構造改革を発表・希望退職者を募集
新事業の撤退判断を先送りし資産売却で利益を捻出する経営体質
1990年代を通じて同和鉱業は業績が低迷した。バブル期に主力の製錬事業に次ぐ新事業の開発を推進したものの、採算性に基づく事業撤退の判断を先送りにしたため、全社の連結業績は増収減益の基調が続いた。利益については有価証券や土地の売却によって捻出しており、事業そのものから創出される利益は限定的であった。本業の収益力が低下する一方で、取得原価の低い土地や有価証券の売却益で決算を維持する構造は持続性を欠いていた。
同和鉱業の組織文化にも構造的な課題が存在した。鉱山会社としての歴史と伝統に依拠した体質が根付いており、手続きを重視する本社中心の官僚主義的な意思決定、事業の存廃が社内政治で左右される風土、非鉄金属の在庫や借入金を保有すること自体をステータスとする慣行が定着していた。吉川廣和氏(当時専務)はこの状態では会社の将来が見えないと判断し、抜本的な事業構造改革の必要性を社内に訴えた。しかし、社内の大半は改革に反対する姿勢を示した。
10名の改革チームを編成し希望退職322名を募集
社内の大多数が反対する中、同和鉱業は構造改革の推進を決定し、吉川廣和氏を中心とする10名のチームを編成した。人員削減を伴う改革であり組織全体の反発が予想されたことから、全社的な合意形成ではなく少数チームによる計画策定に踏み切った。推進チームでは吉川氏が改革プランの策定を主導し、労働組合との対立を経ながらも具体的な施策を取りまとめた。前任の金谷浩一郎社長は改革推進派の吉川氏を後任候補に据える判断を下した。
1999年11月に同和鉱業(金谷浩一郎・社長)は業績悪化を受けて構造改革の遂行を発表し、人員削減のために希望退職者の募集を決定した。2000年2月までに322名が応募し退職した。改革開始後は事業の縮小に伴い売上が減少し、2年間にわたって業績が悪化したが、吉川氏は方針を堅持した。3年目の2002年頃から利益が回復し始めたことで、改革の妥当性が数値で裏付けられ、吉川氏が2002年4月に社長に就任する布石となった。