)5月 帝国鉱業開発と東北興業の二国策会社が資本参加した
  • DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1945年 役員の一新を機に商号を同和鉱業株式会社に変更(戦後20年12月)
    • [18]1949年(7月)東京証券取引所に株式上場
    • [19]1884年の小坂鉱山取得から数えて約60年(founding.mdでは65年)に及ぶ鉱山経営の蓄積

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DOWAの沿革1884〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1884〜1944年藤田組と鉱山事業の確立、黒鉱自溶製錬への挑戦DOWAホールディングス創業——藤田組が受けた官営小坂鉱山の払下げから黒鉱自溶製錬による再生へ

1884年9月、長州萩出身で奇兵隊を経た藤田伝三郎氏の藤田組が、明治政府の工場払下概則の改正を受けて秋田県北秋田郡小坂村の官営小坂鉱山の払下げを受け、鉱山業へ参入した。金・銀・銅・亜鉛・鉛が混在する黒鉱の製錬に長く苦しんだが、現場の久原房之助氏が1902年6月に黒鉱自溶製錬の操業に成功し、1906年には小坂が国内全鉱山中の生産額一位に達した。戦時統制を経て1945年12月に同和鉱業株式会社へ改称し、1949年7月に東京証券取引所へ上場している。

詳細を読む
★★★
小坂で水力発電を開始
小坂で黒鉱乾式製錬の操業を開始
小坂で黒鉱自溶製錬の操業を開始★★
国内で有力鉱山を買収★★
豊崎圧延工場を新設し金属加工事業に参入★★
豊崎伸銅所を設立
1945〜2001年鉱山縮小と事業転換の模索、希望退職への踏み切り商号を同和鉱業に変更
久留島秀三郎東京証券取引所に株式上場
久留島秀三郎東京熱処理工業を子会社化し熱処理事業に参入★★
新井友蔵花岡松峰鉱床を発見
新井友蔵電子材料事業に参入
新井友蔵臨海型亜鉛製錬所・秋田製錬の設立と、自山鉱から輸入鉱への原料の切り替え

1971年2月、同和鉱業が輸入鉱を原料とする臨海型の亜鉛製錬所として秋田製錬を設立し、翌1972年11月に秋田市飯島へ秋田工場を置いた。内の岱・松峰という大鉱床の発見が続いて国内鉱山が産出の頂点にあった時期に、自山鉱の処理では追いつかない製錬能力の不足を、海に面した新設備で埋めた投資である。

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★★★
新井友蔵鉱山の規模縮小・人員削減を実施★★
小森英夫環境リサイクル事業に参入
小森英夫危機突破特別委員会を発足
西田堯半導体材料研究所を新設
韮谷定敏小坂製錬所を分離・小坂製錬を設立
韮谷定敏塩尻工場を新設・セラミック基板の製造
原田謙三亜鉛鉱山の操業開始(ティサパ鉱山)
金谷浩一郎1999年の緊急対策に始まる事業構造改革と、ROAを物差しにした資産・人員の圧縮

1999年11月、同和鉱業が当時の従業員の1割以上に相当する希望退職の募集と賃金カットを含む緊急対策を発動し、翌2000年度から3年間でROAを2%から5%へ引き上げる中期計画に着手した。指揮したのは同年6月に専務へ昇進したばかりの吉川廣和氏で、2002年に社長へ就いた後も資産圧縮を続けた。

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★★★
金谷浩一郎廃棄物処理事業に参入
2002〜2023年環境・リサイクル企業への転換と過去最高益の達成吉川廣和吉川廣和氏が社長就任・環境リサイクル事業に集中投資★★
河野正樹持株会社制への移行と5事業会社への会社分割、原料の鉱石からリサイクルへの切り替え

2006年6月28日の第103回定時株主総会の決議により、同年10月1日をもって商号を同和鉱業からDOWAホールディングスへ変更し、5つのコア事業部門を会社分割で各事業会社へ承継する持株会社制へ移行した。同年3月には本社を秋葉原へ移している。事業の単位を鉱山や工場ではなく、環境・リサイクル、製錬、電子材料、金属加工、熱処理という機能で切り直した再編である。

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★★★
河野正樹リーマンショックにより赤字転落
山田政雄熱処理事業を本格展開
山田政雄熱処理事業に参入
関口明亜鉛鉱山の操業開始(ロス・ガトス鉱山)
関口明金属市況の高騰により過去最高益
関口明環境・リサイクル事業に参入
出典・参考
  • DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
  • 創業百年史同和鉱業 1985年「花岡鉱山買収」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 藤田組史

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